琥珀物語

如月姫蝶

琥珀物語

 神聖なる森に、火の手が上がった。

「姫様、お逃げください! どうぞこちらへ!」

 謀反人に奇襲された離宮から逃げ出した姫君は、自分の足で森の中を駆け抜けねばならなかった。

 背後で、侍女の呻き声がした。続いて、ばあやまでも……

 供の者たちは、次々と敵の矢に倒れたのだ。

 やがて、泉のほとりに出た時、姫君は、武官と二人きりとなっていた。

「ここまで来れば、もう大丈夫」

 武官は、口の端を吊り上げた。

「あなた様を弑したのもまた謀反人の手の者だと、私が証言したなら、皆信じることでしょう」

 姫君は、武官の真意を悟って、琥珀色の双眸を極限まで見開いた。


「おめえ、こったら幼気いたいけでめんこい娘っ子に、何する気だべえーっ!」

 まさか、木陰から、斧を振りかぶった青年が飛び出すだなんて、つゆほども思っていなかったから、姫君は、見開いた眼をしぱしぱと瞬いたのだった。




「春というのは、素敵な季節ね。けれど、逃げるように過ぎ去ってしまう。溜息を二つ三つ零しているうちに終わってしまうんだもの」

 白いドレスの姫君は言った。


 そこは、澄み渡った泉のほとり。森の中でも開けた場所で、明るい陽光が差し込み、草花が生い茂っているのだった。


「あのう……季節というものを、そこまであっけなくお感じになるのですか?」

 俺は、おずおずと質問した。

 姫様の散歩に付き従っているのは、俺一人。だから、今の言葉も、俺に向けられたものに違いない。


 姫様は、くるりと俺へと向き直った。

「わたくし、いつだったか、四つ葉のクローバーを探すように頼んだはずよ。供の少年に、まさにこの場所でね。けれど、少年が一つも見つけられないうちに、その年の春は過ぎ去ってしまった。少年がのろまだったのでなければ、春の逃げ足が早かったということでしょう?」

 姫様は、両手を腰に当てて、俺を見上げた。

 俺は、苦笑するしかなかった。




 もう、十年以上前のことになる。

 幼い男児が、ただ一人、この森へと逃げ込んだ。

 彼は、森の民に身柄を拘束されて、その女王の前に引き据えられたのだ。


「じょおうさま……むらがやかれました……」

 男児は、茫然と証言した。


「治療法のない疫病が流行り、村人の多くが死したため、領主の命令で焼き討ちされた模様です」

 側近が、女王に耳打ちした。

「酷いことを……」

 女王は、眉を顰めた。

「じょおうさま……」

 男児は、腰に提げた袋から、何かを取り出し捧げ持った。

 それは、大人の握り拳ほどもある、大きく艶やかな琥珀だった。

「そなた、いつぞやの!」

 かつて琥珀を下賜した張本人たる女王は、目を見張った。

 その傍らで、琥珀と同じ色の瞳をした姫もまた、目を見張ったのである。


 森の民は、人間を嫌う。

 しかし、節度を弁えた木こりが森に立ち入ることは、黙認していた。

 おかげで、謀反により落命しようとした姫が、あわやの刹那に、勇敢かつ誠実な木こりに救われるという奇跡が起こったのだ。

 木こりの青年は、森の女王が褒美として与えた琥珀を押し戴き、妻の待つ家へと帰ったのである。


「そなたは、あの木こりの息子か?」

「……まごです」


 いずれにせよ、天涯孤独となった男児は、女王のめいにより、森の民の手で養育されることとなった。




 泉のほとりで、草花の絨毯に腰を下ろして、姫様は俺を見つめた。

 かつて命の恩人となった木こりの面影でも探しているのだろうか?

「あの琥珀……売るなりなんなりしてしまっても良かったのよ? そうすれば、あなたのおじい様はたいそう裕福になって、将来焼かれるような村に住み続けなくてもすんだろうに……」

 

「焼かれてもいい村だったなどとは思っていません」

 俺は、考えるよりも先に言い返していた。


「ええ、ええ、それはそうでしょうよ。わたくしの離宮も、あなたの村も、断じて焼かれるべきではなかったわ!」

 姫様は、考えを巡らせるように、額に手を当てた。

「ただ、例えば……然るべき折に、領主にあの琥珀を献上していれば、焼き討ちを免れたとは考えられない?」

 今さらどうしようもないことなのに。

 姫様は、普段はそんな繰り言を口にしないのに……


「無理だったでしょうね。商人に売るにせよ、領主に献上するにせよ、貧乏な木こりが、あのような宝物を差し出した途端、あらぬ盗みの疑いをかけられ、処刑されるのがオチだったでしょう。あの琥珀は、神聖なる森への通行証としてのみ持ち歩き、なんなら森の女王へとお返しせよというのが、祖父の教えでした。実際お返しした今でも、それこそが最善だったと信じています」


「ままならぬものね、人の世も……」

 姫様は、唇を噛んだ。

 そして、俺に背を向けて立ち上がると、泉の水面みなもに視線を落とした。


「……あなたが七歳だった頃にも、この泉のほとりで、二人で遊んだことがあった。あの時にも思ったのよ。いったいどうすれば、あなたはこのわたくしと出会わずにすんだのだろうって……」

 姫様の言葉は、俺の心の水面みなもに石を投げ込むようなものだった。

 俺は、慌てて、思い出を手繰り寄せた。


 そうだ。あの時は、野盗の一味が、領主の追手を躱すために、この神聖なる森に侵入したのだった。

 彼らと出会でくわした俺は、迷わず、姫様を背後に庇って立ちはだかったのだ。


「邪魔です。どきなさい」

 しかし、頭上から降ってきた姫の声は、そんな非情なものだった。

 そして、姫自らが構えた弓の弦が唸ったかと思うと、野盗の一人が射倒されたのだ。

 護衛の武官たちも次々と矢を射掛けて、野盗どもを撃退したのである。


「まったく、見ていられなかったわ! わたくしの胸までしか背丈のない子供が、わたくしを庇ったつもりになって……わたくしは、子供の非力が大嫌い。だからこそ、離宮を焼かれて以来、懸命に弓術をおさめたのだから」

 姫様の双眸の琥珀が燃え上がった。


「……それで、姫様おん自ら、俺に弓を教えてくださったのですか?」

「そうよ」

「背丈については、既に姫様を超えましたが」

「それはそうね」

 姫様は、初対面の当時と見目は変わっていない。一方で、俺は青年へと成長して、一見したところ、未だ少女らしさの残る姫様よりも幾分年上らしくさえなった。

「弓術についても、たった一人で姫様の護衛を任されるくらいには上達したはずですが……」

 すると、姫様は、体を二つ折りにするほど大きな溜息を吐いたのである。


「四つ葉のクローバーを探してちょうだいな!」

「あ、はい」

 どうあれ、姫様に頼み事をされて、悪い気などしないのだった。


「まったく、未だに見ていられない! あなたは、森の民と比べて、何かと鈍感で、身のこなしも優雅とは言い難く、詩作も上達しないんだから!」

 屈んで四つ葉を探す俺の頭上から、結構な非難が降り注いだ。


「……なんだか不思議ね。顔を合わせている限り、見ていられないと思うのに、散歩を終えて公務に戻れば、また明日も会えるのかと楽しみになるのだから……」

「あ! 見つかりましたよ、四つ葉です!」

 姫様が何かごにょごにょと言い募っているところへ、発見の報告をしたところ、えらく微妙な表情を返されてしまったのだった。


「わたくしは、人間の言い伝えを知っています。四つ葉のクローバーを手にしていれば、妖精の姿を見ることができるというのでしょう? さあ、あなたにはこのわたくしがどのように見えるか、言ってごらんなさい!」

 姫様は、そんな要求を、俺に突きつけたのである。

 

 確かに、村にも言い伝えがあった。人間に悪戯したり、時には仕事を手伝ってくれる妖精たちは、通常は目に見えない。けれど、四つ葉のクローバーを手にしていれば、彼らが姿を隠す魔法のヴェールを無効化して、その姿を見ることができるのだと……


 しかし、俺の眼前におわすのは、妖精の王者にして神にも近しいエルフの姫君なのだ。

 そもそも、姿を隠してなどおられないわけで……

 それでも、こんな形で質されるということは……


「俺の目の前には、緩やかに波打つ長い髪と、零れ落ちそうに大きな瞳が、どちらも綺麗な琥珀色をしたお姫様がいらっしゃいます。白く質素なドレスも、活発な気質によくお似合いです。お姫様は、お母上の金髪と緑の瞳をうらやましがっておられるそうですが、俺は、琥珀のほうが美しいと思います!」

 俺は、さっき姫様に非難されたことは重々承知していたが、決して詩的なヴェールで覆ったりせず、正直に心の内を述べた。

「初めてお目もじした瞬間から、あの琥珀に閉じ込められた昆虫のように、俺も、あなたの瞳の中で永遠になりたいと思いました! その思いは、今でも変わっていません!」


「愚か者! 不敬! 不孝! 無礼! 無神経!」

 姫様は、なぜか顔を真っ赤にして駆け寄ってくると、俺の肩を掴んで、ガクガクと揺さぶった。

「いきなり死後の例え話なぞするんじゃありません! ただでさえ、人間の寿命は短いというのに……短命種であるのに解放してあげられなくなりそうだと、わたくしも、あなたと共に過ごすうちに、あなたが大人びてゆくのを見るうちに、恐れるようになったのです! どうして、わたくしなどと出会ったのですか!」


「ならば……生きている今のうちに、ほんの少しだけ、あなた様を閉じ込める側に回ってもよろしいですか?」

「良くてよ!」

 俺は、姫様と向かい合い、その体をそっと抱きしめた。

 すると、姫様は、大地を蹴って、両手両足で、俺に抱きついたのだ。


 口笛が聞こえた。それも複数。

 さっき姫様は、「何かと鈍感」だと俺を評したが、どうやらそれを認めざるを得ないようだった。

 周囲の、あちこちの木陰から、口笛の主であるエルフの武官たちが姿を現した。

 姫様の護衛をたった一人で任されているというのは、俺の大いなる勘違いだったのだ。


 そして、にわかに強風が吹き荒れた。

 ただならぬ威圧感に、エルフたちも俺も跪いたところへ、上空から女王様が舞い降りたのである。

 女王様の手にした杖こそが強風の発生源だったが、彼女が着地すると同時に、風は凪いだのだった。


 さながら、五色絢爛の翼を持つという霊鳥——オオトリの降臨のごとき光景だった。


「待たぬか、二人とも」

 女王は、重々しく口を開いた。

「そこな姫は、いずれ、兄や姉たちを飛び越えて、わらわより王位を受け継ぐ身ぞ。エルフの女王が、人間と結婚するなぞ、罷りならぬ! これは、神代以来の掟じゃ」

 愛し合う二人は、女王の言葉に、むしろ固く身を寄せ合った。

 エルフの武官たちは、固唾を飲んだ。


「……なれど、王位の継承は、まだまだ百年以上は先のこととなろう。わらわは、たった今より百年の間、二人の仲には関知せぬことを誓おう。姫には心の支えが必要であろうしな」


 恋人たちは、顔を見合わせた。

 周囲のエルフたちはざわめいた。


 人間の青年は、一歩進み出た。

「女王様、感謝致します! 頂戴した年月のうちに、世界一幸福なエルフの姫君と、その恋人の物語を献上することをお約束致しましょう!」

「わたくしも誓いますわ、お母様!」


 女王は、手にしていた魔法の杖を、娘へと手渡した。その杖には、かの琥珀が嵌め込まれていたのである。

「我が魔力を注ぎ込んでおいた。そなたらに、百年分の加護と祝福を。二人して励むがよい……詩作にな」


 こうして、神聖なる森の奥で、百年の恋物語が幕を開けたのである。


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