第2話 笑わなくなった彼
「トーマには、Serilionのメンバーになって、Serilionをスキャンダルから守ってほしいんだ」
ウサギにしか見えない天使は、そう言った。
今の状況があまりにも荒唐無稽なので、透真は自分の頬をつねってみた。ちゃんと痛かった。
「痛っ……本当に夢じゃないのか?」
「夢じゃないよ」
ミミルはにんまりと笑った。
「スキャンダルって、解散する原因になったあの報道のこと……?」
透真が尋ねると、ミミルは垂れた耳をパタパタと揺らし、頷いた。
「そう! 過去に起きたあの事件を防ぐためにね。『Serilionの復活』が叶わないと僕の評価に関わるんだよね……おっと、これはこっちの話」
「ああ、そうかよ。でもスキャンダルを防げって言ったって、俺は何をすればいいのかわかんねーぞ」
「方法ならあるよ。メンバーたちが仲良くなれば、危機も乗り越えられる。澪のスキャンダルは仲間との関係が崩れたせいで起きたから……っと、話し過ぎた。トーマは千景澪のことが好きなんでしょ? なら、頑張って落としてみればいいんじゃないかな」
「……は?」
ミミルの突拍子もない発言に、透真の思考は停止した。ミミルの話は事実だったが、透真は周りに「千景澪が好きだ!」なんて言いふらした覚えはない。SNS上ですら、ただのファンの振りをしていたのだ。この秘密を知っているのは、親友のフライだけだった。
「ちょっと待て、なんでお前が俺の秘密を知ってるんだよ! 勝手に俺のこと調べたのか!?」
「天使だからね」
ミミルは短い両手を上げて、やれやれと言いたげな顔をした。腹立たしい天使の態度に、透真のこめかみがピクピクと痙攣する。
――このクソ天使め。千景澪と恋愛しろ、だ? 簡単に言っていいことじゃない。
透真は青筋を立てて天使を睨みつけた。だがミミルはお構いなしの様子で、どこかから紙の束を取り出して「久苑透真――アイドル・千景澪のガチ恋オタク。ほら、ちゃんと調査票に書かれてる通りでしょ」とつぶやいた。
天使の情報網は、か弱い人間の恋心さえも把握できるようだ。透真はげんなりとため息をついた。
「あーそうだよ、確かに俺はガチ恋オタクだけど! そもそもアイドル同士の恋愛なんて、そんなことしたら余計に問題が――」
「大丈夫、大丈夫! 内緒でこっそりうまくやればいいんだから」
「いや、そんな策より、報道を出した新聞社とか記者を調べたほうがいいんじゃ――」
「とにかく、今はレッスンに向かって! Serilionのみんなと顔合わせしてきてよ」
軽く言い切るミミルに、透真は頭を抱えた。こんな無茶苦茶な話、まともに聞いていていいのだろうか。だが、悩んでいる時間はなかった。律音からの電話の内容からすると、自分だけがダンスレッスンの時間に遅刻しているらしかった。慌ててスマホの画面を確認すると、律音の電話から既に30分が過ぎようとしている。
「……あーもう! ミミル! スタジオまで道案内してくれ」
「はいはい。こっちだよ~」
ふよふよと空中で浮遊する天使の後を追って、透真は駆けだした。
***
そのダンススタジオは、都内の薄暗い路地にひっそりと佇む、小さなスタジオだった。階段を駆けあがり足を踏み入れると、壁の片側がすべて鏡張りになっている部屋が目に入る。照明がフローリングを反射し、眩しさから透真は一瞬目を瞑った。気を取り直して目蓋を開ける。部屋に入った瞬間、湿った熱気が肌にまとわりつく。壁一面の鏡に自分の姿が映る。5人分の視線がこちらに向いていた。
――5人?
胸がざわめく。Serilionは、4人組だったはずだ。自分のいた世界との違いに、透真は違和感を覚えた。もうひとりの候補生はどこからやって来たんだ?
しかし、考える間もなく明るく話しかけてくる声があった。
「君がトーマだよね? 初めまして、俺は
「あ、うん。よろしく……」
差し出された手を、つい反射的に握る。目の前にいたのは、明るい茶髪の青年だった。子犬みたいな懐っこい笑顔が印象的だ。人好きのする見た目だったが、透真はこの少年を知らなかった。
――誰だ? こいつ。朝霧空翔なんて知らないぞ。
デビュー前のSerilionに追加メンバーがいたなんて、聞いたこともない。得体の知れない人間の出現に、ぞくりとした冷気が背筋を走る。
「俺は今年で20歳なんだ! トーマは同い年だったよね? 20歳同士、仲良くしよっ」
「えっ、20歳!? あ、ああ、そうだった。俺は20歳……ははは」
この世界で自分は20歳らしい。天使に知らされてなかった今の年齢を聞き、驚いて叫んでしまった。乾いた笑いで誤魔化して、すぐ側で浮遊していたミミルへ視線を向ける。
「そうそう、キリのいい数字をと思って20歳にしておいたよ! もっと若いほうがよかったかな?」
ミミルはなんでもないように答えた。どうやら天使の声は自分以外には聞こえていないようだ。透真はミミルをひと睨みしてから、まだ挨拶していない他のメンバーの元へ歩み寄った。
高梨龍之介は、オーバーサイズのフードパーカーといういかにもラッパー風のファッションに身を包み、こちらをからかうような視線を向けてきている。猫のように跳ね上がった目尻が特徴的だ。
「透真くん、初日から遅刻なんて尖ってる~!」
明るく話しかけてきた龍之介に「いやいや、そんなことは……よろしくな」と返すと、龍之介は嬉しそうにハイタッチを求めてきた。
「上京したてなんだよね、ここまで来るのも大変だったでしょ。わからないことがあったら俺に聞いてね」
九遠凌介は肩まで伸びた茶髪をかき上げ、優しげな笑顔を向けてくる。その落ち着いた佇まいからは、年長者らしい余裕が滲んでいた。「よろしくお願いします」と頷いてから、その輪の外にいる人物へと視線を向けた。
すると、こちらを睨みつけている神代律音と目が合う。神代律音は腕を組み、口元をわずかに引き締めている。鋭い目つきと、筋の通った姿勢。凛々しい顔立ちに黒髪と、いかにもな日本男児。リーダーらしい圧倒的な存在感があった。
「おい、集中しろ! 時間がないんだ。喋ってないでさっさと練習するぞ」
神代律音は、厳しい口調でメンバーたちを叱責した。彼は元の世界でもリーダーを務めていた男だ。デビュー前から仕切り始めているなんて驚きだったが、他のメンバーも大人しく従っている様子だ。
憧れていたアイドルたちを目の前に、固まってしまった透真を見て、律音は苛立った様子で近づいてきた。
「久苑透真! お前……初日から何をしてるんだ? 遅刻しておいて俺たちに謝罪もしない。最終テストで合格できないと、俺たち全員、事務所を辞めさせられるんだぞ。わかってるのか?」
「す、すみません……」
律音の威圧感がものすごかったため、透真は消えるような声で謝った。
――前世では自分の方が年上だったのに、つい謝っちまったじゃねえか。怖すぎる!
透真が内心震えていると、律音は咳払いをしてから声のトーンを下げた。
「……怒鳴って悪い。でも、お前が合格できなかったら、俺たち全員が終わるんだ。それを理解してくれ。――よし、じゃあ全員揃ったから、最初から曲かけして通すぞ!」
律音の声を合図に、メンバーたちがぞろぞろと部屋の中央に集まり出す。その時、まだ挨拶していなかった最後のひとりが透真の横を通り過ぎた。
それは――千景澪だった。
「澪くん……」
澪とすれ違う瞬間、透真の喉が詰まる。ぐっと息を呑んで堪えようとしたのに、視界が滲んだ。気づけば、頬を涙が勝手にこぼれていった。もう二度と会えないと思っていた。会いたかった。恋しかった……。様々な気持ちが複雑に絡み合い、ぐちゃぐちゃになっていた。
澪は名前を呼ばれて振り返った。そして、一瞬だけためらうように視線が揺れた。だが、すぐに澪は目を逸らし、にこりともせずに自分の立ち位置に歩いていく。
――……あれ、もしかして無視された? 千景澪は、誰にでも笑顔を向ける完璧なアイドルなのに。
思いもよらない澪の反応に、頭が混乱する。彼の態度は、まるでそこに透真がいないかのようだった。
前世での千景澪の笑顔を思い出す――冷徹に見える美貌が、ふにゃりと優しく崩れるような微笑み。推しカメラ動画で何度も何度も繰り返し見てきた、ファンを骨抜きにする笑顔だ。それなのに、今目の前にいる千景澪は……能面のように感情の見えない無表情だ。
「トーマ、大丈夫?」
澪を見つめたまま涙する透真を慰めようと、空翔は透真の背中を優しく叩いた。騒ぎを聞きつけ、凌介もすぐに透真の元へ駆けつけた。龍之介と律音はいささか困惑した顔で透真を眺めた。
その間も、澪だけは透真を見ようとせず、温度のない表情で一面の壁に貼られた鏡を見つめていた。
――千景澪って、こんな人だったか……? それとも、俺が本当の彼を知らなかっただけ?
憧れのアイドルの知らない表情に、心は乱れた。再会できたことは嬉しいのに、素直に喜べない。
前世で見ていた千景澪は、笑顔を武器にする完璧なアイドルだった。しかし、今の千景澪は『笑わないアイドル』だった。
「あーあ。律音くんが怖いから透真くん泣いちゃったじゃーん」
龍之介が律音をからかう。
「龍、うるさい。曲かけるから静かにしてろ」
律音が音楽機材を操作すると、Serilionのデビューシングル『Dawn's Promise』が流れ出す。大好きな曲を耳にして、透真の涙が更に溢れた。
『――夜明けの約束が呼ぶ ~♪ すべてに立ち向かおう、一緒に輝こう、止められない』
透真は嗚咽をこらえきれず、肩を震わせた。
透真が泣き続ける中、他のメンバーたちはキレのあるダンスを踊り始める。スタジオの中に「キュッキュッ」と靴底が床を滑る音が鳴り響く。動きが激しくなるにつれ、メンバーたちの呼吸は荒くなっていった。
曲の合間合間で、メンバーには律音からの注意が飛ぶ。
「澪、フォーメーションそこじゃない。今日は集中できてないみたいだな」
「龍、手の動きが違う!」
「……おい新入り、テンポずれてる! ちゃんと合わせろ!」
律音の怒声に、びくりと肩が震える。その声はよく切れるナイフのようだ。
――こんなはずじゃないのに……! この曲は何百回も見た。リズムも知ってるはずなのに!
頭で動きをトレースできても、上手く再現できなくて悔しかった。それでも、自分はSerilionを、この『Dawn's Promise』という曲を愛しているのだ。だから絶対に自分を認めさせてやるんだ――その一心で、透真は懸命に踊る。
急に動いたからか、筋肉が悲鳴を上げているように痛む。音楽のビートと呼吸が合わない。何度も踊った振り付けなのに、みんなについていくのが精いっぱいだ。ポーズを変えるたびに、律音の怒号が飛んでくる。髪の毛先から汗が滴り落ちるのを、ただ眺めている瞬間が続く。視線を上げると澪の冷たい目とぶつかって、心臓が凍りつきそうになった。
それでも必死に食らいついて、透真は曲の終わりまで踊り通した。全体練習の後、律音にマンツーマンで振りを教えてもらっていると、あっという間に一日が過ぎていった――。
「そろそろスタジオが閉まる時間だから、今日の練習はここまで! 各自で個人練習しておくように」
律音のその言葉で練習が終わる。律音がリードする練習は肉体的にも精神的にも辛かったが、遅れを取っていた自分に最後まで付き合ってくれたのは律音だった。透真は律音がリーダーになった理由がわかった気がした。
「つーかーれーたー! 空翔、夜飯食いにいこうよ」
現役高校生の龍之介は疲れたと言いつつも体力があるのか、空翔の背中に飛びつきながら笑った。
「透真くん、練習中ずっと泣いてたけど何かあった? 話なら聞くよ?」
年上メンバーの凌介が心配そうに透真へ話しかけてくる。
「……ありがとう。でも、もう平気!」
透真がアイドルらしくニッと歯を見せた笑顔を作ると、凌介は安心したように微笑み返した。
「凌介、ちょっといいか」
「うん、今行く!」
律音に呼ばれた凌介が廊下へと出ていくと、スタジオの中は透真と澪のふたりだけになった。途端に静まり返る室内。透真は緊張して、ごくりと唾を飲み込んだ。
澪はじっと透真を見つめた。何かを確かめるように。
「お前、透真……だっけ」
低く静かな声だ。記憶の中の千景澪のそれと同じはずなのに、何故か冷たく聞こえる。
「俺たち、どこかで会ったか?」
澪は不思議そうに透真へ尋ねた。顔を合わせた時の自分に対する透真の異様な態度を、彼なりに気にしていたようだ。
透真の胸が跳ねた。前世で、一度だけ千景澪と会ったことがある。透真にとっては忘れられない思い出だ。けれど、澪がそれを覚えているはずがない。
「今日が……初対面で……初対面、だよ……?」
危うく敬語を使って話しそうになった。慌てて言い直す。
今の自分は20歳。ファンじゃなくて、アイドルの仲間。そう心の中で必死に唱える。
澪は透真を見つめたまま、何かを考えるような表情を浮かべた。
「……そうか」
それだけ言って、彼は背を向けてスタジオの扉を開けて出ていく。その瞬間、外の冷気が入り込んできて、思わずぶるりと震える。
透真は、澪の背中を見送りながら思った。
この世界は、自分がいた前の世界とは違う。過去の出来事を、澪が覚えているわけがない……。それでも、一抹の寂しさを覚えてしまう。覚えてくれていたら、とても嬉しかったのにと。
――澪くんはどうして笑わなくなったんだ……?
見慣れていたはずの澪の輝く笑顔を、結局今日は一度も見られなかった。そのことが、どうしても引っかかる。
新しい人生が始まったばかりだというのに、透真の胸には言葉にできないざわめきが広がっていた。
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