私はただ、貴方を愛し続けていたかったのです。

成瀬。

夢見る少女は旅をしたい

バラン村/英雄が生まれた村

 心地良い風が吹いている。吐いた息は風に流されてどこかへと行ってしまう。


 深く被ったフードは風に揺れて、ちらちらとその綺麗な翠の目を露わにする。その目に映った、切り出された大きな岩の前で、右手を軽く握って顔の前へ持って行き祈る。


 どれくらいの時間祈っただろうか。屈んでいた足が少しだけ痺れを覚えた頃、


「なにしてるの?」


 と少し離れた所から声を掛けられた。彼女は祈りを止めてその声の主へと振り返る。少女だった。この地では珍しい、赤茶色の毛をした猫虎びょうこ族。大きい翠色の耳飾りが目立っている。成人を迎えたばかり……だろうか。


「長い間祈ってたようだけど……」

「……っ、えぇ。英雄様のお墓だと聞いたモノですから。祈っておこうと思いまして」

「ふーん。見ない顔。どこから来たの?」

「旅を……、旅をしているので、どこからとは」


 誤魔化す様に彼女は応える。


「旅! 良いなぁ。ほら、ここって窮屈だから」

「良いところだと思いますよ。彼の故郷だと聞いて納得です」

「彼……? あぁ英雄様の事? あたしも小さい頃に一度だけ会った事があるみたいなんだけど、残念ながら憶えてないんだよね」

「あぁ、それは残念。貴重なお話を伺えると思ったのに」


 フードを深く被って目線を合わせない様にしているのに、少女は怪しく思わないのだろうか。村と言えば警戒心が非常に高いというのが旅人の中での常識なのだが……。まぁ個人に依るところもあるだろう。


「話を聞きたいなら、村長に聞くと良いと思うけど……。それに結局ここには骨は埋まってないし。手を合わせるならもっと別の所じゃないと」

「……形式的なモノでも一度手は合わせて置きたかったんです。英雄様が生きた証としてここにお墓が残っている。残っているのなら忘れられる事は当分無い。ここに骨が埋まっているかどうかは、関係ありませんよ」

「そっか。そうかもしれないね。え……っと、どうしようか。村長にお話し聞く?」

「いえ、こんな怪しい人物、訪ねても門前払いでしょう。どうかお気になさらず。今日はこれで、宿に戻ります」


 彼女は丁寧にお礼をして、その場を後にしようと歩を進める。


「じゃあ明日! 明日さ、旅の話を聞かせてよ! まだ暫く居るんでしょ?」


 少女の声に振り返って、笑顔を浮かべると、彼女はそのまま宿へと歩を進めた。


 英雄が生まれた村、バラン。『ヴィレドレーナ』の遥か東の領土に位置する辺境の村だ。彼が英雄として名を挙げ暫く、この村は遠くから観光客が訪れるようになった。だが泊まる場所が無かった為に、最近になって宿が作られたのだ。


 しかし先日、英雄は死んだ。詳細は不明だが、とにかく、彼は殺されたのだ。英雄という存在を疎む輩は多く居るだろう。英雄だからといってあらゆるヒトに好かれる訳じゃない。その台頭を良く思わぬモノも居るだろう。


 何より、英雄と呼ばれるとは言え、高々辺境の村の男がヴィレドレーナの王女と婚姻を結んだとあれば、尚の事。


 宝剣を抜いた。あらゆる魔を断つ剣を得た。


 魔を断ち、平和を齎した。


 平和を齎した見返りに幸福を得た。


 その幸福に嫉妬するモノが現れた。


 それは良い。それだけで済んだ話だ。それだけで行動に起こす愚か者は居ない。居たとしても大した力なんて持つ事が無い。平和を齎したのだ、彼にも平穏は訪れるべきだ。そう考えるヒトは多く在った。


 だが、彼は結果的に死んだ。


 英雄は死んだのだ。


 何故、と悲嘆に暮れる国民達は現在、情報開示を望み続けている。だが事が起きたのは王城だ。そう簡単に民に伝えられる事は無いだろう。

 結果だけが独り歩きして民へと伝わっている状況。大きな混乱を招いているのも事実だ。


 だがまあ、今の彼女には関係無いだろう。


 村の中心近くに構えられた宿に足を踏み入れる。宿は既に取っている。受付から鍵を受け取って、割り当てられた部屋の中へと入る。


 小さく息を吐く。慣れない事の連続で酷く疲れているらしい。


 彼女は行儀悪くそのままの恰好で簡素なベッドに横になった。






 翌日。彼女は朝日の訪れと共に目を覚ました。身体を起こし、壁に立てかけたままの剣を撫でて、小さくおはようございますと呟いた。

 彼女の朝が始まった。


 とは言え、まぁ英雄の墓があるだけの村だ。それ以外には何も無い。ただの辺鄙な村。だけど彼女にとってはそれ以上に価値のあるコトは無かった。


 彼女にとって大抵の事が初めての事だ。


 草原を初めて見た。これ程青々と広がっているのは、絵画でしか見た事が無かった。


 畑を初めて見た。こうしていつも口にしている物が作られているのかと感動した。


 魔物を初めて見た。普段目にするモノは家畜化されているモノばかり。ここまで獰猛に生に貪欲に生きているのかと、自然というモノの偉大さを知ったような気がした。


 宿に初めて泊まった。質素なベッドの硬さは、やっぱり少し寝つきが悪くなる事を覚えた。


 知らない事ばかりで、自分の無知を恥じた。だから旅に出た……という訳じゃない。ただ、逃げる様にここまで来た。


 始まりは赤色だった。


 ──────まぁ、とにかく逃げたのだ。


 宿に鍵を預け、その場を後にする。爽やかな朝に大きく息を吸って、今日はどこを見て回ろうかと息を吐く。

 目的は達した。例え骨が埋まって無かろうと英雄の墓に黙祷を捧げたのだ。この村に遠路はるばるやって来た甲斐はあった。


 一方的に取り付けられてしまった約束もある。まずはそれを果たそうか。だが、彼女の名前さえ知らない。そもそもどうして昨日声を掛けたのかも解らない。普通、怪しむだろうに。昨日も述べたように、基本的に村人たちは警戒心が強い。余所者を嫌う傾向が多く、それに加えて、彼女は顔も見えない様に深くフードを被っている。体格を誤魔化す為に大き目のコートを羽織っている。作りは雑だが、寒さは凌げるだろう。

 どうやら彼女はこのコートを気に入っているらしい。野宿の時も毛布代わりに使っていた。まさに肌身離さずと言った感じだが、そろそろ洗濯してはどうだろうか。

 自分は怪しいですよと宣言しているような格好だ、怪しまれない方が変だ。


 まだ陽が顔を出してすぐだ。眠っているヒトも多いだろう。あの子もまだ眠って──


「おはよ」


 当たり前の様に居た。昨日と寸分違わず同じ服を着て。


「……、おはようございます。驚きました。まだ早いのに起きているのですね」

「え、あー……まぁ、ね」


 言葉を濁す彼女に首を傾げ、そうだ、と胸の前で両手の指を合わせる。


「私は、シーファ。貴女の名前をお聞かせ願えますか?」

「名前、えっと、ユメ。ユメ・ゼイルグライン」

「素敵な名前ですね」

「あたしはこの名前嫌いだな」

「あらあら。そういう事もありますか。私も好きか嫌いかで言えば今は嫌いですし」


 シーファはふふっと笑って、ユメの隣へと寄る。


「旅のお話、でしたね」

「うん。外の話、聞かせて?」

「大した話は出来ませんが……そうですね。私の旅の始まりは、逃避でした」

「故郷が嫌になったとか?」

「えぇ、まぁそんな感じです。全てが嫌になって逃げたのが始まりです」


 にこやかに笑うシーファにユメは少し不思議そうに首を傾げる。逃げて来たという割に、今はとても楽しそうに笑うからだ。


「旅に出て、どうだったの?」

「知らなかった事を沢山知りました。私が当たり前だと思っていたことは、当たり前じゃなくて、私が感じていた幸せはきっと誰かの不幸の上で成り立っているという事。とても沢山の命の上で成り立っていたという事。私は何とも愚かで小さな生命なのだろうという事。沢山知りました」

「当たり前だと思っていたこと……」

「様々なヒトが必死に生きている。動物も、小さな虫も果ては魔物まで。必死に生きる為に奮闘している。その事実に私は感動しました。小さな籠に閉じこもっていた私にとって、それだけで旅は良いモノになりました」


 ユメはシーファの話を聞きながら、やっぱりシーファの言葉の意味を理解出来ないで居た。小さな村で暮らしている彼女にとって、他の沢山のヒトを知らないし、当たり前だと思っていた事が否定される事も無い。だから、彼女の話に理解はすれど実感が伴わない。


「すみません。こんな話を聞きたい訳じゃないですよね。えっと、最初に訪れたのは、グラビオードです。このバラン村から、馬で西に向かって、大体一ヵ月程ですかね。それくらいの場所に位置している、小さな都市です」

「聞いた事ある! 水が美味しい場所だよね」

「ふふ、そうですね。川に巨大な橋を架け、その上で暮らしている都市ですから、その分、汚水の処理はとても丁寧にされていました。川の水を飲んでも健康に害は無いとの事で、旅のヒト達は皆飲んでいましたよ。どうやら、川にゴミを流しただけで、重い罰を受ける事になるようです」

「そういう法律?」

「えぇ。彼らは川に流れる水を神聖なモノとして扱っているようでした。全ての命の源である水を汚せば、それは命を穢すのと相違無いと。一種の宗教の様なモノですね」

「宗教?」

「沢山のヒトが一つのモノを信じ続けて救いを求めたり、教えを乞うたり、とても大切な行いの事です。勿論、そういったモノを持たないヒトも居ますが」

「へぇ~……宗教、か」


 ユメは少しだけ興味を持ったようだ。先ほどの話よりも、目が輝いている。にしても、この村には宗教の様なモノは無いのだろうか。いや、こういった村の場合は風習か?


「そこで出会ったヒト達は、とても朗らかなヒトばかりで、良い領主が治めているのだろうと伺えました。会う事は出来ませんでしたが、ヒトビトの暮らしでそれくらいは感じ取れます。それくらい良い街でした」

「シーファは水を飲んだの?」


 その問いにシーファはふふっと笑顔を浮かべるだけで答えない。


「次に訪れたのは、ピラ・ヴ・インストヴァニラでした。ここから二週間ほど西に行った所……というか、ここが一番東なので、全部西ですね。そこは、なんというか、不思議な場所でした。派手というか、豪華というか……」

「どういう事?」

「妖精が悪戯した場所なのです。自然発光しているキノコや妙に長い草、くり抜けば何世帯も住めるであろう程太い幹の樹木。ヒトの顔の形を模した岩や草のオブジェ……聞けば妖精によって変化された悪いヒト達……なのだとか。恐ろしい話ですね」


 ピラ・ヴ・インストヴァニラはなんとも形容しがたい様相をした町だった。キノコの光に当てられて、言動があやふやなヒトも居た。まぁ、あれは妖精の気まぐれな悪戯という説の方が正しいらしいが。


 妖精はいくつか種族が別れている。有名なのだとピクシー、シルフィードやレプラコーン、ノームなどがある。エルフも一応妖精の区分ではあるが……まぁ、こっちの大陸には居ないし、詳しく語る事でも無いだろう。

 特筆すべき点は、妖精のその殆どが魔法を扱うという事だ。本来ヒトには宿る事の無いはずの未知の法。噂では隣の大陸では既にが広がっているとか。とは言え、こちらへ渡るだけの技術は現状存在しない。そう心配せずとも良いだろう。


「なんというか、変な場所なんだね」

「えぇ。面白い場所でもありました」

「やっぱりキノコが美味しいの?」

「いえ、あれを食べては死にますね。発光はしていますが、元の品種からそう変わらないので食べればちゃんと死にますよ。ピラ・ヴ・インストヴァニラで良く食べられているのは、木の実のスープでしたよ」

「キノコじゃないんだ……」

「がっかりですか?」

「調理法とか気を付ければ毒が無くなるとか無い?」

「残念ながら」


 湯通しすれば食べられるモノもあるにはあるが……あの場所に生えているキノコは全て猛毒。魔物が嫌う匂いを発しているらしく、魔物も寄って来ないのだ。恐らくピクシーによるモノだろう。


「ピラ・ヴ・インストヴァニラにはあまり長く滞在していないので、話せる事はこのくらいです。次に訪れたのは……」


 次に訪れたのは、ペタグだった。そこは前者二つに比べればとても平凡な街だ。何の変哲も無いと言えば、ペタグに失礼かもしれないが、とても平和で良い街だった。


 彼女はそこで、ヴィレドレーナの王女の訃報を聞いたのだ。


 シアンヘルヴ・ヴィレドレーナは死んだ。英雄と婚姻を結んだ彼女は、どうやら自死を選んだという事らしい。それも焼身。最早姫であるという痕跡も彼女が着けていた指輪やネックレスと言った装飾品からしか判別出来なかったようだ。その状況から、酷い有様だった事が伺える。


「とまぁ、まだいくつか訪れた街や村はありますが、印象的だったのはこの辺りですね」

「さっきの色々知ったって話の割に……」

「少ないですか?」

「うーん……」

「ふふ、目的は最初からこの村でしたから。それに、私はあまりに世間を知らないモノでしたから、ヒトより小さい経験でも印象深く残るのです。例えば、ユメさんとの出会いもきっと生涯忘れる事は無いでしょう」

「こんなただ話をしてくれただけなのに?」

「えぇ。素敵な出会いという事には変わりありません。貴女とこうして話が出来ているという事は私にとってとても幸福な事なのです」


 まるで何かの宗教の誘い文句かの様に語る彼女をユメは訝しむ様に見つめる。今のシーファにとってこの世界は大抵の事が幸福であると結論付けられる出来事しか存在しない。

 その為本心でのみ語っているはずなのにどう聞いても怪しく聞こえてしまう。丁寧な話し方も相まって余計にそう聞こえるのだろう。試しに微笑む様に語るのをやめればどうだろうか。


「……ここが目的地だって言うなら、この後はどうするの?」

「さぁ、どうしましょう。路銀もそろそろ底を尽きますし、どこか骨を埋める場所でも探しましょうか」

「それはあまりに悲しい終わり方だよ。やり残した事は無いの?」

「満ち足りた終わりだと思いますが……そうですね。やり残した事はいくつかあります。もう諦めていましたが、どうせ最後に星に託すのならば、それまで精一杯やってみるのもアリかもしれませんね」

「なら、旅は続くんだ?」

「えぇ。ユメさんと出逢えたおかげです。ありがとうございます」


 なんでさ、とユメは笑う。シーファにとって旅はとても貴重な経験ばかりだ。逃げなければきっと永遠に夢の様なこの体験をする事は無かっただろう。知らない事を知る経験、知識に残っている事を実践出来る幸せ、知らない土地で知らないヒトと会話を繰り返し、その土地特有の価値観を識る事。見た事も無い動物や魔物を実際にその目で見て様々な生態を観察する事。それら全てこの旅が無ければ経験する事の無かった事だろう。

 何より、逃げる前の生活が何より尊く感じるのだ。それが幸せでたまらない。そして、逃げるしか無かった自分を何度も恥じた。


「そうだ、前に来た旅人が言っていたんだけど、英雄墓地が正式に作られるって話だよ。骨も、埋められるらしい」

「そうですか。では完成するまで生きねばなりませんね。是非ともこの眼で見たいので」

「そっか。羨ましいなぁ。あたしも旅に出られたら、きっと楽しいんだろうけど」

「すれば良いじゃないですか」

「無理だよ。あたしには旅をするだけの度胸なんて……それにあたしが居なくなったらこの村は……」


 ユメは目を伏せる。赤茶色の耳がぺたんと伏せて、寂しそうに俯いている。からんと音を立てる耳飾り。シーファはその意味を知らない。


「夢ではあるんだよ。ここには沢山の旅人が英雄様の墓参りに訪れるから、話だけは沢山聞いた。旅の話を聞くのが好きなの。だけど、誰一人としてシーファの様に当たり前が当たり前じゃなかったなんて言うヒトは居なかった。シーファは一体どんな所から逃げて来たの?」

「────────夢、叶うと良いですね」


 シーファは大きく伸びをする。


「陽が私達に笑いかけています。そろそろ皆さん起きてくる頃合いでしょう」

「そう、だね。シーファはどれくらいここに滞在するの?」

「あと三日程でしょうか」

「そか。なら、英雄様のお墓以外何も無い所だけど楽しんでね。あたしはそろそろ時間だから行くよ」

「えぇ。きっとまたお話しましょう」

「うん。またね」


 ユメはそうしてシーファを置いて駆けだした。笑顔で振り向きながら手を振って。その姿を見て、彼女も手を振り返した。


 赤茶色の猫虎族。そもそもこの地に猫虎族が居るという時点で珍しい。この辺りに獣人族が居るという話は聞いた事が無い。猫虎族ではなく獣人族自体を、だ。

 少し気になる事が多い。とは言え、残念ながらシーファは面倒事には首を突っ込まない主義だ。旅先でそういう事に巻き込まれるとロクな事が無い。彼女は英雄でも何でもないのだから。





 それから二日ほど経った朝。陽と共に目を覚ましたシーファは大きく深呼吸を繰り返し、朝を出迎えた。

 剣を肩から下げ、彼女は宿を後にした。旅支度は終えている。後はこの村を去るだけだ。

 その前にユメに最後の挨拶でも、と思ったのだ。予定より一日早いが出立だ。旅を続けると決めたのなら長居は出来ない。このままでは根が張ってしまう。


 シーファの言うやり残した事を達する旅だ。達する事が出来るかどうかは、まぁ解らないが、彼女ならばきっとやり遂げるだろう。


 ユメは一昨日話した場所に今日も居た。どうやら毎朝この時間には起きているようだ。猫虎族は元々夜行性だ、もしかすれば今までずっと起きていて、これから眠るのかもしれない。

 たった一人の猫虎族が、そうして夜を過ごしているのだろうか。それは何とも寂しく思うが、しかし周囲に他の獣人が居ないのなら、生活リズムも周囲のヒトに勝手に合わさると思うのだが……。


「おはようございます」


 シーファが先に声を掛けた。ユメは少し驚いたように振り返って、声の主をシーファであると確認すると、戸惑ったまま


「あ、おはよ」


 と短く返した。


「……あれ、あと一日滞在するんじゃなかった?」

「予定を早める事にしました。路銀にも限度はありますから」

「そ……っか。寂しくなるね」

「いつかまた会えますよ。私がやり残した事を遂げる前にまたここを訪れるかもしれませんから」

「…………………………良いなぁ。ほんとに」

「きっと叶いますよ」


 シーファがそれでは、と口を開こうとした途端、視界の奥で揺れ動くモノが見えた。

 ヒト……じゃない。明らかにヒトより巨大だ。巨岩の様な影が視界の奥で動いている。それが何なのかをシーファも、ユメも瞬時に理解した。


「魔物だ」


 シーファはこれまでの旅でそれなりの数の魔物を目にしてきた。斑点だらけの化け蛇デュグラスマキア無駄に大きいトカゲグランティラヌス空を翔る魔剣翼ブレイドバーディオ這い回る泥リーダスクロウラー等、その他沢山の魔物をその目で見て来たが、しかしあれはどの魔物にも該当しない。

 無論シーファが知らない魔物も沢山居るだろう。旅に出るまで魔物を見た事さえ無かったのだ。この旅で全ての魔物を知れるとも思っていない。


 だが、それでもこれまでに知った魔物からこの辺りに住まうであろう魔物は想像出来ると思っていた。


「……何ですか、アレ」

「グローヴメイデンだ……。どうしよう、あれは倒せない……っ!」

「グローヴメイデン?」


 訊いた事が無い。動きが遅く、全貌を掴めたのは十数秒経ってからだった。巨大な亀の様な姿をした魔物のようだ。甲羅の代わりに岩石を背負っているのか、まるで小さな山が向かってきている様に見える。甲羅の部分を合わせて凡そ二十メートルはあるであろうその巨体が、ゆっくりと迫ってきている。


 何故あのような巨体にここまで近づいて来られてようやく気付いたのかは解らない。その巨体を見上げなければ山頂が見えなくなった程の距離で、ソレは牙を剥いた。


「…………ッ! 魔法が来ます。ユメさん、退避をッ!」

「でもこのままじゃ村が!」

「他の何よりも自分の命を大切にしてください! 生きていなければ悲しむ事も、夢を叶える事も出来ないのですよ!?」


 シーファはすぐにその場から退避しようと振り返る。


「……………………ッ」


 そして気付いた。あまりに被害が大きすぎる事に。あの巨大な亀グローヴメイデンは二人に照準を合わせている。もし、このまま退避すれば、後方にある家屋はなぎ倒される。そうなると住んでいるヒト達は……。


 グローヴメイデンの口元に魔法陣オクタグラムが描かれる。魔法の形成の予知は出来ても、その種別までは把握出来ない。だから、見てから対処するには遅すぎる。どんな魔法が来ても良い様に距離を取り、射程を外れ、命を護る。それが最善の動き。だが、それをすれば、後方の無数の命が犠牲になってしまう。


 正義感など持ち合わせていない。見殺しにする事だって、彼女の中の選択肢には存在している。


 だが、


「………………解りました。私がアレを食い止めましょう。ユメさんは退避を」

「──────え?」

「大丈夫。きっと何とかなりますよ」


 シーファは笑って、自身の肩から下げた剣に手を掛ける。


「早くッ! どうにか出来るのはこの一度きりです。あの規模の魔法ならば、放たれた後幾ばくかの猶予が出来ましょう。莫大なエネルギー消費の後はどんな生物も動けなくなるモノです」


 その間に村人たちに退避を促せ、と彼女は叫ぶ。


 見殺しにする。確かに選択肢には存在している。存在しているが、


「(私にそんな選択が出来るはずがないでしょう……っ!)」


 正義感から来るモノじゃない。罪悪感から来るモノだ。見殺しにして、その後平気な顔をして旅を出来るとは思えない。ずっと背中に後悔としてのさばり続けるだろう。

 一人旅でそんなモノを背負っていたら、耐えられない。迷った挙句自刃を考えるだろう。


 ならば、後悔しない為に剣を握ろう。


「……ありがとう、信じてるっ!」


 ユメはすぐに駆け出した。村人全員を起こして避難させるには足りないだろうが、やれる事をやったんだという実感さえあれば怖くない。彼女が駆け出したのを確認して、シーファは剣を抜いた。


 全身を巡る魔力の行き先を剣のその先へと変える。剣の先から放出された魔力は薄く広がり、障壁を作り出す。

 これ程魔法が使えたならばと思う事は無い。魔法には魔法をぶつけ相殺するのが手っ取り早い。魔物が相手ならば余計だ。


 無い物ねだりはやめだ。彼女は大きく深呼吸して炉心に熱を灯す。障壁の強度はこれくらいで良いだろう。どうせ全ての魔力を障壁に変えても防ぎきる事は出来ないだろう。全てを受け切るにはヒト一人では不可能だ。


 それよりも確実な方法がある。


 魔法陣オクタグラムの先に火炎球が形成される。推定直径八メートルの巨大な炎。どう考えたってヒトが放てる魔力の総量で防げる訳がない。本来、必ず避けなければいけない相手なのだ。

 文字通り歩く山を敵として捉えている時点でズレている。朝方でなければ、早急に村人たちも気付き疾く避難しているだろう。


 あれは火炎球を飛ばすモノじゃない。どちらかと言えばブレスに近いはずだ。あの質量がそのまま直撃するのであればそれこそ一秒ともたないだろうが、ブレス攻撃であれば未来はある。


 剣を構え、強く地を踏む。魔力障壁の先に巨体を捉え彼女は静止する。


 英雄の真似事って訳じゃない。助けられるだけの力を持っているから助けるなんてとても素敵な事を口走った大馬鹿者とは違うのだ。

 自分に力なんてある訳ない。あるのはこの剣だけ。選ばれてなんていないし、魔法も使えない。ただ一本の剣と、少しだけ得意な魔力の操作のみ。


 グローヴメイデンは全ての工程を終えたのだろう、姿勢を少し低くして魔法陣オクタグラムに最後の魔力を送り込む。その瞬間、放射された。村を焼かんとする業火に魔力障壁一枚で耐え忍びながら、彼女は駆けた。


 タンっ! と軽やかに、彼女はその身体を宙へと任せ、広範囲に及ぶ炎を飛び越えグローヴメイデンの巨大な顔面へと距離を詰めた。

 その距離百メートル程。凡そ一秒の神速に、さしもの巨体のグローヴメイデンの目も追いつけまい。


 剣に魔力が集まって行く。彼女が持ち得る最大の魔力を以て、それは光り輝いた。


「グレーグオリオン」


 剣を振り下ろすその刹那、光達は質量へと変換され、ドッゴンッ!! とグローヴメイデンの頭蓋を地へと叩きつけた。


 ボフンッ! と行き場を失った火炎球がその場で爆発し、グローヴメイデンの顔を焼く。


 だがそれでも倒すには至らない。あの巨大な頭蓋を地に叩きつけるだけの衝撃を与えようとも、あの巨体からすればかすり傷程度だろう。────いや訂正しよう。かすり傷程度というのもただの希望的観測だ。恐らく無傷。衝撃で魔法を中断させる事は出来ても、ダメージにはなっていない。だがグローヴメイデン自身が創り出した魔法の爆発によるダメージはゼロじゃない。


 シーファは無事に着地すると、剣を肩から下げ直した。これ以上は戦えない。魔力障壁に加え、今の一撃で大部分の魔力を失った。これ以上戦おうとすれば確実に死ぬだろう。

 それにグローヴメイデンにとってもあれ程の魔力消費は痛手のはずだ。すぐには動けまい。だから彼女は村の状況を確認しようとして、後ろ振り返った。


 それで、彼女は瞳に影を落とした。村が焼けていた訳じゃない。少しは燃えてしまっているが、被害は最小限に抑えられた……と思う。


 彼女が見て、聞いたのは


「化け物が、お前がここで役に立たなくてどうするッ!」

「忌み子の癖に衣食を与えてやっている恩を忘れたかッ!」

「お前の命など捨てでも守れッ!」

「グズがッ!」

「化け物のお前を生かしてやってるのは何の為だと思ってる!」

「生きている価値が無い癖に」

「言葉を話すだけでもおぞましい癖に」

「何の役にも立たない癖に」

「お前の親は本当になんてモノを」


「「「「「「「「化け物が」」」」」」」」



「──────────────」


 その中心に、赤茶色の毛の猫虎族が居た。村人の声を聞いても尚、彼女は目を伏せたまま小さく、ごめんなさい、と繰り返すのみだった。

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