Idol Restart ~推しと同じグループに転生しました~
雪水秋風
第1話 推しアイドルのデビューメンバーになったってどういうこと!?
アイドルの語源は、偶像――。だけど、彼らは単なる偶像なんかじゃない。
『君の笑顔が暗闇の中で、今――灯火になった』
あるひとりのアイドルが、歌いながらカメラを見上げた。その瞬間、透真の心臓が跳ねた。
ステージのセンターで踊る彼の、光を纏ったような立ち姿に目が奪われた。鋭いアーモンド型の瞳は、まるで中に星を埋め込んだみたいに輝いている。肌は雪のように白く、艶のある黒髪とのコントラストが美しい。鼻筋はさながら巨匠の作った彫刻品。花びらのように可憐な唇がうっそりと持ち上がると、魅惑的な笑みが生み出される。
ほかのアイドルも綺麗な顔立ちをしていたが、彼は群を抜いて綺麗だった。これがアイドルなのか、と見ている者を納得させるような洗練された動き。観客の心を、たった一瞬で掴んで離さない男。観客の視線を一瞬で奪い去るオーラ。彼がいるだけで、ステージの空気が変わる。
それは自分の凍りついた心すら溶かす熱さで、思わず息を呑んだ。
「この人、すごい……」
自然と感嘆の言葉が溢れ出す。
ステージ上で見せつける圧倒的な存在感。画面の向こう側まで射貫くような視線。透真は久しぶりに気分の高揚を覚えて、興奮冷めやらぬままにSNSを開いた。
長年インターネット上で親しくしている友人――ハンドルネーム『フライ』に、アイドルについて聞いてみる。
【布教してくれたSerilionの動画見たんだけどさ、最後センターで踊ってた人って誰?】
そんな文章を送ると、1分も経たないうちに返信が来た。友人は相変わらずネットに常駐しているらしい。画面の向こうで必死に文字入力しているであろう友人の姿を思い描いて、透真は笑った。
【4人の中で一番顔のいい男のことだよね? それなら、メインダンサー兼ビジュ担当の
【メンバーの名前聞いてくるってことは、もしかしてトーマもハマった!? Serilionの沼へようこそ~!】
【俺が持ってるライブの円盤、全部貸してあげるからさ、
友人を同じ趣味に引きずり込むことに成功したフライから、テンションの高いメッセージが次々と飛んできたが、透真はスマホをベッドの上に放り投げた。そして、自身もベッドの上へと仰向けに倒れ込む。
「……かっこよかったな、あの人」
透真は満足げなため息をついた。目蓋を閉じて気持ちを落ち着かせようとしてみたが、さっき目にした千景澪の視線が脳裏に蘇る。
千景澪のパフォーマンスが忘れられなかった。それはまるで心の奥深くに刻みつけられてしまったようだった――。
***
久苑透真が25歳を迎えた今年は、これまでの人生で最も悲惨な年だった。冬が深まり、雪が降り始めた頃、旅行に向かっていた家族が交通事故で亡くなった。被害の大きな事故だったため、家族――母、父、兄、全員が助からなかった。たまたま仕事で旅行に参加しなかった透真だけが生き残り、一瞬にして天涯孤独の身となった。
抜け殻のように茫然としている間に葬儀が終わり、四十九日が通り過ぎた。
ひとりで住むには広すぎる一軒家。かつて家族の笑い声や食器を動かす音で満ちていた空間も、今は静まり返っている。家の中にはもう、あの笑い声は響かない。食卓には、あの日のままの椅子が並んでいる。母が座っていた場所。父の煙草。兄が無造作に置いたマグカップ……。誰も戻ってこない。最後にみんなで食べたカレーの残り香が、どんどん薄れて消えていくのが寂しかった。そして部屋の中は春だというのに寒々しくて、指先が冷たくなっていくほどだった。
明るく元気なところが取り柄だと言われてきた透真だったが、家族を亡くしてからは日に日に元気をなくしていった。まるで、みずみずしかった花が萎れていくように。そのうち、職場へも行かなくなってしまうほどに。
無断欠勤が続き仕事を解雇された後は、誰もいなくなった静かな家の中で寝ころび、何をするでもなく天井を見つめる日々が続いた。
もう何もしたくない。だって喜びや悲しみも感じられない。心が麻痺してしまったから――透真がそうして心を閉ざしていたある日、SNSにログインしなくなった透真を心配したネット友達フライから連絡が来た。
フライとは数年来の友人だ。学生の頃、同じゲームが好きなことがきっかけで出会った。直接会ったことはなかったが、普段話している会話からすると、フライは病弱な体質のためよく病院に入院しているらしかった。そんな彼が、最近4人組アイドルグループ Serilionにハマっているという。
『仕事辞めたんだったら時間あるじゃん。Serilionのライブ見たら元気出るから、見てみてよ』
――その電話がきっかけだった。友人に布教されたSerilionのライブを見た日から、止まっていた透真の人生は再び動き始めた。
【Serilionのこと、もっと詳しく教えてくれ】
【そう言うと思ってた。俺がトーマを立派なSeraphsにしてみせるからな‼】
フライから聞いたSerilionの基本情報はこうだ――まず、千景澪。ステージに立つだけで空気を変える、ダークヒーローのようなカリスマ。完璧なビジュアルと、研ぎ澄まされたダンススキル。隙のない美貌なのに、ファンに向けるはにかんだ笑顔が可愛らしく、そのギャップがオタクに刺さりまくっているとか。
次は、
その律音と同い年で仲が良い
最後、4人目のメンバーは
【トーマ、澪推しなんでしょ? 特典会での神対応レポ見た?】
【特典会とやらが何かわからん】
【あー、トーマはアイドルオタク初心者だもんね。特典会は、CD購入者から抽選で当たったファンだけが参加できるアイドルとの接触イベントのこと。握手会とか、サイン会とか】
【フライはそういうの行ってるんだ?】
【行けるもんなら行ってるよ。俺、遠出無理だし。そもそも特典会なんてCD積まないと当たらないじゃん? 無理ゲー】
【へえー。アイドルオタクって金がかかるんだな】
【そんな冷めたこと言うなよ~。推しと数秒でも会話できるんだからいいじゃん! ほら、このレポ見てよ。40代のファンに神対応した澪、だって!】
フライはテンションの高いメッセージと共に、スクリーンショット画像を送ってきた。それは、特典会に参加したファンがSNSに投稿したものだった。デフォルメされた千景澪のイラストと『澪にこんなおばさんファンでごめんねって言ったら、謝る必要なんてないですよ。次は俺があなたにありがとうって言われるようなパフォーマンスを見せてみせますねって‼ ずっと笑顔で話してくれたし、引け目を感じてた自分が恥ずかしくなった』と書かれていた。
【澪は相手がどんなに美人でも男でも、対応を変えないことで有名なんだよ。すごいよなあ~。だからさ、トーマも一度は特典会に行ってみるべきだって! 俺の分まで見てきてよ。そんで、感想しっかり聞かせて】
フライは執拗に特典会を薦めてくる。ライブに行けないフライは、ずっと画面越しに応援している。でも、彼の言葉の端々に『本当は生で見たい』という願いが滲んでいた。もしかしたら、自身が行けない代わりにせめて友達に行ってほしいのかもしれない。フライは2年前のデビュー当時からSerilionを応援していたという。特定のひとりではなくSerilion自体、彼らの音楽や表現力が好きなんだと前に熱く語っていたことを覚えている。誰よりも熱狂的なファンなのにライブに行けないフライは、可哀想だった。
――フライのために特典会に行って、土産話を聞かせてやろうかな。
透真は少し指を躊躇わせながら、スマートフォンに文字を打ち込んだ。
【うーん、まあ、一度切りなら行ってみようかな。当たったらだけど……。それにしてもさ、男が男性アイドル応援してるって、変じゃないか? 周りは女性ファンばっかりだろ、なんか現場で肩身狭く感じそう】
【はあ~!? 今の時代にそんなこと気にしてる奴は時代遅れの化石だよ。人を好きになるのに性別なんて関係ないじゃん】
【いやそうだけどさあ。ライブとか特典会とか行って、白い目で見られそうっていうか。『男が来るな!』って怒鳴られたりして】
【安心しろって。そんな奴がいたら俺がそいつを晒し上げるから。ネットに】
【晒すのもダメだろ。なんにも安心できねーよ】
友人の過激な発言に笑いながら、透真は久しぶりに上着を手に取って身につけた。財布と鍵、イヤホンをポケットに入れてから、スマホを片手に家の扉を開けた。その瞬間、新鮮で暖かい風が透真を包み込んだ。鼻腔、視覚、肌のすべてで日差しの暖かさを感じる。
「暑っ……」
予想より高かった気温に驚き、思わず声が漏れた。
家に引きこもっていた間に春は過ぎ、太陽が輝く季節になろうとしている。止まっていた時間がもう動き出していたことが、泣きたいくらいに嬉しかった。
透真は音楽アプリを開いてSerilionの歌を聞きながら、足を前へと進めた。
『――夜明けの約束が呼ぶ ~♪ すべてに立ち向かおう、一緒に輝こう、止められない』
デビューシングル『Dawn's Promise』の歌詞に背中を押されるように、透真の足取りはどんどん軽くなっていく。
きっと、もう自分が立ち止まることはないだろう。透真はそう確信しながら鼻歌でメロディを奏でた。
***
Serilionのライブに行くためにアルバイトを掛け持ちした結果、幸運の女神は透真に微笑んだ。
ライブチケットの抽選発表日。『当選』の文字が輝いて見えるメールを見下ろして、透真は「……ッしゃあ!」とガッツポーズを作る。そして、満面の笑みを浮かべたまま友人へ喜びを伝えた。
【Serilionのチケット、当たった‼】
【ガチ!? うわあ~、おめでとう! 俺の分まで楽しんできて。あ、ライブの感想文しっかり考えといてな。後でレポート提出してもらうから】
【レポートって、学校の課題かよ!】
相変わらず筋金入りのアイドルオタクである友人の言葉に吹き出しつつ、透真は自室の壁に貼ってある千景澪のポスターを見つめた。
――これで、俺も実物の千景澪に会えるんだ。生身の千景澪を見たら、俺はどうなるんだろう。これがただの憧れなのか、それとも……。
少しの緊張と期待で胸をいっぱいにしているうちに、ライブ当日までの期間は矢のように過ぎていった。
そして、ライブ当日。
熱気と興奮に包まれたライブ会場の出口付近。開場前から胸を高鳴らせていたはずなのに、今の透真の心臓は別の理由で跳ね上がっていた。
まさかのまさか。幸運過ぎて怖いくらいだ――なんと、透真はライブ直前に行われる特典会にも当選したのだった。
震える指先で、フライに助けを求めた。
「どどどどうしよ。澪くんに何話せばいいのか、頭回らん、終わった」
『トーマ、落ち着いて! 長くても10秒くらいしか話せないから、話したいことひとつに絞って言えばいいんだよ』
「あの美を前にして話なんかできないだろ!? やばい、吐きそう……」
『落ち着けってば。深呼吸、深呼吸しときな』
友人に励まされながら、特典会の列に並ぶ。千景澪のレーンには着飾った女子がずらりと整列していた。パーテーションの向こうから千景澪や他のメンバーの話し声が僅かに聞こえて、更に緊張感が高まる。少しずつ順番が近づくにつれて、手のひらにじんわり汗が滲んだ。
吐き気と動悸に襲われながらも待機していると、ついにパーテーション前まで列が進む。視線の先では、Serilionのメンバーたちがファンと次々に言葉を交わし、時折笑顔を浮かべながら対応していた。
――落ち着け、俺……! ただのファンとして、ちゃんと伝えたいことを言うだけだ……!
そう自分に言い聞かせても、足元は微かに震えている。澪の姿が見えた瞬間、透真の鼓動は一気に跳ね上がった。
そろそろ憧れの人と対面だと急に不安になってしまい、透真は鞄から手鏡を取り出して髪の毛や顔に汚れがついていないか確認した。
くっきりとした二重目蓋の大きな瞳は、数年前までは輝いていたが今は疲れ切って見える。柔らかい栗色の髪の毛は、癖っ毛のせいで毛先が少し跳ねていて、動物の耳のようだ。なんとかまっすぐにならないかと手で押さえつけてみたが、意味をなさなかった。完璧とは程遠い自分の見た目にため息を吐き、澪が評判通りの人なら見た目は気にしないだろうと、無理矢理に自分を納得させた。
そして──ついに、透真の番がきた。
目と鼻の先に、白の王子様風衣装を着た千景澪が座っている。
画面越しとは違う、至近距離で見る千景澪は、信じられないほど整った顔をしていた。すっと通った鼻筋と、少し薄い唇が完璧なバランスで配置されている。どこか影のある雰囲気を醸し出していて、まさに薄幸美人という言葉が似合う見た目だ。
透真が圧倒されていると、澪の長めの黒い前髪が柔らかく揺れ、その隙間から透き通るような瞳がまっすぐこちらを見つめる。
「こんにちは、来てくれてありがとう」
低くて柔らかい、ビロードみたいな声が耳を打つ。動画や写真で見るよりも彼の瞳は煌めいている。
――人の目ってこんなに輝けるものなのか……? それに、予想よりも優しそうに見える。あとあと、めちゃくちゃ良い匂いがするんだけど何これ!?
透真はそんなことを考えた。ほんの数秒、目が合っただけで頭が真っ白になりそうだった。
だけど、せっかくのチャンスを無駄にはできない。今日ここに来たのは、どうしても伝えたいことがあったからだ。
「……あ、あの……っ」
息を吸い込んで、絞り出すように言葉を紡ぐ。
「澪くんのおかげで……生きることを、もう一度頑張ろうと思えました……!」
言葉を吐き出した瞬間、感情が溢れそうになり、透真は唇を噛んだ。目の奥が熱い。これまでの苦しかった日々、澪の歌やパフォーマンスが支えになったこと。そのすべてを伝えたい。でも、言葉は簡単には出てこない。辛うじて「ありがとうございます……」とだけ付け加えることができた。
澪は一瞬だけ驚いたように目を見開いた後、ふっと優しく微笑んだ。
「……そう言ってもらえて嬉しいよ。こちらこそありがとう」
そう言うと、澪はまっすぐに透真を見つめ、少し真剣な声色で続ける。
「ファンが笑顔でいてくれることが俺の幸せだから。これからもあなたを笑顔にできるように頑張るよ」
とても真摯な言葉だった。澪は目を細めて柔らかい笑顔を透真に向ける。その瞬間、心臓が跳ねる音が聞こえた気がした。
透真の指先が震える。思っていたよりもずっと優しくて、温かくて、心の奥まで届く言葉だった。
――やばい、なんだよこれ……ちょっと待ってくれよ。
視界の端でスタッフが次のファンを促しているのが見える。もうこの場から離れないといけない。ぎこちなく「これからも応援してます!」と言い、その場を離れながらも、頭の中は澪の言葉でいっぱいだった。
特典会が終わったらフライに澪と話した感想を伝えようと思っていたのに、何も考えられず、透真は魂が抜けたような顔をしてライブ会場の指定席に座った。
暗転した会場に、一筋のスポットライトが走る。次の瞬間、眩い光の中に立っていたのは、Serilionのメンバーたち。シルエットが浮かび上がり、イントロのビートが響くと、観客は一斉にペンライトを振り、歓声が渦を巻いた。
「――お前ら、盛り上げていくぞ!」
神代律音の力強い叫び声を受けて、ファンたちも声が枯れるほど絶叫した。熱気と光の渦の中で、彼らは輝いていた。
律音は堂々と腕を上げ、観客を煽る。男らしく鋭いダンス、熱のこもった歌声が空間を震わせる。隣で舞う九遠凌介は、柔らかくしなやかな動きでバランスを取り、持ち前の安定したボーカルで会場を包み込む。高梨龍之介はアクロバティックなターンを決めてから、ライムを刻み始めた。彼らのエネルギーがぶつかり合い、シンクロする瞬間、ステージは別世界のようだった。
そして——センターに立つ千景澪の存在感は、圧倒的だった。彼は華やかなアイドルのオーラを纏いながらも、どこか静謐な美しさを持っていた。流れるようなダンス、研ぎ澄まされた動き、一瞬の隙もないパフォーマンス。
透真は夢中になってその姿を目で追いかけた。
――やっぱり、澪くんのダンスしている姿が好きだ。すごく、好きだ……。
憧れが心の奥から溢れ出し、胸を締めつける。あの日、画面越しに見ていた彼が、今は目の前にいる。
すると、ふいに澪の視線が透真を射抜いた。一瞬、時が止まったように感じた。澪の瞳が、透真を捉えたまま離さない。まるで「見つけた」と言わんばかりに。透真の心臓が跳ね上がる。
――嘘だろ……? ここ2階席なのに、俺が見えてるのか!?
鼓動が早くなる。期待で息が詰まりそうだ。自意識過剰だ、きっと他のファンを見ているだけに違いない……そう透真が思おうとしたその時。澪が笑いながら右手の指をすっと上にあげ、透真を指差した。そして、マイクを通した澪の声が会場に響く。
「さっき言っただろ、あなたを笑顔にしてみせるって。俺のこと、ちゃんと見てろよ!」
観客の歓声が爆発する。澪のファンサービスに悲鳴を上げるファンたち。その中心で、透真は呆然と立ち尽くしていた。
――本当に俺を見てたなんて……俺、今日死ぬのか?
心を奪われる。息をするのも忘れるくらいに。
ライブは最高潮に達し、メンバー全員が最後のサビに向かって駆け抜ける。透真の視界は、ペンライトの光と彼らの輝きで満たされていた。この瞬間、確かに透真は Serilion に救われていた。
透真は友人に震える手でメッセージを打つ。
【……どうしよう。俺、ガチ恋オタクになっちまったかも】
送信した瞬間、また心臓が高鳴る。もう遅い。これはもう、完全に落ちてしまった。
***
Serilionのライブが終わった翌日から、透真は千景澪への無謀な恋心を持て余していた。
千景澪のダンス、歌、仕草、瞳のきらめき――すべてが頭から離れない。
【元カノにもこんな気持ちになったことなかったのに……ライブに行ってから俺、おかしくなった】
【それだけ澪が魅力的だってことだね~。流石Serilionのビジュアル担当!】
【他人事だと思ってのんきだな……】
【まあね、俺は箱推しオタクだから。メンバーにガチ恋するのとはちょっと違うかなあ。あー、でもトーマの恋路は応援してるよ】
【応援されてもどうにもなんねー恋だよ……】
友人に愚痴を聞いてもらいながらも、ライブの余韻が抜けるどころかむしろ強くなるばかりで、透真の心の中に燃え広がっていた。
千景澪に恋するなんて、初めから終わっている恋だ。アイドルとファン、住む世界が違う。でも——少しでも、彼に近づけたらいい。
透真はじっとしていられなかった。衝動のまま、駅前のダンススクールの扉を押した。
初めてのレッスンで、インストラクターは透真のダンスを見て渋い表情になった。
「……久苑さんは、柔軟性が課題ですね。まずは基本ステップをこなすことを目標にしましょう」
透真は澪のダンスを何百回も見て真似していたが、やはり見るだけと実際に動くのは別問題だった。
「それでも、諦められない」
無意識に口から出た言葉に、自分で驚いた。まるでSerilionの曲の歌詞みたいだ。透真は、澪に少しでも近づきたかった。才能がなくても、もう止まれなかった。
それからの日々、透真は仕事終わりにダンススクールへ通い、カラオケで歌の練習をするようになった。
鏡に映る自分の姿を見て、思う。
――アイドルたちみたいな華やかなビジュアルではない。ダンスのセンスもない。だけど、少しでも近づきたい。
恋はどうしようもない。でも、こうしている間はただ苦しくなるだけの想いじゃなくなる気がした。
***
【トーマ‼ 今すぐSNS見て! Serilionが大変なことになってる……】
ある朝、目覚めるなり友人から悲痛なメッセージが届いていた。何事だろうとSNSを開いた透真は、驚きのあまり息を止めた。
『千景澪、人気若手女優と極秘交際?』
『神代律音、お泊まりデート報道』
『Serilion、メンバーの不祥事により活動休止へ』
スマホの画面に並ぶ、信じたくない言葉の数々。熱愛スキャンダルだ。
「……嘘だろ」
透真はベッドの上でスマホを握りしめ、何度も更新ボタンを押した。フェイクニュースであってくれと願ったが、どこを見ても同じ情報が流れている。ファンたちの怒りの言葉、悲しみの言葉も波のように押し寄せていた。
『Serilion、事実上の解散か?』
そんな見出しの記事が目に留まり、心臓が酷く痛む。大好きだったアイドルグループが消える。もう、千景澪に二度と会えない。
――嫌だ。そんなの、耐えられない。
透真は頭を掻きむしった。あんなにファン思いだった澪が軽率に誰かと交際するなんて信じられなかった。それに、律音も以前から恋愛に興味がないと豪語していたのに……。
【百万歩譲って澪の熱愛が事実だとしても、あの律音が恋愛するとは思えないんだけど】
【俺もそう思う。ああ、澪くんが誰かと付き合ってるなんて鬱だ……】
【そのうち事務所から事実無根だ、って声明が出るはずだよ! それまで耐えよう】
【……そうだな】
透真とフライは最後までスキャンダルを事実だとは思わなかった。応援していたアイドルたちの誠実さを信じていた。
けれど、報道から幾日が経った後も、澪と律音は沈黙を貫いたままだった。何も言わず、何も否定せず、ただ表舞台から姿を消した。ファンの間では憶測が飛び交い、炎上はひどくなる一方。ファンの多くは「もうSerilionのオタク降りる」と言って去っていった。
それでも透真は最後まで信じたかった。自分が今まで見てきた千景澪の姿は嘘じゃなかったと、執着にも似た強さで願っていた。例えSerilionが消えたとしても、澪のパフォーマンスの輝きを、あのステージの熱狂を、忘れたくなかった。
だから、透真はダンスと歌の練習をやめなかった。例え澪がいない世界でも、自分は歌い踊り続ける――それが唯一、彼への想いを繋ぎ止める方法だった。
――そうしてSerilionが世間から消えて数か月が経った。夏が過ぎ、秋が深まる季節になった。その日は何かを予感させるような雨が降っていた。
コンクリートのあちこちにある水溜まりをスニーカーで蹴りながら、透真は走る。足を蹴り上げるたびに、水滴があたりに飛び散り、スニーカーに染みを作っていた。
透真は昼過ぎからあるダンスレッスンに遅れそうになっていた。夜中までアルバイトをしていたせいで寝過ごしたからだ。腕時計をチラチラと確かめながら、懸命に走った。横断歩道に差し掛かると、透真は信号が変わる直前に駆け出す。視界の端に、猛スピードで走ってくるトラックが映った。
「あ——」
衝撃と共に世界が反転する。何もかもがスローモーションのように見えた。
澪のダンス。澪の歌声。澪の笑顔。Serilionのステージ——全てが、遠ざかっていく。意識が途切れる直前、ふと考えた。
――もう一度……Serilionのステージを見たかった。澪くんに会いたかった……。
そして、何もかもが闇に溶けていった。
次に透真が目を開けると、白い天井が見えた。病院? いや、違う。普通の家のようだ。どういうことだろう。自分はさっき確実に死んだはずなのに。
身を起こして部屋の中を歩き回ると、全身鏡を見つけた。その中にありえないものを見て、目を大きく開く。
「……は……?」
小さく困惑した声が漏れる。鏡に映った自分の体が記憶の中のそれよりも遥かに小さかった。声も違う。何より顔が——幼くなっていた。実年齢は25歳だというのに、どう見ても10代の顔つきだった。信じられない思いで、自分の頬をペタペタと手で触れる。滑らかな触り心地に、透真は仰天した。酷い生活習慣でクレーター状になっていた自分の肌とは思えなかった。
しばらく鏡と睨めっこを続けていると、頭上から甲高いボーイソプラノの声が聞こえてきた。
「――トーマ、やっと起きた! もう待ちくたびれたよ。このねぼすけトーマ!」
声の主は、天使の輪をつけた垂れ耳のウサギだった。明るい茶色と白のグラデーションが綺麗な、ウサギ。そのウサギは透真の頭上、何もない空間で羽ばたくように浮かんでいる。ふわふわの毛並みと丸っこいフォルムが可愛らしかった。
これがフィクションの中の世界だったら、愛らしいマスコットの登場に透真も喜んだはずだ。だけど、頬をつねったところで痛みがある。これは現実だ。ウサギが宙に浮かんで、人間の言葉を喋っている。
透真は得体の知れないクリーチャーに遭遇したかのように、思い切り叫んだ。
「うわあっ、気色悪っ! なんだお前⁉ う、ウサギ……? 俺のこと噛むなよ!?」
「失礼しちゃうな。僕はウサギじゃないよ。天使のミミルだよ! お願いされなくても噛まないよ」
どういう原理で動いているのかわからないが、その自称天使のウサギは、ゆらゆらと宙に浮かんでいる。
「……まったく、こんなにわかりやすく天使アピールしてるのに。普通は間違えないでしょ」
自分の頭上にある天使の輪を指差しながら、ミミルはため息を吐いた。そのあまりにも人間臭い仕草に、透真は呆気にとられる。
死んだかと思えば、今度は若返った。そしてわけのわからないファンシーなウサギから説教をされている――今の自分が置かれた状況が受け入れられなくて、頭を抱えた。
その時、部屋の中に着信音が鳴り響く。誰かが電話をかけてきていた。透真はテーブルの上で放置されていたスマホを取る。着信元は、知らない番号だ。
透真は恐る恐る通話ボタンを押した。
「……も、もしもし?」
『おい新入り、初日から練習をサボるとはいい度胸してるな』
聞き覚えのある声に息を呑む。電話をかけてきたのはSerilionのリーダー、神代律音だった。
「律音……? どうして律音が俺に電話かけてくるんだ」
『……いきなり呼び捨てかよ。まあいい、さっさとスタジオに来い。30分以内に来なかったらお前をメンバーから外す』
律音はそう言うなり通話を一方的に切った。「ツー、ツー」と機械音が流れるスマホを、ぼんやり見つめる。何が何やら、この状況のすべてが理解不能だった。
「――トーマ」
呼びかけられて、透真は振り向いた。天使ウサギが短い手を腕組みし、偉そうに見下ろしていた。
「今の電話で、君がやるべき使命はもうわかったよね?」
「いや、ひとつもわからんが」
「……はあ。チッ、聞いてたよりも脳みそすっからかんのアホだな」
およそ天使らしくない悪態が聞こえて、透真が目を剥く。ミミルは誤魔化すように咳払いをした。
「まず、トーマ。25歳の君は死んだ。残念だったね。僕が君をこのパラレルワールドへ転生させたんだ。ああ、アイドルに相応しいように見た目を若くしてあげたのも僕だよ。感謝してよね」
「いや、何を勝手に。俺の意志は……?」
「君は功徳が足りなかったからそんな権利ないよ。それで、ここからが本題。僕の担当していた人間の最期の願いが、『アイドルSerilionの復活』だったんだ。だから、その手伝いをトーマにしてもらうよ」
「手伝い、ってなんだよ?」
「トーマには、Serilionの追加メンバーになってもらう!」
「はあ!?」
Serilionのメンバーになる——それは夢みたいな言葉だった。けれど、夢ではない。透真の新しい人生の始まりだった。
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