第7話 幽明の調べ 其の二

  結城は書を片手に庭園を散策していた。

 ここ三日ほど孫子を読んだが、一行とて、理解するには想像するのも難しい。


「仲達殿は聞きに来いって言ったけど、聞くも何も判らない事だらけ・・・」

「その声はユウ殿か?」

「え・・・・荀攸じゅんゆう殿?」


 あの事件から結城は女性である事を知られている。それでも変わらぬ接し方をしてくれる彼らに礼を言えずにいた。命をながらえたのはその場にいた彼らの気転であるというのに。

仲達曰いわ


『ユウ殿、計略とは戦場に限らず全てに生きる。この意味が判らなければ礼は必要ない。』


ということなのだ。

だが、気恥ずかしさで赤面するのは止められない。


「仲達殿から聞きましたぞ。孫子そんしを読んでおられるか。」

「はい。でも形式的には頭に入っても・・・実感するのは難しいのですね。」

れはな事を。貴殿きでんはもう実践されているではないか?」


― 皆同じ事言うのね・・・私が知ってるのは武田信玄の風林火山だけなのに・・・ ―


「・・・・・・。」

「どうなされたユウ殿?」

「おお、これはじゅん公達こうたつ殿。」

てい仲徳ちゅうとく殿、貴殿は許昌きょしょうで内政に従事じゅうじされていたのでは?」

「うむ。孟徳もうとく様からの早馬があってな。戦を進めるに当って後方の守りを固めよとな。」

「仲徳殿が参戦ならば我等のうれいも無くなる。」

「公達殿、世辞せじらぬ。何、若き仲達殿がその手腕を見せれば私など必要ないのだ。」



 皮肉ではなく、程昱ていいくという男は仲達の力量を見極みきわめた言い方をした。その声を聞いて荀攸も『全くその通り。』と和やかに笑っている。

 曹操の元には良き理解者がつどしたっているようだった。


「ところで、貴殿・・・その若者は?」

「ユウ殿と申して、仲達殿の側近を務めておられる。」

「ほほぅ・・・・其れは孫子・・・・・仲達殿は可愛がっておられるようじゃな。私は程昱ていいくあざな仲徳ちゅうとくと申す。」

「あ、佐倉ユウと申します。よろしく、ご指導下さい!」

「ハッハッハッ・・・仲達殿に付かれるならば、これ以上の指導は無いぞ?」

「ユウ殿、挨拶だけで良いのですよ・・・」

「え・・・あ、すみませんっ!」

「なんと素直な・・・。」


 突如とつじょ現れた、程昱と言う男。荀攸の伯父おじである荀彧じゅんいく推挙すいきょで曹操に仕えることになった参謀さんぼうである。

 彼の武勇は、曹操が袁紹えんしょう対峙たいじした時に『十面埋伏じゅうめんまいふくけい』を進言して勝利へ導いた者として、後世に伝えられている。

 しかし、そんな大人物であることを、結城は知り得ない。大学で中国史を専攻しているか、好んで三国志を読まなければ知らずにすむ事。


あせらず見たものと照らし合わせて吸収されよ。」

「はい。」

「時に荀攸殿、今回・・・敵はじょしょ元直げんちょくと申す男が指揮を取っている。」

「仲達殿を軍師としたのは、相手の力量もそれなりということだろう。」

「あの水鏡と知られた司馬殿と交友の深い者か・・・」

「それ故、主君も手を焼いているのだ。」


 二人の会話の中にどれだけの意味が含まれているのかなど、結城には理解できるはずも無い。

 その二人が仲達を絶賛する。そんな仲達の側近が勤まるか・・・・不安を通り越して恐怖さえ感じてしまう。


 そこへ、以前見たことのある男と共に仲達と張遼ちょうりょうがやって来た。


「ユウ殿、きょ 仲康ちゅうこう将軍だ。」

「其の節はお世話になりました。佐倉ユウと申します。」

錚々そうそうたる顔ぶれですな。ユウ殿、楽になされよ。」

「え・・・。」


結城が怯んだ時、庭園の向こうから夏候かこうとん荀彧じゅんいくが顔を出した。


「何とも・・・これはこれは。」

治世ちせいでもあるまいに、我等が斯様かような場所で対面とは・・・孟徳様が見たら笑われるな。」


 皆、結城を心配して顔を出したのは言うまでも無く。多忙な仕事の合間を見てやってきたのだろう。


「ここに居る者は貴殿の問いかけに答えてくれるであろう。私が来るまでもなかったか。」

「え・・・」


― 心配・・・してくれたの? ―


 感動で胸がいっぱいになり涙ぐむ。

 それでも渡された書を理解する事もできない不甲斐なさに唇を噛み締める。人の心が温かく感じるからこそ、結城は余計にみじめになった。


「ごめんなさい・・・それでも・・・」

「?」

「皆様方のお心に応えるに至りません・・・在り方すら判ってませんから・・・」

「ユウ殿、なげかれるな。」

一知半解いっちはんかい・・・・それを知り得ただけでも収穫があったではないか?」

「仲達殿?」


その横で荀攸が優しく解す・・・。


不知ふちを知れば上・・・聡明なれど、知を知らざればへい・・・知っているのだと思い込めば己の欠点になる。」


― それって・・・・それって・・・・ ―


 荀攸を見て固まったままの結城。

 この娘は荀攸の諭しにどう応えるか、興味の目が注がれていた。ゆっくり瞬きをすると、結城は深呼吸して仲達に視線を移す。

 言葉は受け取ったのだ。後は自身の中でどうかえりみるか・・・・。


「無知の知・・・無知から”どうあるか”と学ぶ・・・・それが判っただけでも良いって言ってくれたのですね。」


 何気なく問い返した言葉に、その場にいた者は感嘆の声を上げた。

 ただ単に馴染み深いソクラテスの言葉を引用したに過ぎなかったが、仲達達には充分だった。

 荀攸は嬉しそうに、笑みをこぼして結城を見つめる。


「いや、流石ユウ殿。この程昱、良い言葉を頂いた。」

「うむ、まさか即座に解して応えるとは・・・・。」


 自分は理解をしただけで、誉められる事はしていない。

 もし発した言葉を誉めているのなら、それはソクラテスの功績なのだ。


「わ・・・私は判らなかったから聞いただけで・・・。」

「だが、今は解している。」

「あ・・・・!」

「問答とは斯様なものよ。」


 素直に与えられた知識を吸収していく様は、見るものを魅了するのだろう。

 結城は幸せな気持ちに満たされていた。


 しかし、その一方で人道に恥じる策略が進められていた・・・・・。


 結城の波乱の道はまさに始まったばかりなのだから。

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