第一部 第一章(薄青色の眼鏡)
一.
僕は夏休みに入ってすぐ、腹痛で倒れた。厳密には胃痛だった。僕は子どもの頃から胃弱だ。自宅の近所のコンビニエンスストアの前だった。コンビニエンスストアの店員が驚いて店から走り出てきた。通りにいた人が、携帯電話で救急車を呼ぼうとした。
その時、
「ちょっと待って!」
と、それを制する声がした。
僕は倒れたまま、顔を上げると背の高い男がいた。男はその場にしゃがむと両手を僕の腹に当てた。
「悲しみを感じます。悲しみがあなたの胃を痛めつけています」
男は言った。
僕は、男が医者なのか、それとも、人が苦しんでいるのにふざけているだけなのか理解できなかった。
周囲も同じだった。
「あなた。医者ですか? だったら、任せますが、違うなら、救急車を呼びたいんですが?」
コンビニの店員が尋ねた。
「医者としよう」
男の返事は皆を困惑させた。
「医者としようって何だよ?」
高校生のカップルの男子が言った。
「医者じゃないってことよね」
カップルの女子が言った。
「お前、ふざけてんなら、どけよ!」
と男子が言った時、僕は思わず声を出した。
「痛みが消えている。あれだけ激しい痛みだったのに消えた」
男が僕に笑顔を見せた。
「今、悲しみが去りましたよ。私が、悲しみを慰めました」
男はこう言った。
皆、困った。言っていることは、インチキだとしか思えない。だが、現実に、僕の胃の痛みが治まったから、皆、何と言っていいか分からなくなった。だから、それ以上、関わらないようにその場を去った。
街路樹のセミの声がうるさかった。
男と僕だけが残った。
道に倒れたままなのも、みっともないので、僕は立ち上がった。Tシャツについた汚れを手ではらい、穿き古したジーンズの汚れもはらった。
男は、夏用の黒のスーツを着ていた。中には白いシャツを着ていた。ネクタイはしていなかった。髪の毛は少し長かった。薄く青色の入った眼鏡をしていた。どう見ても会社員には見えなかった。同時に、他の職業も思いつかなかった。
僕はとにかく、
「ありがとうございました」
と礼を言った。ただ、痛みが消えて落ち着いてくると、本当にこの男が胃の痛みを治したのかという疑問が湧いた。悲しみを慰めたら、胃の痛みが消えた? 何のことだろうと僕は思った。でも、現実に痛みが消えた。それと、僕は気づいた。僕は、その時、いつも抱いている生きることへの違和感も消えていることに。僕が悩まされていることは胃の痛みより、この違和感だった。僕は毎日がとても生きにくい。それには色んな理由があるのだけれど、僕は自分が現実の社会から疎外されている感覚にいつも襲われている。
お前なんか世の中には必要ないよ。いつも、こう言われている気がしている。
それが今、消えた。胃の痛みと同時に消えた。
「随分、顔色も良くなりましたよ。もう大丈夫です」
そう言うと、男は、右手を差し出した。僕は何のことか一瞬分からなかったが、男は握手を求めていた。
僕は、やや抵抗を感じたが、胃の痛みを治してもらった立場上、握手に応じた。それに、違和感も消えていた。これもこの男のおかげかもしれないと思ったから、僕は、右手を出した。
「青沢礼命です」
男は強く僕の右手を握りながら、名前を名乗った。「あおさわ・れいめい」。本名だろうかと疑問に思った。特に「れいめい」というのは違うんじゃないかと思った。そう思いつつ、
「杉原和志です」
と僕は答えた。
青沢は、優しい笑顔になり、
「生きにくさも、胃の痛みと一緒に消しましたよ。どうです? いつも感じている自分の社会へのそぐわなさを感じないでしょ?」
と言った。
僕は、ぼう然とした。
「ポカンと口が開いていますよ。さあ、私と一緒に行きましょう。陽の当たる場所へ。もう日陰を歩くのは終わりです」
青沢は、僕の心の中を知っていた。僕は驚いた。僕は強く惹かれた。何故なら、青沢の言う通り、僕は陽の当たる場所に出たかった。僕はもう陽の当らない場所を選んで歩くような人生にさよならをしたかった。僕は一瞬迷った。そして、その後、僕は彼の運転する車の助手席に乗っていた。
青沢礼命の運転する白のワゴン車は、両側面に「神と真と愛 礼命会」と書かれていた。
僕は、そこから、二つのことを知った。礼命は本名ではないであろうこと。そして、青沢は宗教家であること。その二つを知って、隣で車を運転する青沢を見ると、確かに、彼は宗教家らしい風貌だと僕は納得した。
サラリーマンでもないし、かといって、他の職業も浮かばなかったが、宗教家ならぴったりだと、僕は変に感心した。
それから、僕は青沢に、これからどこに行くのか尋ねようとした。でも、僕は尋ねるのをやめた。
彼に任せれば、陽の当たる場所に導いてくれる。そう信じたいと思ったからだ。
ワゴン車は、僕が通った小学校の前を通った。僕は校庭を見ていたが、夏休みで誰もいなかった。
青沢の声がした。
「私は子どもの頃、病気でほとんど学校に行っていないんです。小学校も、中学校も。当然、高校も大学も」
僕はその話を聞いて、どう答えていいか分からなかった。
「でも、私はそんな毎日の中で、神様に出会いました。だから、全ては神様に出会うための試練だったのです。私は、神様に選ばれたのです。みんなを幸せにするために、お前を選んだんだと私は、あの時、神様の声を聞きました」
僕は、もっとどう答えていいか分からなかった。ただ、
「病気で学校に行けなかったのは、僕は、気の毒に思います。そんなに良いところだとは思いませんが、ほとんど行けなかったというのは、やっぱり、気の毒です」
とその気持ちは正直に言った。
青沢は、そのことには答えず、
「全ては神様の御心のままに」
とだけ言った。
ワゴン車は、小学校の前を過ぎると、緩やかなカーブを曲がり、次に僕の通った中学校の前を通った。その時、僕は中学校を見ないようにした。青沢も気づいていたが、中学校のことには触れず、二人とも無言で中学校の前を走り抜けた。僕は青沢の顔も見ないようにした。しばらく、二人の間に沈黙が続いた。僕は、沈黙の中で、青沢の運転する車はどこを目指して走っているのだろうと考えていた。
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