11


 特に会話もないまま、私は兄貴の車に乗った。


 兄貴の車は埃臭さ、というか煙草臭さが蔓延していて、入るだけで少しだけ咳き込んでしまう。指が乾くような感覚を覚えるほどに、その片付いてなさについては理解できるほどで、それを何も気にしないで運転している兄貴を、私は少し変だと思った。


 窓を開けて、流れる景色で揺れていた。やはり会話はないままで、だんだんと知らない道へと車は走っていく。何かを話さなければいけない、とか、そんな気持ちがあったりもしたけれど、それでも何か話題が見いだせることはない。父のことを共有しようかとも思ったけれど、その時は思い出すだけでも腹が立ったから、とりあえず思い出さないことに意識を向けた。


 数十分くらい車の中にいたと思う。馬鹿みたいに流れるラジオの音が気に障っていた。テンションの高いパーソナリティーの案内で、そのまま勢いのよい曲が流れていた。自分の心情とは合わないな、という気持ちになりながら、そろそろ電池切れになってしまいそうな自分の携帯を心配していた。


 そうしてようやくついたのは兄貴のアパートだった。


 古臭い木造りのような外装をしていて、どこか貧乏屋敷のような雰囲気に驚いてしまう。兄貴の部屋は二回に位置していて、階段を上るときに少し不安定にも感じる鉄の感触が、私にとってはそわそわしてしまう要素でしかなかった。


 部屋に入った後、あまり片付いていない家の様子を眺めていた。


「ちょっと待ってろ」と、本来であれば私が家の中へと入る前に声をかけるべき言葉を今さら吐いて、片付いていない部屋をもそもそと片付け始めていた。そこらへんに転がっているティッシュの残骸や飲みかけか飲み終わったのかわからないアルミ缶を適当な袋に入れていた。流石に目の前の惨状を見て手伝わないわけにもいかなかったので、私は兄貴の言葉を無視して一緒にそれらをまとめていた。ありがとな、と不器用に笑う兄貴の声が妙に印象に残っている。


 ようやく部屋は片付いていき、それらしい一人暮らしの空間、というようになった。別に床が埋まるほどのゴミがあったわけでもないけれど、みすぼらしいとも感じるゴミの残骸は相応にゴミ部屋だなと思わざるを得なかったので、少しばかり片付けの甲斐のようなものを感じていた。


「ま、テレビでも見てろ」


 そう言いながら、兄貴は投げやりに置かれているテレビの、その横の方に置いてあるリモコンを私に手渡していく。充電器、と私が聞けば、そこらへん、と適当な返事もくる。それで何かがわかるわけでもないけれど、結局隅っこに追いやられていたUSBとコンセントを発見して、息切れしていた携帯を充電することができた。


 兄貴はそのあと、台所に向かっていた。


 実家のものとは大きさが異なっている小さい冷蔵庫からいくつかの食材を取り出して、それらを手早く処理していた。雑に流れる水道の音、私はそれをテレビの音で誤魔化すようにするけれど、あまり音量を大きくするわけにもいかなくて、結局兄貴の生活になじむような振舞いしかできない。


 じゃあ、じゃあ、とフライパンで炒める音。もともと家で家事をしている私が見ても火力が大きいと感じるほどに雑に調理をしている様を眺めていて、いつの間にか兄貴に視線をとられていたことに気が付いてしまう。そんな自分がなんかおかしくて、テレビなんかよりもそちらへと夢中になって、携帯を触りながら調理風景を眺めていた。


「おらよ」


 そうして兄貴が私に差し出したのは、雑としか思えない焼きそばだった。無駄にソースの焦がした匂いが鼻についたけれど、それでも野菜の彩については味が浸っていそうで、そこそこ食べれそうな雰囲気を醸し出していた。……めっちゃ上から目線な感想だな、って今でも思う。


 いただきます、と兄貴の食事に手を合わせた。あまりにも兄貴と一緒に料理を食べる機会が少なかったから、落ち着かない気持ちのままでそれを食べていた。


 大味すぎるソースの風味。くたくたになるまで炒められている野菜、くしゃくしゃと言った方がいい麺の感触。悪いものではないけれど、良いものでもない。


 ただ、久しぶりの手料理でもあるように感じて、どこか心の中に沁みるような気がした。もしくは傷口に沁みるような味だったのかもしれない。


 口に運ぶたびに、なぜだか涙はあふれ出てしまって、しょっぱいことを心の中で言い訳して、涙をぬぐってはそれらを頬張る。


 テレビの喧騒、外から聞こえてくるパトカーの音、そして、それ以外には何も響かない私たちの静かな沈黙。


 ただ、兄貴はそんな私に何も言葉を言わないまでも、何かを悟ったのか頭を撫でるだけして、ただ静かにその場に佇んでいた。久しく感じる大人の温もりのようなものに安心しきっていた。




 きっと、あの時の私は大人になろうとしていた子供なのだ。子供でしかないのだ。自立を促されるような環境にあって、もしくは自立をしようとして、その結果、散々なことを見せられたから、一気に心が折れそうになったのだと思う。


 子供のままで抜けきれなかったから、私はそれを言葉にして吐き出すことができなかった。その証があの時の涙だったのだと思う。




 兄貴は、そんな私を子供扱いしてくれた。良くも悪くも、兄貴は私を子供だと、妹だという風に扱ってくれていた。


 そんな撫でられる手に、私は涙を流すことしかできなかった。


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