第20話『気持ちの問題』

「母さん、調子はどう?」


 仁が尋ねる。


「まあまあよ。仁、忙しいのにわざわざありがとう」

「いいんだよ」


 仁はいま、母が入院している病室にいる。

 個室でベッドが置いてあり、トイレやシャワーも部屋にある。

 茶色を基調とした作りとなっており、ベッドの横にある台には花が飾ってある。

 豪華な個室だ。

 父がこしらえただけのことだけはある。

 仁の母は慢性的なうつ病で入院していた。


 母もバンカーだった。

 しかも優秀なバンカーだった。


 優秀なバンカー同士、父と母は巡りあったらしい。


 そして仁が生まれた。

 仁が生まれた後もふたりは忙しく、特に母は家事と育児、仕事を両立し毎日疲弊していた。


 そんなある日、母はインサイダー取引を疑われ、職を失った。

 同僚に嵌められたとのことだが、その犯人は未だ誰かはわからない。


 優秀な母に嫉妬をした哀れな人間だということはわかる。


 そこから母の調子が悪くなった。


 専業主婦として仕事を全うしていた。

 しかし、段々と家事ができなくなっていった。

 寝る時間が増え、布団にいる時間が多くなった。

 それだけでなく、仁が何か話しかけてもいつも虚ろ気で次第に返事もしなくなった。

 さすがに異変に気付いた父は母を病院に連れて行った。


 しかし、不調の原因は不明。


 過度な精神的な負担から来るうつ病だと診断された。

 そこから母はずっとこの病院で暮らしている。

 元の家はたまに父が帰るだけのもぬけの殻になっている。


 母がいない寂しさから当時、株取引の収入があった仁は高校生になる頃に自立した。


 そしてたまに仁はこの病院に来て、花の水やりをしている。


 母は仁を信頼しており、仁といるときは普通にやり取りができる。

 しかし、仁以外の人間とはまともに話すことができない。


 同僚から裏切られてから、母は対人恐怖症になってしまった。


 そこで、父は仁に対してこう言った――



『気持ちの問題だ』



 仁はその父の言葉を今でも覚えている。


 気持ちの問題?


 たしかに気持ちの問題だ。

 でも、自分の気持ちをコントロールできる人間なんているのだろうか。


 病気である母に対してそんな風に思う父が許せなかった。

 気持ちの問題だからこそ、誰にも、本人にも誰にも治せない。


 父は何もわかっていない。


 たしかに父が働き始め、働き盛りの時は厳しい時代だった。

 その厳しい時代を乗り越えた人間には、途中でドロップアウトした人間の気持ちがわからないものだと思った。


 それでも、父には母を支えてほしかった。

 今まで母は父を、家族を支えていた。

 それが、一度躓いた母を救えるのは父だけだと思った。


 それでも、父は地位と名誉のために仕事に時間と思いを費やした。

 だから、母はいつまでたってもこの病棟から離れられない。


 仁はいつか、母をこの病棟から出してやりたいと思っている。

 でも、今はできない。


 父に復讐するまで、それをしても意味がないのだ。

 自分がしてきたを後悔させてやらなければ済まない。


 父を越え、母を救う。


 それが、仁の野望だ。


 父よりも大きな地位と名誉、富を築くこと。

 そして母を救い、幸せな家庭を取り戻す。


 それまで母にはゆっくり休んでほしい。


 傷は癒えないだろう。

 心の傷ほど癒えないものはない。

 それは、仁が身近で見て来たからわかる。


 理屈ではないのだ。

 仁はときに自分が何のために頑張っているのかわからなくなるときがある。

 それでも、母を思い出すと、力が湧いてくる。


 沸々と、怒りの炎が湧いてくる。

 仁は、復讐心でここまでやってきた。

 


 母を救うため。



 それは、仁だけではなかった。


 瑠美菜がそうだ。

 病気の母を救うため、アイドルになる。

 父に対する復讐心はないだろうが、仁と重なった。

 だから、仁は共に歩みたかった。

 しかし、瑠美菜はそれを選ばなかった。

 聖城と共に歩むことを決めた。

 それが仁にとって、すごく寂しく、悲しかった。

 できることなら、最後まで見届けたかった。

 でも、それが瑠美菜の本意でないなら仕方がない。

 瑠美菜の夢が叶うなら、それでいい。


 仁はそう割り切るしかなかった。


 自分の仕事は胡桃をアイドルにすることだ。

 それが少しでも、瑠美菜を救うことだと信じて。


「母さん、花、咲いてるよ」


 仁は母に微笑みを見せる。


 今日の仁はいつもと違っていた。


 オールバックの髪形は降ろし、眼鏡を外し、コンタクトにしている。

 少しでも、銀行の雰囲気をなくすための配慮だった。


「そうね」

「綺麗だね」

「ええ、そうね。……不思議だわ」

「なにが?」


 仁は首を傾げる。


「仁と話していると、とても落ち着くわ」

「それはよかった」


 仁は微笑む。


「学校はどう?」

「普通だよ。でも、最近は友だちができたんだ」


 母は仁の言葉を聞き、驚く。


「仁にしては珍しいんじゃない? どんな子なの?」

「アイドルを目指している子だよ」

「あら、それじゃあ可愛いんじゃない? 付き合っちゃいなさいよ」

「ははっ、駄目だよ。彼女はアイドルを目指しているんだ。アイドルに彼氏はご法度だっていう人がいるらしいよ。昔からそうみたい」

「そうね。いつの時代も、人は変わらない。仁、会社はどう?」


 母にしては珍しい問いだった。


 銀行の話はあまりしたがらないはずだが、仁は今のストレスを顔に出てしまっていたのかもしれないと反省する。


 それとも、母だからこそ、そういう機微に気づくのかもしれない。


「難しいことだらけだよ。何が正しくて、何が間違っているのかわからない。自分はなんのためにこの仕事をしているんだろうって毎日考えるよ」


 仁はまだ幼い高校生で、仕事のプレッシャーを抱えているのだ。

 それは普段誰にも見せない。

 唯一心を許せる母にだけ言えることだった。


「何が正しいか、何が間違っているか、ね。お母さんもね、働いているときは毎日それを考えていたわ。つらいわよね。人のために働いているつもりが、本当は会社の利益のために働いている。会社の利益を出すためなら、人を騙すに近いこともしなければならない。それがバンカーだものね」

「うん」


 仁には心当たりがあった。

 今まで利益を上げるため、仁は多くの人を利用した。


 本当は、人のために働く場所、それが会社なのに、本当は会社のために、自分のために働いているのだ。


「だからね、仁にはバンカーになってほしくなかったなぁ」

「…………」


 母は時々、そのように言う。

 バンカーになってほしくなかった。


 それは、母の真意なのだろう。


 自分が苦しめられた環境に自分の息子を置きたくない。

 それは、母として当然の感情だ。

 それでも、仁はバンカーでなければ駄目なのだ。


「ねえ、仁」

「なに?」

「バンカー以外の仕事もあるのよ。それでも、仁はバンカーであり続けるの? 母さんは心配だな」

「……俺は誇りを持ってバンカーをやってるよ」

「仁の誇りって?」

「…………」


 言ってみたものの、自分の誇りは何だろう。


 金を稼ぐこと。

 人を利用すること。

 知識が豊富なこと。


 どれも違う気がする。


「ねえ、仁?」

「なに?」

「仁の名前の由来って知ってる?」

「由来?」


 小学生のときに授業で調べた気がするが覚えていない。


「そう。仁の由来は、他人を慈しむ、親しみを持ち、思いやりを持てる人間になってほしいっていうお母さんとお父さんの願いからきてるのよ」

「親父も?」

「そうよ。私たちはバンカーだった。バンカーはときに、人を思いやれないことをしなければならないときがある。でもね、仁にはそうなってほしくないの。他人を思いやれる人間になってほしい。そう願って、仁、あなたの名前を決めたのよ」

「他人を、思いやる……」


 仁は自分の掌を見つめる。


「仁は優しい人間に育ってくれてよかった」

「……俺は」


 優しい人間じゃない。

 合理的で、非人道的な人間だ。


「俺は、優しい人間じゃないよ……」


 涙があふれそうだった。

 母の願いに応えられない自分が悔しかった。


「仁、おいで」


 仁は母のもとに近づく。

 母は仁の頭を撫でる。


「仁は頑張ってるね。仁がどうして頑張ってるか、お母さんにはわかってるよ。でも、つらいわよね。無理しないで」


「俺は……」


 涙が頬を伝う。


「仁ならきっと、誰かのために頑張れるバンカーになれるわ。お母さんはそう、信じてるから」

「……俺に、できるかな」

「できるよ。お父さんがそうだもの」

「親父が?」


 予想外の返答に仁は顔を上げる。


「そうよ。お父さんはいつも、誰かのために必死に働いていた。困っている人を見過ごせない人なの。そうやって、いろんな人を救って、支えて、そして今、いろんな人に支えてもらっているの」

「……信じられないよ。親父は、母さんを、俺を見捨てた」

「そうよね。仁には、そう見えてしまうわよね」

「事実だ」

「でもね、仁。もし、仁がお父さんを越えるバンカーになりたいと思うなら、人を思いやれるバンカーにならなきゃいけないわよ。そうじゃなきゃ、お父さんは越えられないよ」

「俺が、誰かを思いやる?」

「ええ、仁ならきっとできる。できるわ」


 母はそう信じ、願い、仁に伝える。


「……できる自信がない」

「ふふっ、そうよね。私の息子だもの」

「え?」

「私は、誰かを思いやれるバンカーにはなれなかった」

「母さんが?」


 誰にでも優しい、特に仁には優しい母がそんな風にはまったく思わなかった。


「ええ、お母さんは、誰にも頼らず、誰も信じないで、自分だけで戦ってきた。だから、お母さんの周りにはたくさんの迷惑をかけた。恨まれもした。ねえ、仁。仁にはそうなってほしくないの」

「…………」


 母はゆっくりと仁の手を包み込む。


「もしこれからもバンカーであり続けるなら、お願い、お母さんの分まで誰かを思いやってあげて。あなたならきっとできるわ」


 母は仁に微笑む。


 その微笑みはどこか悲しげだった。過去を憂い、後悔の入り混じった微笑みだった。

「……うん」


 仁は複雑な感情を抱えたまま病院を後にした。

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