真夜中の太陽

ピエレ

 1、娘に笑顔を見せて生きた母は、幸せになったの?

「辛い時ほど、笑って過ごすんだよ。環境が人の幸せを決めるんじゃない。うまく言えんけど、お日様みたいに笑っていれば、幸せは向こうからやってくる。ひえみの【陽笑】という字はね、そういう意味でつけられたんだよ」

 父の声が、今も耳奥に残っている。

 父は陽笑が幼い頃、突然いなくなった・・深い暗黒に吸い込まれたように。

「事故で死なしゃった」

 と聞かされているが、葬儀の記憶などない。

 陽笑が覚えているのは、その言葉と、父が母にも陽笑にも、とてもとてもやさしかったこと、そして、彼女の丸い頬に狂おしく擦り付けられた父の髭の感触に、心がジャリジャリ騒いだことくらいだ。

 否、もう一つだけ、心にこびりついた記憶があるとしたら、正月か何かの御馳走の席で、

「我が家は、虎が三匹ね・・」

 と言った母の声に、なぜだか父も陽笑も、幸せな笑い声を響かせ合ったことだ。

 おそらく親子三人とも寅年生まれという意味だったのだろう。

 父が母の十二歳上で、陽笑は母の二十四年下だから。



 いびつな半円の二十日月が山から顔を出す夜の底を、彼は急ぎ足で歩いていた。青木真吾、就職した会社の営業がうまくこなせず、一年で退社して、今は無職で金に困っていた。集合場所は田舎のバス停、実行員は四人と、指示役から渡された携帯のメールに記されている。誰もが初対面とのことだ。

 バイトの内容が強盗だと知った時には、すでに個人情報を指示役に握られていた。断ったが、裏に強力な闇組織があって、彼だけではなく、彼の実家の家族にも命の危険が及ぶと脅された。

 最終の時刻はとうに過ぎてるバス停に、すでに二人の男が待っていた。真吾より屈強そうな、大きな身体の二人だが、闇に紛れて顔も年齢も不明だ。

 何て声をかけてよいか分からず、黙って二人の前で固まった。

「あんちゃん、いくつ?」

 と、レスラーのようないかつい体格の男が問いかけてきた。

 中年の声のようだ。

「二十三」

 と真吾は答えた。

 その男は、ヒューと口を鳴らし、

「怖いもの知らずだな」

 とつぶやいた。

 もう一人の細身の長身男は死神のように何も語らず、会話はそれで途切れた。

 真吾は、強盗の経験者がいるか知りたかったが、問えなかった。

 山から吹き下ろす生ぬるい夜風の中、妖怪たちが覗き見しているような黒い時間が流れ、町の方角から車のライトが見え、近づいてきた。それは、救いの灯ではなく、悪魔の眼光に見えた。

 停まったのは、黒っぽいミニバン・・メールの指示通り、すぐに乗り込んだ。

 渡されたのは、黒の覆面と、攻撃用の鉄の棒と、指紋を残さぬためのビニール手袋、そしてターゲットの手足を縛ったり口を塞いだりするためのビニールテープだ。



「わたしも娘も、幸せにするって、言ったじゃない」

 と渡会優美は涙目を抉じ開けるように夫にぶつけ、言う。

「はあ? 文句あるんかあ?」

 と薄い唇をぷるぷる震わせ、由紀夫は返す。

「あんた、毎晩酒飲んで、すぐに暴力振るう。わたしだけでも我慢できんのに、何で陽笑にも手を出すの? もう、離婚して」

「何だとお? 結婚してまだ一年なのに、何言いやがる?」

 由紀夫の怒りの右拳が妻の顔面に襲いかかる。

「ひゃっ」

 と漏らして優美はぎりぎり避けたが、続けざま、左拳の連打がガキッ、ガキッ、ガキッ、と三連発で唇を直撃した、呪われた悪夢のように。唇と歯茎が裂け、血の鉄の味が口を痺れさせた。

 ここは山麓の古びた一軒家、母娘の悲鳴は他の家には届かない。

 右拳で追撃しようとする義父へ、まだ十一歳の娘が体当たりして組み付いた。

「このやろう、お母ちゃんを傷つけるやつは、あたしが許さんから」

「くそがあ」

 由紀夫は義娘の陽笑の首を両手でつかみ上げた。

 空中の足をバタバタさせ、両手で義父の手をつかんで陽笑はもがくが、頸動脈が絞められ、声も出せず、しだいに意識が痺れていく。引き攣る少女の手にも足にも、暴行を受けたアザがいくつも見られた。

 流しにあった出刃包丁を手にした母が、口から血を吐きながら怒鳴った。

「あんたあ、今すぐその手を離さんなら、殺すからね」

 狂った目で睨む妻に、

「何かあ」

 と怒りながら、由紀夫は義娘を放りつけた。

 優美はとっさに包丁を畳に落とし、意識朦朧の娘を抱きしめた。が、由紀夫が陽笑の背に前蹴りを撃ち込んだので、優美もろとも蹴り飛ばされ、壁に背も後頭部も打ち付けられた。倒れた優美に馬乗りになり、由紀夫はパンパン平手打ちをかました。優美の脳内がグワングワンゆがんだ。それでも口内にたまっていく血をブーッと夫に吹きかけた。

「このアマあ、殺すだと? 殺されるのは、どっちか、思い知れ」

 さらに由紀夫はパンパン往復ビンタを食らわせた。

 睨み合う鬼たちのすぐ後ろで、もう一匹の鬼が覚醒した。日頃の恨みを晴らすため、そして何より愛する母を救うため、無我夢中で目の前にある包丁を手に取り、義父にぶつかっていった。

「いてえええ」

 と由紀夫が反射的に叫んで振り向いた。

 陽笑が両手で持っている包丁の刃先がぷるぷる震え、生血が滴り落ちた。大きく見開いた目から、ポロポロ涙が溢れだした。

 由紀夫は戦慄の痛みに燃える首の右後ろを手で押さえ、血を止めようとした。そして凝り固まった義娘を左拳で殴りつけようとした。が、突如眼前に出現した怪物たちを見て、愕然となったのだ。

 彼らはみな、黒の覆面で顔を隠していた。

 彼らもまた、鮮血の着いた出刃包丁を手にした少女を見て、驚愕していた。

「おい、おまえ、その包丁を捨てろ」

 と覆面の一人が命令した。

「え?」

 と漏らしながら、陽笑は振り向いた。

 だが、茫然自失で、包丁は固まった指に絡みついて離れない。その上、生血滴る刃先を、黒覆面たちに向けてしまった。

「このガキゃあ、早くそれを捨てねえと、ぶっ殺すぞ」

 とレスラーなみの大男が怒鳴って、手に持った金属棒を振り上げ、迫った。

 陽笑は恐怖のあまり、

「ひいいいい」

 と声を裏返しながら、両手の出刃包丁を大男へ突き出していた。

 義娘の危機に、由紀夫は首を刺されて気絶したフリをした。

 振り下ろされた鉄棒から娘を守ったのは、母の優美だ。とっさに娘を抱きしめ、盾となったのだ。その後頭部を、ゴンッ、と硬すぎる鉄が割った。

「ウグッ」

 と声を漏らしたが、優美は頭蓋が砕けたような恐怖の痛みを隠し、陽笑に必死に笑ってみせた。その笑顔から大粒の涙が溢れ出た。

 が、すぐに袖でぬぐい、

「大丈夫、大丈夫だから・・ね・・」

 と震え声で言い、娘の指をやさしくほどき、包丁を奪い取った。

 そしてさらに笑顔を娘にぶつけた時には、頭部から流れる夥しい血の赤が、目に入り、唇も狂気に染めた。

 優美は手負いの妖怪のように振り返り、右手の凶器を振り回して、覆面たちに迫った。

「あんたら、娘に手を出したら、殺すよ」

 この家族、狂ってやがる・・・ 

 と大男の後ろで見ていた真吾は思い、思わず後ずさりしていた。

 しかし、大男は下がるどころか前へ踏み出していた。こんな細い女に負けるはずないと思い込んでいたのだろうか。されど娘を守る母は狂暴だった。振り回す出刃が覆面を裂いた。驚いた大男は鉄棒で女の割れた脳天を今一度叩いた。すると女も動転し、「ぎゃあああ」と叫びながら体当たりした。信じがたい痛みが腹に食い込み、「うがっ」と男の喉の奥が鳴った。女の両手に握られた出刃が、腹に刺さっている。大男は逆上した。

「うおおおおお」

 と狂乱しながら、鉄棒で眼前の血が噴き出す脳天を叩いた。物凄い力で、叩いて、叩いて、叩いて、叩きまくった。硬直した女の身体が叩き続ける男の方へ傾いた。半分白目を剥いた黒目が、それでも彼を睨みつけている。恐ろしいほどの流血がその目を侵していく。ゆっくりと、それでも加速をつけながら倒れていく女を、大男は「ひっ」と漏らしながら避けた。彼の横に、女は悲しいほどあっけない音を立て、古畳にバウンドしながらうつ伏せに倒れた。

「ぎゃああああ・・」

 と死ぬ寸前の獣のような泣声とともに、陽笑は母に飛びついていた。バケツ一杯赤ペンキをひっくり返したように、母の頭は血にまみれている。そしてなおも血が真っ赤に噴き出している、絶望的に。

「あああ、お母さーん、あたしを置いて死なんでえ。笑っていれば、いつか幸せになれるって、言ったじゃない・・あれは、嘘だったの? ねえ、お母さん、いつも、笑顔だったけど、いつも辛い生活だったやん・・あたしのために、再婚もしてくれたけど、もっと不幸になったじゃん・・そして、これは、何? こんな人生、何なの? 何なのよお?」

 泣き崩れる娘を、長身の覆面男が母親から引き離した。腹を刺されたレスラーなみの男より、細身の男だ。

「おい、おまえ、金庫はどこだ?」

 と、狼のような眼で睨み、怖い声で問う。

「金庫?」

「調べはついてるんだ。金庫があるはず。教えねえと、おまえも殺すぞ」

 その最後の言葉に、少女がビクンと反応した。

 覆面の奥の瞳を涙目で見つめ、嗚咽しながら聞く。

「殺す? あたしを、殺してくれるの?」

「何だってえ?」

「あたし、何度も死のうとした・・そのたびに、お母さんに言われたの・・自殺した者は地獄に行くって・・だから、どんなに生きることが苦しくても、笑っていなさいって・・そしたらきっといつか、幸せになるって・・でも、お母さん、幸せなんか来ずに死んだ・・あたしも、お母さんと一緒に逝きたい・・あんたが殺してくれるなら、地獄に行かなくてすむよね? だから、お願い、殺してえ」

 哀願する娘の頬にも、母親の鮮血がべっとりついている。

「ちくしょうめ」

 男は少女を突き飛ばし、義父の元へ行って頬を叩き、金庫の場所を聞き出そうとした。しかし、由紀夫はひたすら気を失っているフリを続けた。

「おい、手分けして金庫を捜そうぜ」

 と長身の男は真吾と車を運転してきた男に言い、押し入れや箪笥を開け、いろんな物を引っ張り出した。

 真吾は二階に昇り、手当たり次第に物色した。

 腹を刺された大男は、壁にもたれて座り、携帯電話で119を押した。そして救急車を求めた。

「おい、ここの住所は、どこだ?」

 と陽笑に聞く。

 陽笑は心肺停止で血も止まった母に、再び抱き着いていた。

「住所を教えろって言ってんだ」

 と大男は重ねて問う。

 陽笑は振り向かず、凍りついた声で言う。

「教えない」

「ばかやろう、刺されたのは、おれだけじゃねえんだぞ。お父さんが死んでもいいのか?」

 そいつが生きてちゃ、この世は地獄だから、教えないんだ・・

 と陽笑は心で叫ぶ。

 義父の声がその心を壊すように響いた。

「山野町1125の5」

 大男は倒れたままの由紀夫を目を剥いて睨んだが、すぐにその番地を電話の相手に伝えた。

 細身の長身男がそれに気づいた。どすどす部屋に入って、大男から携帯を奪って電源を切った。

「おい、あんた、どこに電話してた?」

「救急車を呼んだんだ。おれは、こんなバイトなんかで、死にたくないんでね」

「はあ? みんな、捕まっちまうじゃねえか」

「死ぬよりましだろ」

「強盗で人を殺したんだから、死刑になるんだぞ」

「ちぇっ、おれが殺したって証拠はねえし、あったとしても、先に刺されたんだ。正当防衛だぜ」

「ちくしょうめ」

 長身の覆面男は、気絶したフリを続ける由紀夫のポケットに手を入れ、財布を抜き取ると、ミニバンを運転してきた男に叫んだ。

「おい、ずらかるぞ。ここにいちゃまずい」

 二人で玄関へ行き、階段の上に呼びかけた。

「おい、若造、金庫は見つかったかあ?」

「どこにもないです」

 と真吾は答えた。

「じゃあ、もう、行くぞ。当てが外れたようだ。急がねえと、捕まっちまうぜ」

 階下からの指示に、真吾は物色をあきらめ、部屋を出ようとして、足を止めた。箪笥の上の天井板が、不自然にずれているのが目に入ったのだ。

 何かある・・・

 という直感が彼の運命を変えた。

 



 

 












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