9:魂の天秤と王の誓い

 朝の光が、ゆっくりと砂の海を照らし始めた。

 空にはまだ月の影が残っているが、その下で浮かぶ巨大な構造体――ピラミッドは、不自然なまでの静寂を保っていた。


 「さて……扉をノックする時間ですわね」


 エレノア・バブルスウェイトは、ふっと呼気を吐きながら、首元のリボンを整えた。 クレアは背後で無言のまま警戒を緩めず、ニャンデルは地面にちょこんと座り、やや面倒そうに耳を立てていた。


 「……ニャンデル?」


 「わかってるニャ、今やるニャ」


 ニャンデルはのそのそと前に出ると、突然、喉の奥で奇妙な音を鳴らし始めた。

 それは人間の声帯では到底再現できない、巻き舌と高周波が交差するような――明らかに“言語”としか思えない、猫族の呪音だった。


 「……にゃう・サァフ・メスカン……」


 その言葉が大気に溶け込んだ瞬間、空中のピラミッドが、重力に抗うかのように軋みながらゆっくりと下降し始めた。 砂が舞い、風が巻き、地面に近づくたび、空気が歪む。


 「着地というより、“迎え入れる”ようですわね……」


 浮遊構造体の下部が、静かに地表に接触し、ほとんど無音で“階段”のような構造がせり出す。 ピラミッドの中心部へと続くその道は、まるで神話の中の“王の通路”のようだった。


 中へ入ると、空気が一変した。

 温度は一定、光は壁の紋様から柔らかく放たれ、まるで太陽そのものが建築の一部に埋め込まれているようだ。


 「……空気に魔力が混じってる。揺れてます、ここ」


 クレアの指が、壁に触れる。指先が微かに振動していた。


 「ピラミッド全体が生きているように感じますのね……」


 しばらく進むと、彼女たちの前に、もう一匹の猫族が姿を現した。

 それは漆黒の毛並みに金の耳飾りをつけた、まるで神殿の番人のような佇まいの猫だった。


 「……ニャンデル殿の同行者ですね。女王様がお待ちです。王座にて」


 導かれるまま進む通路の奥で、エレノアはようやく“違和感”の正体に気づく。


 「……廊下の構造が、さっきと変わっておりますわね?」


 通ってきたはずの曲がり角が消え、新たな壁面に光る紋章と扉が浮かんでいた。


 「ピラミッドは今、“活性構造”モードに入っているニャ。魔力の流れに応じて、内部構成が再配置されるニャ」


 「えっ、じゃあ帰り道は?」


 「壁を見れば最新版地図があるニャ」


 「……それって、お茶を飲みに行って帰ってくる頃には、迷子になるってことですの?」


 そこは、王のためだけに存在する空間だった。


 ホールは丸天井構造で、天蓋から光が静かに降り注ぎ、壁一面には古代エジプトの法典を思わせるような浮刻文字が整然と並んでいた。

 地面には幾何学的な模様が敷き詰められ、その中央――宙に浮かぶ王座に、ネフティスは静かに座っていた。


 その姿は、かつて書庫で暴走した女王とはまるで違った。

 表情は冷静、瞳には理性の光を宿し、手には古の契約書を象徴する巻物のようなものが抱えられている。


 「――王として、お迎えしよう。民よ、来たれ」


 響く声は、決して大きくなかった。

 だがホール全体が、その声音に耳を傾けるように、静まり返った。


 「……余はネフティス。国の王、そして現王権復旧の執行者にして、現存する最高位の行政司法代理である」


 その第一声からして、すでに“会話”ではなかった。

 まるで法律が人格を得て、喋っているかのような錯覚すら覚える。


 「復活儀式に伴い、一部構造に過剰防衛行動が発生した事実を確認した。

 それに伴い、そなたらに対して心理的・物理的損害が生じたことを認める」


 「本件は、王権下における防衛システムの非意図的自動発動による事案と判断されるが、被害者側に対して誠意を示すことが、関係改善及び未来的利害一致の観点から適切であると判断した。よって――示談による解決を選ぶ。王国法第131条に則り、そなたらに相応の財物を持って補償を行う」

 

 「……えーと、つまり、謝罪ってことでよろしいですか?」


 その瞬間、ネフティスの手がゆっくりと持ち上がった。


 王座前方に、金色の光が凝集し、やがて美しい――儀式用の黄金のティーセットが出現した。


 「これは、前回の来訪時にそなたが無断で持ち出したカルトゥーシュ式茶器の“上位互換”である。本来であれば、盗難として王国法第892条に基づき告発も可能であったが――」

 

 「そなたが“非常に好ましく思った”ために行った行為であると解釈するに至った。余の失策によって王宮に好意を抱いたのであれば、それは国家の広報上、望ましい結果とみなすことができる。って本件は不起訴とし、むしろ好意の継続を目的として、上位茶器一式を贈与する」


 「……理屈は全く理解できませんが、ありがとうございますわ」


 「理解は不要。これは結論である」


 クレアがそっと耳元で囁く。


 「続けて、スフィンクスとの交戦についても触れる必要がある」


 ネフティスは王座から一歩も動かぬまま、厳格に言葉を続けた。


 「スフィンクスは現時点で機能を停止しているが、“死亡”はしていない。現在、再構築中である。当該個体は誤作動の自動防衛機構であり、そなたらの攻撃は状況に応じた正当防衛行動と判定される」


 「……つまり、悪くないってこと?」


 「そう。当該個体の損傷については、国家側からの損害請求は行わない。当事者である余が意思により、民事・刑事の両責任を放棄する」


 「……ええと、それもありがとうございます?」


 「礼は不要。これは、関係再構築の初期条件に過ぎない」


 ネフティスは、目を閉じるでもなく、口元を緩めるでもなく、完璧な直立姿勢のまま言った。


 「余は、これより先は――契約を基盤とする対話を望む」


 ネフティスの姿勢に、わずかな変化が生じた。

 その瞳が宙を見据えながら、自らに関する陳述を始めるような調子になる。


 「……今の余は、かつての完全体にあらず。 復活は未完であり、魂の大部分は依然として冥府との境界に縛られている。その影響により、人の情理――喜怒哀楽、共感、愛慕といった“非合理的情報”の処理能力が、著しく低下している」


 「……つまり、感情を理解できない状態なのですか?」


 クレアの質問に、ネフティスは即答した。


 「理解不能ではなく、“理解すべき優先順位にない”という認識である。合理的行動を損なう情緒要素は、現在の判断系統において“不要”と分類されている」


 「それは、ずいぶんと……悲しいですわね」


 エレノアがぽつりと呟く。


 ネフティスは一瞬だけ目を伏せ――だが、すぐに顔を上げた。


 「それを“悲しい”と定義できる時点で、そなたは既に余とは異なる存在である。

 ……だが、それゆえに、余はそなたと契約を結ばねばならぬ」


 王座の下に、淡く金色の光が灯った。幾何学模様が床に浮かび上がり、空気が変わる。


 「我が魂を、この現世に留め、完全体へと修復するには――“魂の楔”が必要だ。

 誰かが、我が存在を“必要だ”と定義し、魂の一部を余に接続せねばならぬ」


 「……つまり、魂の契約を?」


 「その通り。余が望むのは、そなたの魂の一部を用いて、現世における固定点を得ること。これは“真正なる共生契約”である」


 ネフティスは静かに続けた。


 「余はそなたにあらゆる知識と財力と権力を提供する。名誉、影響力、保護――望むものを申せ。金か、地位か、永遠の記録か。国家の礎となることさえ選択できる」


 「……太っ腹ですわね。ですが、“代価”の話が抜けておりますわよ?」


 ネフティスは頷く。


 「この契約は、双方向である。故に――もし、我が現世において再び死せば、そなたの魂もまた、冥府へ引き込まれる」


 沈黙が落ちた。


 クレアの眉が明らかに動揺で歪む。


 「それは……つまり、お嬢様が“王の魂の保証人”になる、ということですか?」


 「正確には、“魂の共同所有者”である。契約成立後、余とそなたは霊的に連結され、存続条件も共有される」


 「……なるほど」


 エレノアは、目を閉じて深く息を吸った。


 「少しばかり、興味が湧いてきましたわね」


 「お嬢様!?」


 「クレア、これは単なる契約ではありません。これは、わたくしにとって――未解明の古代文明との、最初の魂的共生実験ですわ!」


 「完全に研究者の目になってニャ!」


 「――であれば、代わりに私が契約を引き受けます」


 クレアの声が、唐突に空気を裂いた。


 「お嬢様が魂を賭ける必要などありません。

 わたしが契約者となり、ネフティス様の固定点となる方が合理的です。

 戦闘技術も、日常補佐も、突発的な危機管理能力も、すべて備えていますので」


 「……なるほど、優秀ですわね。わたくしの女仆、誇らしいですわ」


 エレノアは笑いながらも、前に出る。


 「でも、ダメですわよ」


 「お嬢様……!」


 「これは“わたくしが始めたこと”ですの。……この墓を掘り、王の魂を目覚めさせ、そしてスフィンクスに追われ、英国軍を巻き込んだ。すべては“わたくし”が選んで動いたこと。ならば、その責任も、わたくしが負わねばなりません」


 クレアが拳を握る音がした。


 「でも――!」


 「貴女は、この先もずっと、わたくしのそばにいなければなりません。だからこそ、“魂を縛る鎖”なんてものには、触れてはいけませんのよ」


 女王ネフティスは、その一部始終を黙って見ていた。

 そしてゆっくりと、王座から立ち上がった。


 「意志は確認された。ならば――契約の儀式を開始する」


 床に広がる幾何学陣が淡く発光し、空中には一対の“羽根”が浮かび上がった。

 一枚は純白、透き通るような軽さを感じさせる。

 もう一枚は灰色に染まり、欠けた縁がところどころ焦げたように歪んでいた。


 「これは、“魂の等価性”を量る天秤――マアト様の秤」


 ネフティスが言うと同時に、空中に現れた幻影の手が天秤を吊るした。

 それは、明らかに人ではない存在――公正の女神マアトの意志の具現だった。


 羽根は、それぞれの皿に乗せられ、音もなく静止する。


 しばらく、誰も動かなかった。

 だが――次の瞬間、天秤はゆっくりと、エレノアの側へ傾いた。


 「……っ」


 「不思議ではない」


 ネフティスが、初めてわずかに視線を逸らした。


 「我が魂は不完全。そなたの魂は未だ未損。

 よって、天秤がそなたの重さを上位と判定したのは――論理的な結果である」


 だが、その声音には微かに揺れがあった。


 理性の王は、ほんのわずかだが“誇り”を刺激されたのかもしれない。


 「……我が魂が、下位と判定されたことに異論はない。だが――」


 ネフティスは静かに天秤を見つめ、口元にごくわずかな緊張を走らせた。


 「この契約が“等価”であるためには、余が提供する価値が不十分であってはならぬ。よって、誓約の内容を拡張する」


 エレノアは、やや困惑気味に首を傾げる。


 「……拡張?」


 「そなたが余の完全復活と王国再建に協力するならば――

 王国再建後、そなたを“共治者”として王位に並び立たせる。名義上でも、実権上でも、等しく扱う」


 その言葉に、場の空気が変わった。


 クレアが「え?」と息を飲み、ニャンデルすら「にゃっ!?」と奇声をあげかけたが、寸前で飲み込んだ。


 「ネフティス様……わたくし、そんな大層なものを望んでいたわけでは――」


 「“魂を結ぶ者”を対等とせねば、余は“王”に非ず」


 そして、ネフティスは右手を天秤へとかざす。


 「マアトの名において宣言する――我が魂、誇り、そして王権の半分を、この契約に捧げよう。そなたが余を裏切らぬ限り、余はそなたに忠を尽くす」


 黄金の羽根が、微かに輝きを増した。

 それに呼応するように、エレノアの羽根もまた、より透明度を増し――


 天秤は、静かに、水平へと戻った。


 「……契約、成立」


 幻影の手が消え、天秤もまた霧のように空気へ溶けていった。


 残ったのは、二人の魂が響き合うような、静かな共鳴だけだった。


 「これより、そなたは王国の第一契約者――そして、“未来の王位共治者”である」


 ネフティスがそう宣言した瞬間、エレノアは目を輝かせ、ゆっくりと前へ出た。


 「……では早速、復国計画の叩き台をいくつかご提案いたしますわね!」


 「……早すぎる」


 「一、ピラミッド建設に携わったミイラたちを労働力として活用し、近代都市インフラ整備に投入しますの。 経験者は重機にも勝る、これぞ文明の連続性!」


 「……死者を公共事業に編入……? 労働契約の概念が……」


 「二、砂漠の地下には大量の未知の遺構と資源が埋まっておりますわ!これを“学術発掘・王室監修”として、国家財政に転用可能!」


 「……それ、略奪と紙一重では……?」


 「三、“ネフティス様ご自身”を近代化国家の象徴として―― 『憲法典に記載される立憲君主』にし、外交文書で王室の存在感を強化しますのよ!どうです?かなりモダンでしょう!」


 「……理解不能な政治的発想……」


 ネフティスは静かに天を仰いだ。

 天秤より重いものが、この契約には含まれていたのだ。


 「……どちらが王様なのやら」


 クレアは、そんな二人を見ながら小さくため息をついた。


 「両方だニャ。だから“共治”なんだニャ」

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盗掘お嬢様、古代の女王を蘇らせたら国家再建を頼まれました 派遣社員シーシュポス @user42

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