クリオネ

落水 彩

クリオネ

「これが海の妖精?」

 

「そう、クリオネ」

 

 黒を用いた壁紙が付いた水槽には、ゆらゆらと揺蕩う小さな水棲生物。

 彼らは自分たちが妖精だと呼ばれている所存も知らないのだろう。そもそも「クリオネ」と名前がついていることだって理解しているとは思い難い。

 

「かわいいなぁ」


 水槽を覗き、スマホで写真を撮りながら微笑を浮かべるのはクラゲ、のような淡い水色のワンピースを纏った少女。

 癖のないショートボブも、ワンピースの裾にレースがあしらわれているのも、彼女のクラゲ感をアップさせる。

 おまけに頭についているのはクラゲのヘアピン。ファッションに疎い俺でも、コーデのテーマはクラゲと分かるようなものだった。


「で、なんでクリオネ?」


「知らないの? クリオネは幸せを運んでくれるんだよ」


 水槽の光が反射して碧に染まった少女の瞳に見つめられる。

 嫌味もマウントも感じない、混じりっ気のない純粋な目。もう中学生だというのに、幼子のような屈託のない笑顔をキラキラと海の水面のように輝かせている。


「幸せ、ね」


 それで言うなら、もう十分なくらい俺は幸せだ。

 家族間の仲はよく、一人っ子であるがゆえに愛情も独り占めできる。裕福ではないかもしれないが、暮らしに困ったことはない。遊びに行くといえばお小遣いももらえるし。

 それに、隣にはスイがいる。

 クリオネに見惚れているスイとは、幼稚園来の仲だ。

 

 スイは後天性の心疾患を患っており、園や学校を休みがちで同級生の輪に入れなかった彼女と、昔から友達を作るのが苦手な俺は、気づけばそばにいることが多かった。

 今日も水族館へ行きたい行きたいとねだられ、こうして二人で来ている。恋人という仲ではないが、彼女のわがままには応えてやりたいと思った。


「それにしても珍しいな。前みたいにクラゲエリア直行じゃないのか」


「今日はクリオネの気分なの。限定公開だし」


「その割にはお前、クラゲを体現したような格好だな」


「それは、水族館に行くときはこの格好って決めてるから」


 口を尖らせる彼女はまるでタコのようだった。

 こんなこと、彼女に伝えたら怒るだろうな。

 タコを横目に、水槽の横に取り付けられた展示プレートを目でなぞる。

 

「別名ハダカカメガイ……って、こいつら貝なのか」


 貝といえば、アサリやシジミなどの二枚貝やサザエのような立派な殻を持つ巻貝のイメージが強い。

 目の前で翼のようなヒレを絶えず動かす妖精は、イカの仲間と言われた方がまだ納得できる。


「頭に突起があるでしょ。ナメクジみたいな」


 先ほどまで口を尖らせていた彼女は、再び目を輝かせてガラスの向こうを指差した。


「うん、あるな」


「こう見ると、殻を持たない貝って解釈できない?」


 その後も正式名称がデウス・エクス・マキナみたいなかっこいい名前がついていることや、寒さや飢餓に強いことも聞かされた。

 スイに聞けば、魚や水の生き物に関しての知識がスラスラと出てくる。まるで水の生き物専門の生き字引だ。


「——そろそろイルカショー始まんぞ」


 小一時間ほど、クリオネの水槽の前にいたと思う。豆知識を聞くのは悪くないが、そろそろ他の生き物も見て回りたい。


「あー……うん」


 名残惜しそうに水槽から目を離す少女の横顔が忘れられなかった。


「どうした、まだ見るか?」


「いや……あ!」


 目を見開いた彼女は、吸い寄せられるように水槽に張り付いた。


「バッカルコーン!」


 水槽を覗くと、クリオネの頭の突起部分が裂け、自身と同じくらいの大きさの獲物を捉えている。


「グロ」

 

 先ほどの愛らしい妖精のような見た目からは想像できないほどの豹変っぷりだった。

 

「すごいすごい! やっと見れた!」


 顔をしかめる俺とは反対に少女は手を叩いて歓喜の声を漏らしている。

 比較的静かな水族館であんまりはしゃがないでほしいと思いつつも、今の彼女の気持ちに水を差す気にもなれず、よかったな、と一言だけ返した。

 彼女の声をきっかけに、小さな水槽に続々と人が集まって来た。


「じゃあ、そろそろ行こっか!」


 あれだけ釘付けになっていた少女もようやく満足したのか、クリオネに向かって軽く手を振ると、軽快なステップでその場を後にした。


 二人で横に並ぶと道を塞いでしまいそうな狭い廊下を渡り歩く。壁には手のひらサイズの四角い鏡がいくつも取り付けられていた。暗い廊下を照らすのは小さなライト。まるで光が差し込む海の中のようだった。


「あー良かった、バッカルコーン見られて。レアなんだよ? ね、結構面白いでしょ。クリオネ」


 得意げにスイが話しかけて来た。


「面白いってか、怖い。あんな見た目して結構凶暴だし」


「そこがいいんだよ」


「ふーん、スイに似てんな」


「どこが!」とムキになるスイを軽くあしらう。その後、少女は「バッカルコーン!」と必殺技のように唱え、両方の人差し指をツノのように構えて襲ってきた。表情の割には、ノリノリであった。

 

「ほら、こうやってすぐ手が出るところだよ」

 

「もう、ミナトいじわる」


「今に始まったことじゃないだろ」


 別に俺は自分を優しいと思ったことはないし、誰かに優しくしてきたこともない。両親、特に母親からの気持ちには応えたいところだが、優しくするよりされる方が多いし、結果そこに甘えている自覚はある。

 スイにだってそうだ。幼馴染で友達の少ない俺に構ってくれる良き理解者だと思っているからこそ、彼女に対しての扱いが雑になっている気がしなくもない。


「でもさ、こうやって昔から急な誘いでも二つ返事で来てくれるの、優しいよね」


「別に。暇だったし、学校休みの日くらい外出ようかと思っただけ」


「……嫌じゃなかった? 嫌だったらその……」


 スイの声が小さくなった。唐突に水族館に誘い、自分のお目当ての水棲生物に我を忘れるほど釘付けになっている彼女らしからぬ発言だった。

 目も泳ぎ、口は次の言葉を紡げずにパクパクと動かしている。まるで空気を欲しがっているようで、苦しそうに映った。


「嫌じゃないけど。どうした?」


 スイはふと、足を止めた。太陽に雲がかかったように、スイから笑顔が消えていた。


「あのね、また、しばらく来られなくなっちゃうから、その前に見ておきたかったし、会っておきたかったの」


 しばらく来られなくなる。彼女の言葉の意味が瞬時にわかってしまう。心臓がどくん、と一際大きく波打った。


「それって」


「今度の手術、五十パーセントなんだって」


 その値が何を示すかわからないほど俺だって馬鹿じゃない。


「もしかしたら、また今度がないかもしれないから、」


 そこから先は言葉にならなかった。あたりには鼻を啜る音だけが響いた。暗い海の底には俺とスイ以外は誰もいなかった。

「今度がない」と言う部分だけが嫌に頭に残って反響する。最悪な結果を想像しそうになって頭を振った。


「バッカルコーン」


「へ?」


 眼を腫らしたスイが顔を上げる。溢れて止まらない涙はワンピースに水玉模様を作った。


「見れたじゃん。珍しいんだろ」


「うん」


「スイは運がいいんだよ。だから、今回もきっとうまくいく」


 つくづく無責任な発言だと思う。こんなことしか言えない自分が腹立たしい。ただ、いつも海岸に打ち寄せる波のように賑やかなスイを少しでも元気づけたかった。弱気にはなってほしくなかった。

 彼女の抱える不安は計り知れないし、俺が何を言ったって所詮他人事に聞こえてしまう。もどかしい。それでも、彼女の不安が少しでも軽くなればいいと思った。


「じゃあさ、もし、もしさ、私が元気になったら、ミナトはまた一緒に来てくれる?」


 彼女の声は震えていた。胸が締め付けられるような感覚に陥って苦しかった。

 スイの方が苦しいはずなのに、彼女は無理やり笑顔を作って俺の返答を待っている。


「ああ、そんときは俺から誘う」


「へへ、待ってる」


 幸せを運ぶ妖精がいるなら、スイのところへ、ありったけの幸せを運んでほしい。

 浮遊する小さな妖精を思い出しながら、祈るようにスイの手を取った。

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クリオネ 落水 彩 @matsuyoi14

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