13


 いつも寝付きが悪いことを自覚しているのに、その日はすんなりと眠りに落ちていた。目を開ければ明るいだけの世界がそこにはあって、その眩しさに両手でかき消すようにする。


 窓から直接日差しが差し込んでいた。目が覚めたのはそれがきっかけだったらしく、心地のいい目覚めとは言えない。けれど、身体に染みついていた疲れのようなものは拭うことができていて、いつにもまして深く眠ることができたような気がした。


 起き上がったとき、近くに兄貴はいなかった。片付けのバランスがとれていない居間、脱ぎ散らかされている衣服、畳むだけ畳んでしまいこんでいない布団の影、台所にあるインスタントをかき集めたような散らばり方、そんな光景から兄貴が仕事に行ったことを察した。


 立ち上がって、それらを片付けようとする。寝る場所を与えてくれたお礼というわけでもないけれど、それでもせめてという気持ちで散らかっているものを片付けた。その拍子に見つけた、キッチンペーパーに雑に書かれている書置きが視界に入る。


『仕事行く、好きにしな』


 たったそれだけのことしか書いていない手紙。兄貴らしいな、と私は思った。


 私を起こさずに仕事に出た兄貴を思うと、兄貴は私をきちんと妹として、子供として扱ってくれている実感を覚える。きっと、同年代がそんな扱いを受けたのならば怒るのかもしれないけれど、それでも私にとってはそれが嬉しさにつながる。どこか肩の荷が下りた、そんな感じがしたのだ。


 心の中で張り詰めたような空気の重さ、それはいつの間にか霧散していて、今日も頑張るか、と独り言を吐けるくらいには楽になっていた。





 見慣れない道を充電が終わった携帯を頼りに、そのまま帰路に就こうとする。一応、兄貴が残した書置きに『ありがとう』という文言だけはつけておいた。キッチンペーパーに書くのは使い勝手が違うゆえに手こずってしまったけれど、それでも歪んだ五文字を読み取れない、ということはなさそうだった。


 家に帰れば、いつも通りに父と母が家にいた。何か怒られるような言葉をかけられるかもしれない、と不安に思っていた。だって、家出をするみたいに、それこそ非行少女のように出て行ったのだが。


 けれど、そんなことはなかった。


「本当にすまなかった」


 父は、玄関が開いた音に気が付くと、一目散に駆け寄るようにして、深々と頭を下げてくる。それこそ土下座に近いような形、というか土下座としか言えないような姿勢。頭が床につきそうなくらいに、私に対して頭を下げていた。


 私は、それに何を言えばいいのかわからなかった。いろいろなことがあって、それで父親が悪い、というのはわかっているけれど、それでも昨日家を飛び出したことを叱られると思っていたから、拍子抜けのような気持を味わう。そんな私の様子を奥の方から覗く母の姿。


「こういってることだし、許してあげましょ」


 母さんは穏やかな表情で私にそう諭してくる。


「……別にいいんだけど、怒らないの?」


「怒るって、何を?」


「……私が、家出したこと」


 私がそういうと、父がようやく顔を上げて「そんなの、俺しか悪くねえんだから」と返してくる。


「どこか知らない場所だったらまだしも、恭平の家に留まったんでしょ? それを怒るなんてことはしないわよ。……あと、父さんの言う通りでしかないしね」


 母の言葉を聞いて、改めて父が頭を下げる。申し訳ない、と言いながら。今度は床に頭がついたようで、少しだけ鈍い音が響いていた。





 結局、私の家出のような経験は、すべて兄貴から両親に共有されていたらしかった。そもそも、私が家から飛び出した時点で、母が兄貴に連絡をしていたらしく、特に不安もないまま送り出した、とのことだった。


 正直、してやられた、という気持ちも何となくあったけれど、それでも兄貴ならそうするか、という気持ちにもなった。そもそも兄貴に連絡してから来るまでの時間も早かったような気もしたし、色々なことに対する納得感の方が強かった。


 それから、一度家で落ち着いてから家族会議が始まった。会議、とは言いつつも、ただの報告のようなものでしかなかったが。


 その報告というのは、父が働ける場所を兄貴が見つける、ということだった。もともと兄貴と父の仕事は同じ現場のものだったからこそ、斡旋に近いことはできる、とかなんとか。母も詳しいことは知らないけれど、とりあえず兄貴とはそんな話をした、と私は聞かされた。


 そもそも恭平は、家がこんな状況になっていることを知らなかったらしい。それは父のプライドによるものなのか、それとも怠惰にかまけたためのものなのか、その話題が共有されることもなかったらしい。


「だから、大丈夫よ」


「ああ。……本当にすまなかった」


 母と父は私に向かってそう言った。


 これからは好きなことをしなさい、と何度も私に言葉を紡いで、そうして背中を押すようにしてくれる。


「ごめんね。私たちが紗良にばかり頼っちゃって」 


 母は申し訳なさそうに何度もそう言った。きっと、ただ私という存在を大人に数えていただけの話でしかなかっただろうけれど、それを罪深いように何度も言葉を紡いだ。重ねて、重ねて、ごめんね、とそれだけを何度も。


 でも、結局はそれだけのことでしかなかった。


 本当にそれだけのことでしかなかったのだ。





 それからは両親の言葉に押されるように、私は夜のバイトをやめてしまった。すぐに経済状況がよくなるわけじゃなかったから、安定してから。しばらくの間はあったけれど、とりあえず夜のバイトはやめていた。これについては、早起きのペースを崩したくない、というのが大きかった。


 父は兄貴の言葉の通り、仕事を見つけることができたようで、ようやくというべきか定職につくことができた。父が久しぶりに給料を持って帰った日には、家族全員、もちろん、兄貴も一緒に寿司を食べに行った。回転する寿司でごめんな、と父は言っていたけれど、それでも家族全員で過ごせることと、今までは望めなかった安定した生活が目の前にあることに私は喜びを覚えていた。


 バイトをやめてからは、適当に新しい趣味を見つけることにした。


 バイト先でよくバンドの話とかが話題になる。高校ではとりわけ仲良くなれる人とかはいなかったから、そんなバイトの人たちに影響されて、なんとなく楽器を始めようと思った。


 一度ギターに触れてはみたものの、すぐに指先が痛くなるし、でろんでろんな音しか出なかったからやめて、それならば、とドラムに手を出すことにした。流石に現物を一式で買う余裕とかはなかったし、あと騒音問題が気になったから、電子ドラムなりを買ってみたけれど、これが思いのほか楽しくて、私はのめりこんでいった。


 まあ、結局そこそこの技量しか身につかなかったけれど、それでもバイト先で楽器ができるらしい友人とバンドを組むことにした。最初は言葉だけの約束だったけれど、たまに私の家に来たり、友達の家に行ったり、思い切って演奏場所を借りたりして、遊ぶように暮らしていた。というか、遊ぶだけの余裕がきちんとできていたのだ。


 そんな風に過ごすのも子供らしい。


 そんなことを思いながら、私は私の中にある子供らしさというものを大切にしていくことにした。


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