のようなもの

山猫拳

 妖精を見たのである。妖精とは人間の姿をしていて悪戯いたずら好きで、みなみな見えるものではないのだと言う。


 ある種の霊感を持つ者だけがその姿に気づくため、この現代では存在しても容易よういには気づかないのだとか。だとすれば、あれは妖精と言わずして何と表現したらよいのか分からないのである。


 こんなことを書いていては、が少し妄想癖もうそうへきのある少女か何かとお思いの方もいらっしゃるだろうが、は生命機能科学研究の分野で知られる公的機関にせきを置いており、それなりに世のことわりを知っている中年なのである。



 がある地方都市へ出かけて、地下鉄の駅で電車を待っていた時にそれは現れた。細長い駅のホームの中央にのぼりとくだりの電車が行違ゆきちがえるようになっており、余がいる側のホームが上り側。上り下りの二本の線路をはさんだ向かい側のホームが下り側であった。


 上り下りの電車の間には何もなく、電車が来なければ向かいのホームは丸見えの状態である。用事を終えて、あとは帰るだけだったので、ぼんやりと向かいのホームをながめていた。


 平日の午後だったためか、ホームにはぱらぱらと人がいる程度で混みあってはいなかった。ふと時間が気になって、懐中時計かいちゅうどけい外套がいとうの隙間から取り出し、時間を確認した。そして目を上げた瞬間に向かいのホームにひらひらの服を着た少女が突然現れた。


 懐中時計を取り出してる、わずかの時間である。のちょうど向かいに、まるで湧いて出るように少女はいたのである。ホームに出てくるためには長いホームの両端にある階段から降りてこなくてはならない。


 長いホームの中央付近にいたの目の前に来るまでに、絶対に気が付くはずなのである。何故なぜなら少女の出で立ちは、まるで中世の貴婦人のようであり、現代に於いて、異様であった。


 随所ずいしょにレースをあしらった黒いひざ丈のスカートは、パニエでふっくらとふくらんでおり、すそからは白いドロワーズがのぞいていた。胸元に大きなリボンのついたパフスリーブの黒い上着は手首のところで大胆な白いレースやリボンがあしらわれたカフスが付いている。細かなギャザーの寄った黒いサテンのボンネット。まるでルイス・キャロルの世界から抜け出してきたようであった。


 驚く尻目しりめに、少女はご機嫌な猫のように背を伸ばして、人々の隙間をうように歩き始めた。ホームに立ったまま新聞紙を読んでいる背広せびろの男に近づいた。新聞紙と男の間に少女は自分の頭をぎゅっとねじ込む。


 しかし、男は平然へいぜんと新聞紙を読んでいる。まるで、少女などいないかのように。少女はしばらく男と新聞紙の間にいたが、気まぐれなさまで間から頭を引き抜くと、今度は後ろのベンチに座っている老人の方へ寄っていった。


 老人の目の前にしりを突き出したかと思うと、ダンスでも踊るように尻を左右に振り振りとした。老人はじっと目の前にある少女の尻を見つめている。しかし、老人は注意するでも、顔を赤らめ恥ずかしがるでもなく、ただ憮然ぶぜんとして虚空こくうを見る目付きで前を見ているのである。


 少女はくるりときびすを返し、今度は老人と向き合った。しばらく老人と向き合っていたかと思うと、また横を向いて歩き出した。残された老人は、未だに虚空を見続けている。


 は向かいのホームで起きていることがにわかに信じられず、自分の周りにいる人間もこの光景を見て驚いているのではないかと思い、左右を見回した。余と同じように向かいのホームに目をっている婦人や壮年そうねんの男性が数人いるのだが、少女を見て驚いたり、顔をしかめているような人間は一人としていないのである。


 余は混乱した。どうやら少女に気づいているのは、一人きりなのである。


 再び向かいのホームに目を戻すと、少女は真剣に書物を読みながらホームの白線に立っている青年の周りに引っ付いて自分の存在を主張しているところだった。青年の背後に立ち、右に左にちょこまかと動き回って本の背をのぞき込もうとしている。


 青年は書物に集中していた。突如、少女は青年の右斜め後ろに回ると、両手を肩まで上げて、青年を突き落とそうとする動きを始めた。何回かやったところで、本当に青年に当たりそうな勢いで手を伸ばした。


「あっ……!」


 は思わず声を上げてしまった。その瞬間、少女はピタッと手を止めてこちらを見た。背筋をひやいものが流れたような気がした。ただの少女であるはずなのに、余の方が凄まじく威圧いあつされているような感覚であった。


 目をらせず、どうしようかと思っていたところに上り電車が入って来た。少女と余の繋がりは突然ぷつりと切れた。


 余は下を向いて電車に乗り込んだ。しばらくそのまま自分の足元を見つめて、席にも座らずにじっと立っていた。発車のベルが鳴ったとき、意を決して向かいのホームを電車の窓から見た。


 するとそこにはもう少女の姿はなく、青年も老人も背広の男も何事もないかのようにそこにあった。


 何をしても誰にも声を掛けられず、気にもめられなかったあの少女は、現代の奇人きじんへの無関心が生んだ現象でないのならば、妖精であると言う以外にふさわしい言葉が浮かばないのである。


 了

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のようなもの 山猫拳 @Yamaneco-Ken

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