第2話 桜散る道
「おばー、今日も来たよー!」
病室の窓際に差し込む光が、静かに揺れていた。
春の午後、久米盛久はいつものように祖母のもとを訪ねていた。
「おぉ……よく来たねぇ、盛久。元気そうな顔して」
ベッドの上でゆっくりと身体を起こした祖母が、にこりと笑う。
「うん。就職もうまくいってね。最近じゃ会社で、“若いのに営業部の部長格”って言われてるんだよ」
「そうかい……それは安心だねぇ。じいさんも、きっと空の上で喜んでるよ」
「ふふ、そうだといいけど……あ、そうそう。今日、いつもの花屋に寄ったら、武次郎さんが“これ、おばあさんに”って渡してくれたんだ。なんか古いノートみたいだったけど……」
盛久はバッグから、年季の入った手帳をそっと取り出す。
布張りの表紙に、かすれて読みにくくなった文字が手書きで書かれていた。
「……こ、これは……!」
祖母の顔色が一瞬で変わる。
「オジーの手記だよ、これ……」
「え?手記って、日記みたいなものなの?」
「そうよ。これはね……オジーが若いころに書いたもの。私も見たことなかったけど……」
震える手でページをそっとめくった祖母は、眉をひそめながら言葉を続ける。
「……これ、戦争日記だわ……。沖縄戦の頃の……」
「戦争……?!」
「そうさ。今から……もう80年も前かねぇ。あの頃、私もオジーも、まだ十代だったさ。……けれど、あの憎き戦争がすべてを奪っていったんだよ」
祖母の声が、いつになく低く、遠くを見つめるようだった。
「……私の母も、祖母も……皆、艦砲射撃で亡くなった。
友達も皆、『学徒隊』として戦場に送られて……帰ってこなかったよ」
盛久は言葉を失って、祖母の手をそっと握った。
「おばー……寂しい?」
「……寂しいさ……寂しくないわけがないさ……」
頬を伝う一筋の涙が、しわ深い手の甲に落ちた。
「母も、祖母も、友達も……みんなを返してほしい。
でも……もう、どうにもならない。
あのときの沖縄では、誰もが生きるのに必死で、明日を信じられなかった……」
祖母は、ゆっくりと沖縄の古謡を口ずさむように語り始めた。
「若さる時ね 戦争の世
若さる花ん 咲ちゆさん
家ん元祖ん 親兄弟
艦砲射撃の的になて
着るむん喰えむん むるねえらん
スーティーチャー喰で 暮らちゃんや……
(あなたも私も、艦砲射撃の喰い残し……)
……わたしたちは、生き残れた。けれど、奇跡だったんだよ。
本当はね、自分が“艦砲の喰え残さー”だと、ずっと思ってきた」
静かに語られる言葉に、盛久はじっと耳を傾けた。
「戦争は、二度と繰り返してはいけないよ、盛久。
怒りに駆られたときは、まず手を引くこと。
それが……平和への第一歩だからね」
祖母の眼差しは、弱くも、優しくもなく、まっすぐに真理を見つめるようだった。
「わかったよ、おばー……。
オバーの精神、子にも孫にも、俺がちゃんと伝えていく」
「うん。そうしなさい」
小さな病室の窓辺に、風がそっと吹き抜けた。
春の陽射しに舞う花びらが、一枚、また一枚と空に溶けていった。
そのころ、花屋「KARIYUSI」では――。
「はっはっは! ハー面白いな! 千春、あんたほんっと盛久くんのことになると弱いよなぁ!」
「や、やめてよ、お父さん!/// 恥ずかしいんだから……」
店の奥で笑い声が響いていた。
天妃家の夕食後は、いつもこんな風ににぎやかだ。
「でもねー、お母さんは、早く孫の顔が見たいなぁ~なんて思ったりするわけ!」
「ちょ、母さん! まだその年じゃないでしょ!? 普通に考えて!」
「なによ、夏希! あっ、分かった! さては……お母さんが将来、姪っ子を独り占めしそうなのにヤキモチ焼いてるんでしょ~?
この~! 可愛い次女っこめぇ!」
「母さんも夏希姉ちゃんも、やめてよ!/// もう、ほんと……意識しちゃうじゃん!///」
隣の部屋から、幼い声が飛んできた。
「姉ちゃんたち、うるさいよー……眠れないよー……」
「あっ、ごめんね、秋羽! うるさかったねぇ。ほんと、ごめん!」
冬理はすでにすやすやと夢の中。
夜の天妃家は、静けさと笑い声が心地よく混ざっていた。
「そうだな……俺たちも、そろそろ寝るか」
「うん……おやすみなさい!」
「おやすみー!」
「おやすみなさい、お母さん、お父さん、夏希……みんな!」
部屋の灯りが一つずつ消えていく。
笑い声は静かに闇に沈み、家の中には穏やかな呼吸と、春の夜風の音だけが残った。
そして、月明かりの下――
誰にも知られぬ小さな約束や、語られた記憶が、静かに心に根を張っていく。
次の季節へと向かって、
物語はまた、優しく続いていく――。
(第2話・終)
季節の風~花束を君に添えて~ 毛 盛明 @temeteni-
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