第10話 幽明の調べ 其の五

 結城は雪のような白い世界を歩いていた。


「・・・結城・・・・結城よ・・・・。」

「おお、司馬しば殿・・・・私は何と罪深い事を・・・・。」


― 司馬・・・・これは母御様の声?・・・・じゃぁ水鏡先生なの? ―


 腕に感じるかれた痛みが、意識を現実へと引き戻していった。うっすらと目を開けると、自身を覗き込む影が2つ。

 どちらも見覚えはあったが、その一人を見て結城は驚いて飛び起きようとした。


「徐庶殿の母御様・・・・どうして逃げないのです!」

「ああ、ようやく気がつかれたのですね。」

「水鏡先生・・・・ここに母御様が居ては・・・ああ!」


 結城は力なくなげいた。その肩に手を置き、水鏡は『善きかな』と言うだけ。もどかしさを感じた結城は水鏡に今までの経緯いきさつを話した。


「では、私は井戸に身を投げたことに・・・・・。」

「もう直ぐ、城を抜け出した私に追っ手がかかります。ここに居ては・・・全てが・・・・・。」

「であろうな。この袋に孔明からの書簡が入っておる。」

「えっ、孔明様からの?!」


 結城は驚きながらそれを受け取った。


『 佐倉ユウ殿、母御を連れて荊州を南下されたし 』


「水鏡先生・・・・荊州を南下されよって・・・・書かれてます・・・。」

「うむ。ここより数十里ほど馬を走らせ、支流にある船に乗れば支流から長江に出て南下できるじゃろう。」

「あの・・・・・私は馬に乗ったことが・・・・・・。」

「ワシと童子が案内しよう。」


 地理が上手く頭に入っていない。荊州とは都市が集まったものの総称体で、曹操が居る城は新野しんやである。

 劉備玄徳は樊から南下して・・・襄陽じょうようを通過し江南へ向かっていた。

 水鏡は戦況を説明し、曹操が劉備を追撃する動きがあるのだと言った。


「孔明のこと。何か策をねっておる筈・・・・・南下しながら出方をみるしかあるまい。」


 腕を固定しながら、出立の準備をする。結城は水鏡に言われるまま馬に跨ったが 彼にしがみ付くのがやっとでどうする事も出来ない。

 水鏡は馬上から辺りを見回し、時折、思いつめたように書簡を見る。


「恐らく、曹操は当陽の長坂橋あたりで追い付くであろう。精鋭騎兵五千を率いて昼夜駆けておる。」

「それって・・・・水鏡先生、曹操殿はまだ母御のことを知らない?!」

「司馬仲達が早馬を飛ばしても数日後になろう・・・・。」


 結城はますます理解に苦しんだ。仲達達が結城の事を黙認しているのならばいざ知らず・・・・柚の不手際と言え、母御を捕虜にする好機だったのだ。

 見逃した・・・・・としか思えない。


「仲達殿は・・・・わざと・・・・・・。」

「情けは無用じゃ。これも兵法の一つ。」

「!!」

「情に負ければ、そなたは仲達の物にならねばならん。」

「そんな・・・・。」

「人心を掴む女性は貴い。仲達は徐庶とそなたを天秤にかけたまでのこと。」

「天秤・・・・?」

「あれはそう言うおとこよ。」


 駆引きだったのだと。離れた今も尚、力量を試されている結城。彼の計略に乗せられた形で自分は水鏡のところにいるのだと。


「先生に迷惑がかかります!」

「それには及ばん。」


見えてきた川を渡り、水鏡は馬首を傾ける。

その意味は結城にも理解できた。

このまま突き進めば、曹操の後方を行くことになる。


「この先に行けば曹軍を迂回できるじゃろう・・・。」

長坂橋ちょうはんきょうを迂回して渡るのですね。」

「そろそろ次なる書簡を読むが良い。」

「え・・・・・?」


懐から出した書を結城に渡して 歩みをおそめる。


『 長坂橋を渡り終え、十里進んだ村で三日身を潜められよ。 』


 文章は単刀直入。その後の事は書かれていない。結城は黙ったまま水鏡に書簡を渡した。


「ほほう・・・・仲達が仕掛けるやもしれぬのに大胆な男よ。」

「これは随分前に書かれたのですか?」

「孔明に言わせれば、”道”がある時は何時問うても同じ答えが用意されておる、ということじゃ。」


 超能力者かと思わせるほど、先を見通した指示。天下の天才軍師。しかし、仲達もその彼と渡り合う技量の持ち主。結城は生きた心地がしなかった。


― 翻弄されてる・・・・何で歴史上の軍師二人の計略にはまったり乗ったりしてるのか・・・・ ―


 そもそも仲達が自分に興味を示しているなど、考え付きもしなかったのだから。

 それを見越したように孔明が助け舟をだしている。考えれば考えるほど、実に奇妙な縁なのだと結城は溜息をついた。


「川はそのまま渡るが、傷を濡らさぬようにしっかり掴まっておれ。」

「はい。母御様は大丈夫でしょうか?」


 疲労困憊ひろうこんぱいしていたが、数十里進めば村で休める。二日間、走り通した結城達は夜遅く小さな集落に辿り着いた。


 その夜、結城は緊張が和らいだせいもあって、深い眠りについた。



「軍師殿、これで良かったのですかな・・・・・。」

「こうもせねば孟徳様に従軍することはできまい。もう一つの目的も果たせぬのだからな。」


 陣営の明かりに浮かび上がったのは程昱ていいくと仲達の姿だった。曹操の陣に追い付き、張飛の長坂橋での一件を聞いた仲達は、やはり来て間違いは無かったのだと笑う。

 少数で軍のしんがりを務め、曹操軍の足止めを見事やってのけた英傑えいけつ。その上、趙雲ちょううん単騎たんきで大軍の中を縦横無尽に走り駆けた報告を受けて、ほとほと劉備の元には英傑が集うのだと呆れた程だ。


「劉軍はやがて兵を立て直すだろう。今は軍の指揮を回復せねばなるまい。」

「成る程・・・・では孟徳様に進言なさいますか。」

「いや、我君わがきみも判っておろう。それよりも軍の引き上げに際し、近場の集落に玄徳の妻子が潜んでいないか捜索させよ。」

「・・・・・・あらぬ者が見つかった場合は貴殿、どうするつもりか?」

「元ある姿に戻すまで。なれば、私が預かり得ても寵姫殿も文句はあるまい。」


程昱は一礼すると引き下がった。


孔明、仲達の思惑は徐々に結城に偲び寄っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る