ぼくのピクシーガール

宮塚恵一

第1話 天使の笑顔

「今日もありがと、伊吹いぶきくん」

「ううん、こちらこそ」


 天真爛漫な笑顔を見せてくれるかえでさんに、僕は上擦った声で返す。楓さんが、本棚に囲まれた僕の部屋の端にあるベッドの上に寝転がる。僕はそんな楓さんに対してドギマギしながら、彼女の横で同じように仰向けになった。


「今日も腕枕いい?」

「も、もちろん」


 堂々とした返事を心がけていても、やはり声が震えて裏返ってしまう。その恥ずかしさのあまり、顔が熱くなるのを感じながらも、僕はおそるおそる自分の右腕を横に伸ばした。


「ありがと」


 楓さんは天使のような笑みを僕に向けると、小さな吐息を吐いて、その軽い頭を僕の腕の上に置いた。それからまたニコリと笑う楓さんに、僕も笑い返す。気持ちの悪い顔だと思われなきゃ良いけど、なんて思う間に楓さんは目を瞑り、僕のおへそと背中の辺りを両脚で挟んだ。

 楓さんは、学部内でも屈指の可愛さを誇ると思う。そんな彼女が僕なんかに脚を絡ませて、僕の横で寝ている。

 その事実に、バクバクと心臓が高鳴る。顔だけじゃなく、体中に血が巡る。それは当然、股間の辺りも例外ではなくて、下着の中がじんわりと湿っていくのを感じるが、楓さんの横で僕もぎゅっと目を瞑り、今すぐにでも飛び出てきそうな自分の男性器を自分の太ももで挟んで、欲情を抑えつけようとした。

 楓さんと僕は恋人でも何でもない。ただ、こうして一緒の布団で横になって、一緒に眠るだけの関係。

 気付けば僕の耳元には、くぅくぅと規則正しく繰り返される呼吸の音が響く。その吐息が頬と耳に吹きかけられて、僕は体を震わせた。こうした夜はもう何度目だろう。楓さんが僕に体を預けて安心した様子で夢の世界に旅立ってくれるのは嬉しい。だけど当然、僕の方は楓さんとこうして同じ布団に入って、ぐっすり眠れたことなんてない。



📕


「それ、はやみねかおる?」


 九月までの長い夏休みが終わり、大学一年生の後期が始まった最初の通学日。授業計画シラバスの説明会で同じ学年の学部生が集められた狭い教室の中、指導員が教室に来るのを待っている間、読書をしていた僕の横に、たまたま座っていた山崎楓やまざきかえでが話しかけてきた時、僕は彼女のことを顔さえ知らなかった。後から知ったことには、彼女は一年生組の中でもそれなりの有名人で、それは春の学祭でミスコンが開かれた際、楓さんが学部代表として出場した、からだということだった。上位十名までに選出されたというその可愛らしさに虜になった男子は少なくなかったらしいが、僕はそもそも学祭なんて行事には参加していないし、そんなことを話す友達もいないから、そのことを楓さん本人の口から聞くまで、噂に聞いてすらいなかった。


「伊吹くんは孤高の狼なんだね」


 大学内の人間関係事情を知らない僕のことを、楓さんは満面の笑みでそう言ったことがあるが、正直その一言はこたえた。当たり前だが、そんな格好良いものじゃない。ただ、大学生になってすら友達の作り方もわからない。だから一人でいるしかない陰キャ、それが僕というだけの話だ。


「それでも講義についていけてるんだからすごいよー」

「でもそれは、まだ一年生だし……」


 ウチの大学の一年生の前期の講義なんて、教養科目と高校生レベルの簡単な復習くらいで、人に教わらなきゃいけないことなんてない。けれど、果たしてこのまま僕は一人で大学を生き抜いていけるのか、その心配は夏休みの間、既に考えていた。初めての大学生の長期休みバケーションは遠出することもなく、毎日ゲームと映画、読書三昧の完全インドア。それでも、大変だった受験期を超えて、久々に味わう自分の好きなことに没頭できる二ヶ月間はあっという間に過ぎた。

 人と話すようなこともほとんどなく、夏休み終わりに大学に向かった最初の日に、めちゃくちゃ可愛い女の子に話しかけられた僕はどうしたか?

 答えは沈黙。彼女の問いに、僕は何も返すことができなかった。山崎楓は固まった僕をよそに、僕の読んでいる本の端を掴み、裏表紙を見た。その拍子で彼女の冷んやりとした手が僕の手にチョンと触れ、思わず叫びそうになったのをグッと抑えたことは誰か褒めてほしい。


「やっぱりそうだ!」


 彼女は嬉しそうにパァと顔を輝かせた。眩しい。この笑顔は、僕には手に負えない。そんなことを思う。


「好きなの?」

「へあ?」


 そこで僕は初めて、彼女の前で声をあげた。言葉でもなんでもない素っ頓狂な高い声。僕は自分の口を手で抑えつけた。いくら可愛い女の子に緊張してるからといって、へあってなんだよ、へあって。


「うん、ずっと読んでるから」


 僕は手を口に当てたまま、何とか会話らしい言葉を紡ぎ出した。小さい頃から本を読むことはずっと好きだ。昔から読んでいる作家さんの新刊を本屋で見つけたら、必ず買ってしまうくらいには。だから、児童文学であろうとファンタジーであろうと、気に入ったシリーズや作者の本はずっと読み続けている。その日読んでいたのも、教室に向かう前に駅前の本屋に置いてあったものを買ったものだった。


「あたしも好きー。他に何読んでる?」

「大体、全部……」

「ほんと!? へー、嬉しい。本好きって人は同級生にもいっぱいいるけど、同じの読んでるって人はあんまいなかったからさー」


 呆然とする僕をよそに、山崎楓は捲し立てるように言葉を続けた。そうこうしているうちに、指導員が教室の中に入ってきて、僕も彼女も静かにそちらの方を向いた。授業計画の話を聞いていり間、僕は彼女の方がずっと気になってしょうがなかった。さっきまでは緊張で気づかなかったけれど、彼女が髪をかきあげたりすると、その度にふわりと良い匂いがする。それが何の匂いなのか、お洒落に疎い僕には見当もつかなかったが、きっと華の香りだ。シャンプーなのか香水なのか、それとも別の何かが香っているのか。僕よりも頭一つ分以上には小さい彼女は、たまに椅子からお尻を浮き上げるようにしながら、指導員の話を聞いていて、その様子も可愛い。


「ねえ、この後どうする?」


 指導員が授業計画の話を終わらせて、教室から出て行った後、山崎楓はこの時を待っていたかのように素早く僕の方を向いた。


「とりあえず講義聞きに行くけど」

「せっかくだし、一緒いこ! はやみねかおるの話、もうちょっとしたいし」


 そう言って、彼女は立ち上がる。今、何が起こっているのか、理解する暇もなかった。彼女の誘いを断る理由もない。僕は自分の鞄を胸に抱きながら、彼女の後ろについて回った。

 最初の講義が終わり、次の講義に向かう。その間、ずっと彼女は好きな本の話を続けた。彼女の口から出てくる本の名前は、僕も知っているものばかりで、そのことを伝える度に彼女は僕に向けて嬉しそうな笑顔を向けた。


「ちょっと昔の、知ってる? セカイ系みたいので、忍者の男の子が出てくる。銀のさじでシリーズで読んでたけど、そういえば最後まで読んでないなあ」

「それ、多分ウチに全巻ある」

「ホント?」


 教室から教室に移動する間に話を続けていた彼女に対して、ふと答えた何気ない僕の返答に、山崎楓はピタリと足を止めた。彼女の後ろを恐縮しながら、トボトボと歩いていた僕は歩みを止めることができず、くるりと後ろを向いた彼女と正面からぶつかる。


「うにゅ」

「わっ、ごめん!」


 山崎楓の顔が僕の胸にぶつかり、僕は慌てて後ずさった。


「ううん、大丈夫。こっちこそごめんごめん」


 彼女は僕の胸元をその手でぱっぱっと払う。その仕草に心臓が飛び出るような想いだったけれど、これも何とかぐっと堪えた。


「ねえねえ、じゃあさ? 今日講義終わったら、家行っても良い?」

「へあ!?」


 へあ、再び。僕は芸もなく、また口元に手を当てる。女の子を自分ん家に行きたいなんて言われたこと、人生で一度もない。それに、そういうの、僕らくらいの歳だとちょっと不用心というか、ちゃんと考えて口にした方が良いんじゃないか、とか。そんな考えは当然、言葉にはならない。


「い、良いよ?」


 部屋全然掃除してないよとか、汚いからとかそういう断りの回答をしようとした頭の中とは反対の答えが、僕の口からは出てきていた。

 

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