第一章 地獄の楽園
第1話 目覚め
暗闇の中、窓の外から微かに潮の香りが流れ込んでいた。
—コン、コン
また窓ガラスを叩く小さな音がしたような気がして、眠りの浅かった神崎は反射的に目を開けたが、そこには誰もいなかった。
あれから、神崎は眠ってしまったらしい。
「君はだれだ――」
あの時、窓に現れたマリアと名乗った修道女に神崎は声を掛けたが、彼女は薄く微笑むとスッと暗闇に消えていったのだ。
あなたを救いに来ました――
マリアのそう囁く声だけが、神崎の鼓膜に残っていた。強い風が吹いた。カーテンが揺れ、冷たい空気が部屋に入り込む。
あれは、夢か。呟きながら、ベッドからゆっくりと身を起こして窓に近寄る。窓の下の地面を見ると、そこにはうっすらと誰かの小さな足跡がいくつか残っているようにも見えた。
――やはり修道女はいたのか
神崎の眉がわずかに動く。あれが夢なら、あの足跡は何なのか。だがここはダンテ・アイランドだ。男の囚人しかいないはずのこの島に、神の使いとはいえ本当に女がいるというのか。
疑念を抱えながらも、今はそれを考える時ではなかった。
――生き延びる。そのためにまず、情報を集めよう。
神崎は、この島で生き延びるすべを、冷静にそう結論を出した。
***
夜が明けた。このダンテ・アイランドで神崎が初めて迎える朝だ。幸いにして、部屋の鍵はしっかりとかかったおかげで、短いながらも熟睡できた。
建物の隙間から差し込む光が、荒れ果てた街の影を伸ばす。遠くから聞こえる叫び声。奇声、何かを壊す音。口論。そして下衆な笑い声。今まで暮らしていた街とは明らかに違う喧噪。
神崎は宿舎の外に出た。通りには、すでに多くの囚人たちが動き始めている。辺りを少し歩き回ると、人のざわめきが大きくなった。どうやら男たちが広場の端に集まり、食料を受け取っているようだ。
どうやらこれが配給の列らしい。こうやって飯は調達できると頭に入れる。配っているのは、筋骨隆々とした男たち。他の囚人たちとは違う、統率の取れた動きをしている。つまり、あれが「藤堂」の配下のやつらということなのだろう。
そのとき、配給の列がざわめいた。すると、列の後方にいた痩せた男が、不満そうに声を上げた。
「おいおい、配給が終わりとはどういうことだい。ふざけるな! 俺はまだ昨日の分だってもらってねえんだ!」
その次の瞬間、叫んだその男が、配給を仕切っていた男から派手に殴り飛ばされた。一発、二発と鈍い音が響く。殴られた男の血の混じった唾液が地面に飛び散った。
「文句があるなら藤堂さんに言えよ」
ぐったりとした男の傍らで、屈強な男たちが笑っている。
その光景を見ながら、神崎は無言でこの島の現状を把握する。おそらく配給の順番や物を決めるのも、彼らの力次第ということか。
――つまり、物資は、完全に彼らの手にあるということだ
これが、この島の「藤堂」を頂点とした支配の根幹なのだと理解した。
***
宿舎に戻ると、昨日の窃盗犯の男——リュウジと名乗った——がロビーの椅子に座っていた。
「よお、眠れたかい」
へらへらと笑って男が言う。
「ああ」
それだけ短く返事をした。
「ほらよ」
リュウジがラップに包んだ握り飯を投げてよこした。
「どうせ、まだ食い物はないんだろ?」
「ああ、助かる」
「なあお前、この島で暮らすなら、今日から本格的に生きる術を見つけろよ」
神崎が黙っていると、リュウジがもったいつけて言った。
「この島じゃ、何かを差し出せる奴だけが生き残る」
差し出す物、か——
「差し出せるものがない奴は?」
「喰われるだけさ」リュウジは軽く肩をすくめた。「お前はどうするつもりだ?」
神崎は窓の外を眺める。町は既に混沌とした空気に満ちていた。
「まずは、この島の仕組みを知る」
「お前、なかなか賢いな」
リュウジは感心したように頷く。
「で、あの女とは会ったのか?」
唐突にリュウジが口にした。神崎は驚いてリュウジをじっと見た。
「お前もあの女を見たのか?」
リュウジは肩をすくめた。
「いや、俺も聞いただけさ。『白い修道服の女が現れる』って話は、ここにいる奴なら一度は耳にしてる」
神崎は腕を組み、考え込んだ。
「誰が最初にその話をした?」
「さあな。ちょっと前からそんな噂がある。見た奴もいるし、誰も見ていないとも言う。幽霊みたいなもんさ」
「ふうん。幽霊なあ」
神崎は微かに唇を歪めた。
「……そうか」
じゃあ、本気で修道女――マリアは存在するのか。それとも隔絶された者だけが見る幻想か。
だが、昨夜は足跡が確かに残っていた。あの女が存在しているのは間違いないはずだ——もし幽霊じゃなければ。
神崎はおにぎりのラップを外し、一口含んでから静かに目を閉じた。
――それより、俺はこの「地獄の楽園」で、どう生き延びるか。今はそっちだ。
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