第11話 幽明の調べ 其の六
「ユウよ、体は休めたか?」
「水鏡先生・・・・ここはもう長坂を越えた場所。」
「そなたは他人の心配ばかりじゃな。」
「でも・・・二里のお約束が・・・・こんな処まで来て頂いているのですから。」
その言葉に水鏡は『善きかな、善きかな』と笑う。結城は困惑して彼の笑顔をみつめた。
「人の道はその種によるもの・・・・そなたには人を動かす何かがあるだけのことよ。ワシは其れに従ったまでの事。」
「すみません・・・・迷惑ばかり・・・・・。」
「曹軍勢が一旦引き上げるようじゃな。」
「ええ。童子が情報を持ってきてくれているので、戦況がよく分かりますね。」
「明日で三日目、仲達が近辺の村に密偵を放っているようじゃ。」
結城は体をビクリとさせた。水鏡は丘の上から遥か先を見ながら付け加える。
「長坂付近から北の集落だけじゃ。そなたが一日遅く目覚めていれば仲達に捕まっていたであろう。」
「夜には旅の仕度をしておいた方が良さそうですね。」
「いや、今は休息を取る事じゃ。」
結城は民家を振り返り、大きな木の下に居る徐庶の母親を見た。彼女はここ数日結城の手当てを手伝ったり、気を張り詰めている。
この時代の女性は旅などしないのだ。そんな奥ゆかしい女性が、二日もの間追っ手を気にして
結城は彼女の所に戻ろうとした。
「ユウよ、
結城は驚いて水鏡を見る。彼は遠くを見て、結城が孔明を林に突き飛ばさなければ捕まっていたであろうと言う。
あの時、孔明は劉備様に
ましてや、曹操は人物の
徐庶に至っては、在った事も無い男の母御を、劉備と孔明、孔明と徐庶、というつながりだけで助け出してくれたと感謝する。
慈愛の眼差しは水鏡なりの恩返しだったのだ。それが判り、結城は水鏡に一礼すると母御の所に走って行った。
「徐庶の母御様・・・・不自由はございませぬか?」
「ユウ殿、貴女様こそお加減は?」
「大丈夫です。母御様が手当てして下さったので。」
「ユウ殿、私は貴女に謝らねばならない・・・・。命の尊さを教えて下さった。それなのに・・・。」
「いいえ私の方こそ、あの寵姫は私の友達・・・・まさか、あんなにも変わり果てた状態になるなんて・・・・・。」
「乱世とはいえ、あまりにも無常・・・では、あの一瞬で貴女は全てを捨てて私を助けて下さったのですね。」
「え・・・・?!」
友の柚が犯す罪を、自分を逃がす事で被ったのだと母御は言う。
そして、それだけではなく・・・・今まであった環境や人の和を失うことも恐れず助けたのだと切に訴えた。
「良かったのですか・・・・。」
「あの‥‥。」
不意に質問をされて結城は
「想う殿方がいらっしゃったのでは・・・・?」
母御は切ない視線を向けている。結城は真っ赤になって首を横に振った。
― それとも、私が時間を割いて教授せねば淑やかにはなれぬか? ―
頭の中に仲達の
「そ・・・そんな殿方・・・居ませんっ!」
「明日は孔明様が仰った三日目。もう曹軍には戻れなくなるのですよ。」
「それに、私は男子として生きるのだから。」
彼女の視線から逃げるように、男子という言葉を強調させる。環境に順応する事だけを考えていた結城にとって、忘れ去ろうとしていた恋愛に対する、乙女心が
今思ってみれば、仲達の言葉は現代で言うアプローチにならないだろうか?
「どちらにしても、よく考えてから明日は行動なさいませ・・・・貴女には幸せになってもらいたいのです。」
「・・・・ありがとう・・・ございます。」
妙な話だった。徐庶は劉備軍の参謀で、彼女は徐庶の母。なのに結城を気づかって、曹操軍に戻らなくて良いのか?と聞いてくる。
命の恩人だとしても律儀すぎる彼女の言動は、結城を一瞬で乙女に引き戻してしまった。
「どうしよう。」
その夜、眠れぬ結城は独り丘に登って眼下に広がる荒野を見た。満天の星が夜空に散りばめられて、宝石箱を引っ繰り返したようだ。
人に言われるまで、人の想いに気が付かなかった結城。
仲達は全て見通して声をかけていた。自分の元から離れることになったとしても 最後の砦として”余韻”を植え込んでおいたのだ。
見事に思惑に嵌り、結城は何度も星を見ては溜息を付く。
「私・・・仲達殿のこと・・・・・・ううん、違う!違うわ・・・違うんだってば・・・・。」
首を振って否定する。いつか読んだ本に、断崖絶壁の橋の上で告白するとOKの返事をもらえる確立が高いとあったのを思い出す。
自分は柚の我侭で命を落としそこねた、それを救ったのが仲達達の策だった。感謝しても、恋愛とそれは別物なのだと現代的感覚で沈静する。
普通の娘ならここで仲達の元に戻っているだろう。しかし、それは仲達も読んでいる事であって・・・・。
結城は
「程殿ではござらぬか?」
「ほぅ・・・張将軍ではないか・・・
程昱は陣営の中を歩きながら張将軍に一礼した。髭をはやして馬から降り立った彼は、見れば見るほど偉丈夫だ。
武力もさることながら心の熱い知将でもあるこの者、姓を
「おお、
「
「仲達殿の所よ。」
「そうか、では拙者も報告に
背中に手を回し、労いあう二人は程昱に挨拶をすると大きな幕の中に消えた。中では
「司馬軍師、殿の命で此方の任についた。」
「そうであったか。今宵は親しい
仲達はワザと口を濁した。
そうすることで張郃が配慮すると踏んだのだ。案の定、彼は仲達の欲しい言葉を言ってきた。
「司馬軍師、
「貴殿というのではなく、ここに居られる方々に願いたい。」
「仲達殿?」
「まさかユウ殿の居場所が判ったのでござるか?!」
「恐らく、ここから二十里ほど南下した村に。」
夏候惇の問い返しに仲達は微動だにせず、目的があることを告げる。そのやり取りから
それほどの御仁なのかと心の中で問う。首を少し傾けた彼に、夏候惇と
「仲達殿が想いを寄せるのも判らんでもない。しかし、その御寵姫・・・・」
「殿は溺れるような遊びは為さらぬ。」
「国の些細な政は丞相や軍師、参謀が取り仕切る。しかし、そこに女帝という形で邪魔が入れば国は憂い人心は乱れる。」
「特に軍師殿などの奥方には聡明な方を、そう願っておりましたからな。共に君主に仕える視点で物事を計れる女人でなければ。」
幕が開いて
曹操が冴えない娘を置くのは乱世の
「殿には許将軍・徐将軍・龐将軍や私が残ります故、心配はございません。」
「仲徳殿。」
「そう言う事なれば
「では、此れから出むく準備をして頂く。」
仲達は短く区切ると幕の奥へ消えていった。多くを語らず、頭を下げぬ軍師。
横柄に聞こえるやり取りであったが、彼が人前で私事を依頼し頭を下げるのは下々に示しがつかない。
衛兵、門番、従事している者は上のやり取りを見て学ぶのだ。如何に人払いしていても、布越しに話は聞こえる。
必要最低限、それが仲達のやり方だった。
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