(苦行)6
六.
冬休み明けの学年末テストも僕は受けなかった。留年が、ほぼ確定した。僕は、大学を辞めようかと考えながら街を歩いていた。支部の集会から一カ月が過ぎた。二月も中頃に入っていた。この冬は特別に寒い。僕は、いつも着ているダウンジャケットとマフラーに加えて、黒いニット帽を被っていた。バス停でバスを降りて、ダムドール支部に向かっていた。昼過ぎだった。あの集会で、牧多が、水越賀矢の諜報係として、若者信者の行動を監視していることを知った。僕はショックを受けた。そして、想像以上に傷つき、強い不信感も抱いている。でも、これだけ深く傷つき、強い不信感を抱くのは、それだけ、牧多を友人として信頼していたからだ。と、僕はしばらくして気づいた。
僕らは、礼命会に二人しかいない若者信者として、先生に紹介された。だから、厳密には信者仲間だ。けれど、先日のことがあって、僕は、牧多を友人だと認めていることを改めて知った。今から、支部で牧多と話をしてみて、彼への信頼を取り戻せないか試みるつもりでいる。牧多に諜報係をやめるよう説得をすることも考えている。他人に関心がなかったはずの僕が、今、冷たい冬の街を友人に会うために歩いている。説得しようとまで考えて……。まがりなりにも、教会で暮らす日々が、僕に良い影響を与えているということだろうか?
歩きながら、次に、僕は先生のことを考えた。いつ電話をしても繋がらないので、この前、本部の集会が終わってから、直接、先生に青年部のことを相談しようとした。
すると、先生が言った。
「私は信者様の家に伺うようになって、改めて、気づかされました。教会で信者様が訪れるのを待っているだけではいけない。私が、自ら信者様に神の思いを伝えなければならない。私の新たな使命です」
そして、すぐその場を去ろうとした。
僕は慌てて、先生の後ろ姿に声をかけた。
「先生! 僕は青年部のことでお話ししたいことがあるんです」
先生は振り返り、
「申し訳ないですが、そういうわけで私はとても忙しい。ですから、青年部のことは君に任せます」
それだけ言い残し、走り去った。
その時、先生は、そわそわしていた。先生は信者に会いたくて、そわそわする人ではない。寄付の回収のため信者の家に行こうとしていたところを僕に引き止められた。だから、そわそわしていたのだ。もちろん、先生の話は嘘だ。先生は、寄付の回収を目的とした「礼命会出張サービス」に熱中しているのだ。
先生のことを考えているうちに、ダムドール支部のある商店街の入り口に着いた。支部を見ると、珍しく信者の出入りがなかった。牧多と話をするにはちょうどいい。僕は支部に向かった。水越賀矢がいても、別にかまわない。信者がいないなら、彼女は以前とそれほど変わらないはずだ。僕は、水越賀矢の信者の前での振る舞いは、多分にパフォーマンスであると思っている。諜報係の話題だけ避けるようにしようと考えた。
支部の引き戸を開けると、牧多が事務机に向かっていた。水越賀矢はいなかった。信者も一人もいなかった。
牧多は、メモ帳を見ながら、それをノートパソコンに入力していた。彼のキーボードのタッチは正確だった。牧多は何でもできる。彼は器用なのだ。ただ残念なのは、彼の器用さが、彼を健全な方向に導いていないことだった。ニコイチ、コーディネイター、諜報係……。器用貧乏というのとも違う。何と言えばいいのだろう? 僕は彼を見ていた。
すると、「入力完了」と僕を見て牧多が言った。
そして、彼は入力したデータをプリントアウトした。
僕は事務机のところまで行った。そして、彼が印刷した紙をまとめている姿を見た。特に以前と変わりはなかった。牧多の暗い面を知った衝撃は僕の中から消えていた。おそらく、一カ月という歳月が解決してくれたのだろう。目の前にいるのは僕の知っている牧多だった。
僕は彼に言った。
「キーボードのタッチが上手いな」
「これぐらい簡単だよ。半日で完璧にできるようになった」
牧多はそう答えた。いつも通りの彼だった。
僕は安心した。そして、
「賀矢先生は休み? そういえば、先生は、休みの日は何をしてるんだろう」
と呟いた。
「俺も知らないんだ。プライベートには干渉しないから」
と彼は言った。
これもいつも通りだった。深く傾倒している水越賀矢であっても、彼はプライベートには干渉しない。年齢は離れているけれど、水越賀矢は女であり、牧多は男だ。たとえ恋愛感情ではなくても、それに近い感情を抱いても不思議ではない。だが、彼は違った。公私を峻別するというと大袈裟だが、彼にはそういうところがあった。
僕が、そんなことを考えていると、
「杉原。見てみろよ」
と言って牧多は印刷した資料を僕に渡した。
A4用紙で十枚あった。
僕は読んですぐ、諜報活動の記録だと分かった。読んでいいものかどうか迷っていると、牧多は立ち上がって、すぐ自分の手に取り戻し、「面白いんだぜ」と言った。
今日の牧多は、黒の防寒着ではなく、いつものバイカーズジャケットだった。この前伸びていた坊主頭もきれいに刈られていた。
僕たちは、支部の真ん中にある石油ストーブの近くにパイプ椅子を置いて座った。牧多は資料を目で追っていた。そして、「これがいい」と言って、資料の一カ所を読み始めた。
「一月二十三日。藤野道江、奥沢賢二組。橋の上で、金を持っていそうな年配の夫婦に無理にペンダントを売ろうとして、ペンダントの入った袋ごと川に放り投げられる。その後、二人で川に入ってペンダントの入った袋を探す」
そう読み上げると、
「一月の川は冷たかったみたいだぜ。途中で、奥沢が気絶しそうになって、藤野に抱えられていたから。だらしない男だぜ」
と自分の感想を加えて笑った。
僕は、藤野、奥沢の二人を気の毒に思った。
「次はこれだな。かの有名な石本、森野香々美組だ。またトラブってたよ。犬の散歩中の老婦人にペンダントを買ってもらおうと、石本が近づいた途端、石本、突然、犬に噛まれる。老婦人曰く、普段は大人しい犬で、こんなことは初めてだと詫びる。ちなみに、犬はボストンテリアで名前はマルちゃん」
牧多は読み上げると、また笑った。今度は爆笑した。
僕も石本と森野香々美のことは割と知っているだけに、何となく滑稽に思えたが、さすがに笑わなかった。
まだ、牧多は笑っていた。笑いすぎて目に涙を浮かべていた。
僕は、牧多を呆れて見ていたが、大事なことに気づいた。
これが、牧多賢治なのだ。彼は、離人感が強いため、自分の不幸も笑うし、他人の不幸も笑う。良くも悪くもそこに悪意はない。だから、諜報活動についても何の罪の意識もないのだ。
牧多が信者を追跡していることに陰湿さはない。それは、父親が死んで大喜びした時と同じで、彼はそういうパーソナリティなのだ。僕は気が楽になった。友情に変わりはない。要は、僕がどれだけ彼の解離性を許容できるかなのだ。限度はある。犯罪的な要素が強い場合は、僕は一市民として警察に通報しなければならない。でも、実際には、それは無いと思う。石本が犬に噛まれたぐらいで涙を浮かべて爆笑するのが牧多である。少し変わっているけれど、概ね普通の青年だ。僕はほっとした。これなら、一カ月も悩んでいないで、すぐに牧多に会いに来れば良かったと思った。そして、引き続き、牧多が読み上げる信者の記録をストーブの前で聞いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。