エトワール

@Canopuss

※あくまで個人の感想です

表現することはこの上なく好きだ。しかし、表現といっても様々な種類がある。絵を描いたり、音楽を奏でたり、物語を綴ったり。時に、 絵を描くということは一瞬の感情表現である、と。そう考える人は多いだろう。色彩の寒暖、景色の... 表情だったり。そういったものを絵にのせる。そして、それは、観る者にも伝わる。たとえそういったイメージがなくとも、相手は何かしらの感情を読みとる。だから絵というのは素晴らしいのだ。


ところで、エドガー・ドガという芸術家の事は知っているだろうか。彼の代表作の1つと言えば、生前に唯一発表された彫刻作品「14歳の小さな踊り子」だろう。彼はピカソやブラックに比べれば、知名度は劣るかもしれないが、当時の人々に多大な影響を与えた巨匠だ。それもそのはず。ドガが活躍したのは19世紀後半で、印象派が台頭してきた時代でもある。


ドガは「瞬間」を描き取ることに執念を燃やしていた。バレーの踊り子をモデルに雇って熱心にポーズの研究を重ね、彼女たちの「一瞬」を「永遠」にするために膨大な時間を費やし、何百枚ものスケッチをもとに緻 密に計算しつくされたのち、作品は制作された。「遊びじゃないんだ。 これは戦いなんだよ」「印象派なんて言われて、いい気になってちゃダメなんだ。サロンに反旗を翻したつもりでも、実際には我々は世間から馬鹿にされたままじゃないか。生温いんだよ、今のままじゃ」彼が求めていたものとは? 試行錯誤の末に待つものとは? 「現実とは何か?それは、私が求めるもの、私が思いを寄せるものだ」作品を生み出すための壮絶な努力が、確かにそこにあったのだ。しかし、だ。ドガは人とぶつかることが多く「傲岸不遜」と称されることがあった。とある印象派の 画家は彼のことを「才能は素晴らしいが、人間性はひどい」「自分以外の世界全体を恨んでいる」「才能に見合った立場を得られない」と批判して いたのだ。その方の気持ちも、まぁ。わからなくもない。其の実、ドガ は印象派であるよりも、独立派であることを好んでいた。己のスタイルを強く訴え、他と関わることを拒んでいたのだから。「印象派」と呼ばれることを極端に嫌い、印象派展に出品しても尚、自分は印象派ではないと陳ずる始末だったのだ。ならば印象派展に出品しなければ良いではないかと言いたいところだが、管理運営の責任者であるからには、そうする他になかったのかもしれない。そうすることが、彼になに かしらのメリットを与えていたからなのかもしれない。つまりエドガ ー・ドガは正確には印象派ではない。印象派を内部分裂に追い込んだ異端児、とでも呼んでおこうか。誰あろう、ドガは紛うことなきモンスターなのだ。それはそれとして私はドガが好きだ。彼はもっと賞賛されるべきだと思う。ここで私が言いたいことは1つ。天才を定義するのは他人ではないということだ。自分の内側からあふれる感情がすべてなのだ。「私は好きじゃない」だとか「こんなのは芸術じゃない」とか、そういう他人の言葉や評価に惑わされるなと言いたいのだ。自分の心に従え。それこそが私たちの全てなのだから。彼が異端児だろうがモンスターだろうが、「印象派嫌い」だろうが誰に否定されようが、私はドガの描く絵が好きだ。それこそが、芸術というものだろう。しかし、そう 簡単に罷り通るはずもないのが現実である。あれよあれよと否定され た作品を群衆の前で「好きだ」なんて叫ぶのは、なかなか勇気のいることだろう。そうなった場合、「好き」を貫くことができるだろうか? しかし好きなものは「好き」だし、批判されるのは嫌だ。「やっぱり好きじゃない」なんて、裏切るようなセリフも言いたくない。だからこそ「好き」 を表立って叫ぶ事はしない。こっそりと心の中にしまっておくのだ。私だけがそれを好いている、なんて秘密も面白かろう。誰にも気づか れずに愛でている存在というイレギュラーはむしろ、「好き」の象徴になる。当然、彼彼女らの「好き」は違う。そうだ。私たちは、人間なのだから。だが、人間であるからこそ、新しい何かを見いだすことができる。まさしく、人間は森羅万象と共にある存在なのだ。

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