第2話 添い寝

 大学の後期最初の講義を終えて、僕は山崎楓と一緒に、電車で自分の家に向かっていた。僕の借りているアパートは、大学から一駅先にある。彼女は実家からの通いで、同じ駅で降りて乗り換えてから、もう何十分か電車に揺られた先に、自分の家があると帰り道に聞いた。


「あ、そういや名前聞いてなかった」

「ホントだ……」


 僕も彼女に言われて、初めてそれに気づいた。同時に、名前も知らない男の家に行こうとしていたのかこの子は、と頭を殴られたような混乱がする。


「あたし、山崎楓」

「僕は伊吹颯太いぶきそうた

「そっか、改めてよろしくね伊吹くん!」

「よ、よろしく、や、山崎さん?」

「あ、できたら下の名前が良い。苗字あんまり好きじゃないから」

「え、でも」


 だったら、僕のことも名前で呼んでくれたら良いのに、なんてことは言わなかった。まだ知り合ったばかり、そんなことを思う資格もない。


「おじゃましまーす」

「ただいま」


 山崎楓に続いて、僕は帰りの挨拶を口にする。一人暮らしだから、他に人がいるわけでもないけれど、挨拶の言葉を口にしてしまうのは僕の癖だ。


「おおー、すごいね!」


 山崎楓は、靴を脱いで僕の部屋に入るなり、感嘆の声をあげた。僕の部屋には、実家から持ってきた本がたくさん置いてある。狭い部屋なので、全てを持ってくることは叶わなかったが、それでもベッドを置いてあるところ以外の壁一面には本棚を置いて、そこに抜粋したお気に入りの本を並べていた。最初は床が抜けないか心配だったけれど、安アパートだというのに床は意外と頑丈で、凹むような様子も見られなかったので、大学一年生の前期中、何度か実家と行き来して、せっせと本棚を充実させていったのだった。


「あ、これだこれ!」


 部屋に変な物を置いてなかったか思い出そうとする僕を尻目に、山崎楓は本棚の中からお目当ての本を見つけると、手を伸ばした。彼女の頭より少し上の方に入れているところに、爪先立ちになって本を抜き出そうとしている様子を見て、僕は慌てて彼女の後ろから目当ての本を取り出した。


「こ、これでしょ?」

「うん、そう。ありがとう」


 やはり天使のような笑みを僕に向ける彼女。僕はその顔に思わず目を覆いたくなる気持ちに襲われながらも、適当な本を抜いた。僕が彼女に本を手渡すと、彼女は部屋の周りをぐるりと見回した。


「あたしが読んでないのもいっぱいあるなー」

「よ、良かったら借りてく?」

「良いの?」

「うん」


 僕だって、こうして本の話を誰かとできるのは楽しい。僕の好きな物に、可愛い女の子が興味を持ってくれているその事実だけで、僕は天にも昇る気持ちだった。


「ありがとう。とりあえずこれ読みたい」

「も、もちろん」


 彼女はさっき僕から受け取った本を開く。僕はキョロキョロと部屋の中に何か彼女が座れるようなものがないかを探したが、人が来ることを想定していないので、座布団一枚この部屋にはない。


「座って良い?」


 困る僕に彼女が指差したのは、部屋の端にあるベッドだった。折り畳み式の簡易ベッドだが、畳むのも面倒で出しっぱなしになっている。


「え、あ、うん」

「ありがとー」


 僕の返事とも言えない返事に、山崎楓はまたニコニコと笑顔を浮かべて、僕のベッドに腰を下ろした。その様子にも僕はドギマギとする。さっきまで名前も知らなかった可愛い女の子が、僕の部屋にある布団に腰掛けながら、僕の本を読んでいる。その事実を受け入れられるキャパシティは僕の脳みそにはなく、事実から目を背けるように、僕はさっき適当に手に取った本の中身に目を向けた。本を読んでいる間なら、少しは気持ちを落ち着けられる。たとえ読書に集中して一心不乱に読んでいるせいで少しだけスカートが捲れて、その中が見えそうになっている同級生の女の子が同じ部屋にいるのだとしても。


「面白かったー! やっぱりこれ最後まで読んでないや」


 気付けば、時計は夜九時を過ぎていた。大学から帰ってきたのが午後六時頃だから、僕も彼女も、もう三時間も静かに黙々と本を読んでいたことになる。山崎楓は自分の荷物を手に持つと、玄関に向かった。僕はまた慌てながら彼女の後を追う。


「ねえ、また来ていい?」

「山崎さんさえ良ければ」

「苗字」

「えっと、楓さん」

「よろしい」


 楓さんは今度は胸を張って、ドヤ顔をする。その表情もまた可愛らしい。


「僕は全然」

「ホント? ありがと。じゃあ、また来る。あ、連絡先交換しよ。来る時は連絡するね」


 彼女に促されるまま、僕は家族との連絡用にしか使っていないSNSアプリを開いた。


「ばいばい! じゃあ、また明日ね!」


 連絡先を交換すると、楓さんはすぐにスマホを鞄の中にしまって玄関の外に出て行った。僕は今の出来事が夢か現実か混乱しながらも、なんだか疲れ果てた思いで、彼女がさっきまで腰掛けていたベッドの上に倒れた。ベッドからは、普段この部屋では匂うはずもない華の香りがした。


「ピクシーガール……」


 僕はボソリとひとり、そんなことを口にする。映画やそれに類似する物語に出てくるヒロインの一形態。僕みたいな内気な主人公の前に突如として現れて、趣味や人格を認めてくれるヒロインのことをそういうのだと、モノの本で読んだ。彼女は僕のピクシーガールだ。ふわふわと夢見心地な頭でそんなことを考えていると、ここ数時間の緊張が急に切れたからだろう、僕は気絶するように、その日は意識を失った。



📗


「やっほー、来たよー!」


 次の日も、大学の講義が終わった頃に楓さんから連絡があった。僕はその日、講義中も彼女の姿がないか教室を探したが見当たらなかったが、その日はどれも僕とは別の講義を選んでいたらしい。大学から一直線に帰って、やはり昨日のことは夢だったんだなんて思ったその時、楓さんから電話が来て、慌てたものだから最初は間違って通話を切るボタンを押してしまい、二回目のコールでようやく電話をつなげることができた。

 それからというもの、彼女はことある度に僕に連絡を入れて、僕の部屋にある本を読み、夜遅くなるまでに帰るということを繰り返した。


「ねえ、伊吹くん」


 秋も半ばになった頃、またいつものように楓さんから家に来ると連絡があり、いつものようにただ黙々と本を読んでいると、彼女が僕に話しかけてきた。


「な、何?」


 その頃には彼女が僕の部屋に来た回数は両手の指の数をこえていたし、もう慣れても良さそうなものだけれど、僕が彼女に向ける態度ときたら、初めて話をした時からそう変わらなかった。


「布団借りても良い?」

「へあ!?」


 何でもないように言う楓さんの言葉に、僕は久しぶりに素っ頓狂な「へあ」を返した。楓さんはというと、僕の返事を待つこともなく、僕のベッドの上にごろんと横になっていた。


「昨日、レポート書くのに必死で夜遅くまで起きてたから眠くてさ」

「そ、そうなんだ」

「ちょっと寝たら帰るからさ」

「うん」


 楓さんは、たたんであった毛布を広げると、自分の体にかけて、僕がいつも使っている枕に自分の頭を預けた。


「じゃあ、おやすみ」

「お、おやすみ」


 楓さんは僕にいつものように、天使の笑顔を向けて、そのまま目を瞑った。

 え? ホントに?

 彼女が僕の部屋に来て一番の緊張が自分の体に走る。確かに、もう彼女は何度も僕の部屋に来て、大学でも本の話を何度もした。基本的には彼女が一方的に話して、僕が相槌を打つくらいだけど、やっぱり彼女の読む本と僕の好きな本はかなり似通っていて、お互いに本を勧め合うくらいの仲にはなった。でも、それだけだ。部屋に来てすることと言えば、本を読む、それだけ。静かな部屋の中、本を一冊か二冊読み終わったら部屋では特に会話することもなく、楓さんは帰路に着く。そんな繰り返しだ。

 ──それがこの日、初めて崩れた。


「……伊吹くん、いる?」


 楓さんが僕の布団に入ってから半時間程、楓さんは眠そうに目を開けて、僕に呼びかけた。僕は楓さんの方を向かないようにして、本を読み続けていたから、急な呼びかけにびっくりして、彼女を振り向く。


「い、いるよ」

「良かった。ねえ、帰るって言ったけどこのまま寝てても良い?」

「え、そ」


 それは、僕の部屋に泊まるってこと? それは全然構わない。構うわけがない大歓迎だ。彼女が布団で寝てるから、僕は適当に床で寝るか、ずっと起きてたって良いんだから。そんなことを考えていると、彼女が鼻を啜る音が聞こえた。徹夜と眠気のせいだろうか、彼女の目元が赤くなっているのがわかる。


「ねえ、こっち来てよ」

「へあ!?」


 楓さんがガバッと掛け布団を持ち上げた。それから這うように、ベッドの真ん中から端の方に移動する。僕一人が入るのには充分なスペースが、彼女の横に出現した。


「嫌?」

「嫌って言うか……」


 どういうつもりなのかわからない。だって、僕と彼女とは、本当に何でもないのだ。彼女の好きな本のことはよく知っている。彼女の笑顔の破壊力も、彼女の可愛さも知っている。けれど、それだけだ。それ以外を僕は、何も知らないんだから。


「お願い」


 彼女の表情は、いつものような天使の笑顔ではなく、寂しそうな子犬か怯えた少女のそれだった。


「でも」

「ちょっとで良いから」


 僕は彼女の声に誘われるまま、彼女のいるベッドに近づく。僕はおそるおそる、彼女のいる布団に手をかける。そこでようやく、彼女はいつもの笑顔をニコリと浮かべた。僕はその表情にドキリとする。緊張の最大風速が更新され続ける。彼女の作ってくれたスペースに潜り込む。彼女を正面から見れない僕は、そのスペースに入ってすぐに、彼女に背を向けた。


「ありがと」


 楓さんは僕の後ろから小さな声でそう言って、僕の脇の下からぎゅっと腕を回して、片脚を僕の腰の上に置いた。沈黙が部屋の中を支配する。それはいつもと変わらないはずだけれど、いつもは気にならないようなコンセントから漏れる電子音や、時計の針の音が大きく耳に響く。そうした音に混じって、すぐにくぅくぅという彼女の規則正しい吐息が聞こえてきたが、僕の呼吸は乱れに乱れるばかりだった。

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