第6話 幽明の調べ 其の一

 結城は広い城内の庭を歩いて小さな溜息ためいきを吐く。

ここ数日間、柚とは会っていない。それが返って冷静に自分の立場を分析できる余裕を与えたのだが。

 時たま隻眼せきがんの武将・・・夏候惇かこうとん将軍が顔を出す。彼は老子ろうし荘子そうしの書物を持ってきては、いろいろと世話をやいてくれる。


 それが同情か興味なのかは考えが及ばない。

 判った事は、自分は文字が読めるということ。当然過ぎて驚いたが、言葉も通じていることに今まで気が付いていなかった。


「先日渡した書物は読まれたか?」

「一応通読つうどくしましたが、奥深くて・・・・何度か繰り返して見たいと思います。」

「そうか・・・・ユウ殿、貴行きこう・・・外の事にも目を向けられよ。」

「外・・・?」

「民だ。民無くしては国は作れん。」

「外に・・・出ても良いのですか?」


 遠慮がちに言った言葉に夏候惇は『我殿は細かい事を気にする性格ではない。』と豪快ごうかいに笑う。

 要は、欲するのであれば貪欲どんよくに吸収せよ、ということらしい。


「では、今日の午後にでも散策してみます。」

「うむ。ワシは行けぬが案内を他の者に頼んでおこう。」

「ありがとうございます。」


 結城は幽閉ゆうへいされるイメージを抱いていたのだが それが見当違いだったことを恥じた。

 これより先は、恙無つつがなく目立たぬように振舞えば・・・自分の事など誰一人思い出すことも無くなるのだからと。


 しかし、運命は皮肉にもそれをくつがえす試練を結城に与えた。


「ユウっ!ユウっ!」

「柚様、斯様かような処にいらしては我等が怒られます!」


 侍従じじゅうの言葉を振り切り、柚が部屋のとばりを開け放つ。


「今の声は・・・柚様のお声では・・・・?」

「まさか・・・。」


 結城は蒼白そうはくになりながら 声のする方を見た。

 今ここには、仲達や荀彧じゅんいく・・・荀攸じゅんゆう等の錚々そうそうたる顔が揃っているのだ。

 こんな場所で寵姫ちょうきとなった柚が我侭を言えば結城の命は無い。


「こんな所に隠されているなんて・・・・酷いわ。」

「・・・・・。」

「柚様、我等は今軍議の最中。御用とあらば後ほど伺います故・・・・。」


 荀彧が見るに見かねて柚をいさめたが、次の発言でその場はて付いた。


「ユウ、私・・・もう嫌なの。水鏡先生の所に戻りたい!」

「な・・・何言って・・・・。」


 声にならない。

 柚の発する言葉は結城の心をズタズタに引き裂いていった。それでも良心をとどめて、迷惑がこれ以上、誰にも及ばないように柚を引き止める。


「貴女の言っている事は・・・ここに居る全ての人に迷惑がかかる・・・それを。」

「それが何よ!ユウはちっとも私と居てくれない!」

「貴女の言葉は全てを滅ぼしてしまう!」

「誰がどうなったって構わない!私は帰りたいのっ!」


 決定的な言葉。

 心の何処かで何かが壊れていく。


 パーーーーン!


「柚、貴女には道徳心が無いの?!ここに居る方々が何をした!少なくとも・・・少なくとも・・・・」

「何よ、ユウだって皆をだましてるじゃない!女のくせに!」

「・・・・・っ」


 現実に引き戻された結城は力なく壁に寄りかかった。でも着いて来るのではなかったと、今頃になって後悔する。


「そうだね・・・私は何も言う権利が無い。だけどっ・・・今までお世話になった方々に迷惑がかかるのだけは避けたい・・・。」

「1人だけ良い顔しないでよ・・・・自分だって元の世界に帰りたいくせにっ!」

「うん。帰りたい・・・今になって柚・・・貴女の我侭に付き合ったこと、とても後悔してる。」


 最早、懺悔ざんげだった。

 全てが軍師陣ぐんしじんの前であばかれてしまったのだ。死は確実にやってきていた。

 結城は気力を振り絞って最後に伝える言葉を発した。裏切られても思ってしまう心。


「それでも、友達だと思ったから、だから・・・・最後の忠告ちゃんと・・・聞いてね。」

「何で最後なのよ・・・。」

「上に立つ人ほど責務と重責は大きいの。その奥方になったんだから自戒じかいする心を身に付けて・・・。」

「何・・・言って・・・・。」

「歴史上、優れた王には優れた女性が必要だよ・・・もっと他人に目を向けて・・・・民を大切にして・・・慈悲の心を忘れないでね・・・。」

「嫌よ・・・何・・・・何言ってるのよ・・・。」

「自分をかえりみない人は誰からも相手にされない・・・妻になって旦那さんを支えるって・・・大変なことなんだから・・・・・。」


 くやしい、口惜しい・・・・それでも友なのだ。柚に背を向けたまま結城は仲達に向き直る。

 泣くまいと唇を噛み締め、頭巾ずきんを取りながら一礼する。


「いつかこんな日が来ると思って、でも・・・・・それでも、大切だから・・・・・柚をお願いします。」


束ねた髪がふわりと下ろされ、女性らしさを引き立たせる。


「ユウ殿・・・・そなた・・・。」


 駆けつけた夏候惇と張遼ちょうりょうが息を呑む。誰の目にも結城の姿ははかなく映った。

 そんな結城の頭巾を手に取り、結城に被せる。


「夏候将軍・・・剣を。」

「な・・・司馬軍師、気は確かか!」

「確かも何も、ユウが何者であれ・・・寵姫に手を上げたのだ。死を以ってつぐなうしかあるまい?」


 淡々たんたんと告げられた言葉に、その場の全員が悲痛な顔をする。


― 生かしたい ―


 その場に曹操がいれば違っただろう。手渡された剣がさやから抜かれる。


「止めて!」


 柚は剣の前に立ちはだかって仲達を止めた。


「退かれよ・・・寵姫殿。」

「嫌っ、ユウは殺させない!」

「これは最早、貴女だけの問題ではない。貴女に無礼ぶれいを働いたということは主君に無礼をしたのと同じこと!」


 仲達の声はりんとして、気迫がこもっている。


「ダメ・・・殺さないで・・・・我侭を言わないから・・・もう、帰るなんて言わないからお願い・・・!」


 泣き崩れる柚を見て、張遼が口を挟む。


「軍師殿・・・拙者からもお願いする。確かに無礼は許される事ではないが、寵姫殿が離れられるのを諌めて下さったのだ・・・」

「左様、多少行き過ぎたところもござったが・・・拙者に免じて穏便に出来ぬか?」

「仲達殿・・・我等も同意見です。」


張遼と夏候惇に引き続いて荀彧・荀攸の両者も頭を下げる。

仲達は柚を見据みすえ問う。


「ユウ殿にこれまでと同じく過ごして頂くには、寵姫である貴女の協力が必要。」

「判ったわ・・・何をすれば・・・・・・。」

「何もすることなど無い。ただ・・・今後は二人・・・お会いしないで頂こう。」


 絶句した柚に仲達はさらに追い討ちをかける。


「ユウ殿が男として生きる以上、貴女が近寄ればあのお方の嫉妬心をあおることとなる。」


 その言葉に柚は力なく頷いた。

 結城はただただ、唖然としていた。

 柚が去った後、顔に掛けられた布が取り払われたが・・・・呆然と目の前の仲達を見ることしかできない。


― 何が・・・起こったの? ―


「くくっ・・・先程までの威勢いせいはどうした?」

「私・・・私は・・・・。」

「寵姫様には手をいておりましたが、これで当分は大人しくなって頂けますな・・・仲達殿。」

「という事だユウ殿、貴殿が気に悩むことなど何一つ無い。」


 仲達や荀彧達の口ぶりは今までと同じ扱い。

 結城は稀代きだいの名軍師、司馬懿仲達しばいちゅうたつの優れた一面を垣間見かいまみた気がした。

 全てが仕組まれた演技だったのだとさとったとたんに、体から力が抜けて倒れこむ。


「仲達殿・・・いささかやり過ぎではござらんか?」

張文遠ちょうぶんえん将軍、如何に清らかな心と言えど、腐敗した者と居ればいつしかその輝きは失せるもの・・・・。」

「しかし、懸命けんめいに隠しとおそうとなさっているユウ殿には酷というものでは・・・。」

「いや、夏候将軍・・・軍師殿の言われるのも最もなことよ。」

文若ぶんじゃく殿・・・・」

「なれば、こう言えば皆々様には御納得か?」

「軍師殿?」

だますは罪なれど黙認した私も罰則に値する。この件は私の面目を立てると思って黙認下され。」


 要は、共に罪を被ろう・・・・共犯者になってくれと頭を下げたのだ。

 何時に無く物腰の低い仲達の物言いに一同驚いたが、結城の屈託の無い素直さに惹かれたのは言うまでも無く・・・。

 一同はこのまま結城を男子として・・・同僚として扱う事を決めたのだった。


「起きたか・・・?」

「・・・・仲・・・達・・・さま?」


 結城が目を開けると、その傍で仲達が書簡に目を通している。

 夕暮れの明かりが辺りを茜色に染め上げていた。結城はぼくに座したまま仲達を見た。


「貴殿の所在は私の部下・・・ということになろう。」

「仲達殿の部下・・・。」

「でなければ、今日の目論見もくろみが泡となりかねん。」


 仲達は孫子の書を卓の上に置き、『読んでおけ』と手短に区切る。


「この部屋は私の部屋に隣接した客間だ。何かあれば男子として来るが良い。」


 振り向かず背にしたままで告げられた言葉。男子として来い、それは紛れも無く結城を気づかった言葉で・・・・。

 この時代の女性が、夜に男性の部屋を訪れるなどもってのほか。まして、結婚前の男女が朝まで部屋を共にするなど貞淑ていしゅくに関わる大事だった。

 しかし、仲達と居れば軍議にも参加せざるを得ない。話が判らないのでは、仲達の側近も勤まるわけにゆかず・・・兵法を即日そくじつの元に習得する必要があった。

 見習、その形式を取ったとしてもある程度の知識が欲しい。それを考慮しての、声かけなのだろう。


 書を与え判らぬ処は、夜に聞きに来い・・・。遠まわしの言い方。

 結城は早速目を通したが その出鼻でばなからくじかれた。

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