第八章 二十三時の真実
麻里子はあれから三日間、高瀬からの連絡を一切無視していた。電話もメールも、全て応答せずに過ごした。彼女には考える時間が必要だった。あまりにも突然の真実の衝撃に、心が追いついていなかった。
出版社では体調不良を理由に休暇を取り、自宅に籠もっていた。しかし、仕事を離れても、心は休まることがなかった。考えれば考えるほど、全ての出来事が複雑に絡み合い、彼女の中で新たな形を作り始めていた。
三日目の夕方、インターホンが鳴った。画面を見ると、そこには編集長の藤原の姿があった。
「藤原さん?」
彼女は驚いて玄関に向かった。上司が部下の自宅を訪ねることはほとんどない。何か重大な問題でもあったのだろうか。
ドアを開けると、藤原は優しく微笑んだ。三十八歳の編集長は、いつもの穏やかな表情で立っていた。
「具合はどうだい?」
「ええ、もう少しで戻れると思います」
麻里子は取り繕いながら答えた。藤原を居間に案内し、お茶を出す。
「実は、君に話しておきたいことがあってね」
藤原の声は静かだったが、意味深な響きがあった。麻里子は緊張を感じながら、向かいに座った。
「高瀬君のことだ」
その名前を聞いた瞬間、麻里子の体が強張った。藤原はそんな彼女の反応を見逃さなかった。
「彼から聞いたよ。全てを話したんだね」
「知っていたんですか……」
麻里子の声には、非難の色が混じっていた。藤原は小さく頷いた。
「最初から……ね」
彼の答えに、麻里子は裏切られた気持ちを再び味わった。藤原は彼女の表情の変化を見て、すぐに続けた。
「九年前、一冊の文芸誌を持った青年が僕のところに来たんだ。『この作者に会いたい』と言ってね」
藤原は窓の外を見つめながら、過去を思い出すように語り始めた。
「彼の目には、本物の情熱があった。しかし、作者の連絡先を教えるわけにはいかない。そこで僕は彼に言ったんだ。『作家になれば、いつか会えるかもしれない』とね」
麻里子は黙って聞いていた。
「それから彼は必死に書いたよ。才能があったから、すぐに認められた。でも、彼の目的はただ一つ——『佐伯M』に会うことだった」
藤原の目は優しかった。
「彼は君の短編に心を奪われたんだ。その言葉の力、感性の繊細さに」
「でも、それは九年前の私。まだ未熟で——」
「いや」
藤原は静かに首を振った。
「あの短編は素晴らしかった。僕も読んだよ。なぜ君が書くのをやめてしまったのか、ずっと不思議だった」
麻里子は目を伏せた。書くことをやめた理由——それは父親の裏切りと深く関わっていた。心を開いて言葉を紡ぐことが、突然怖くなったのだ。
「高瀬君は三年前、ついに君が〇〇出版社の編集者だと突き止めた。そして、彼の担当になるよう、僕に頼んできた」
藤原の告白に、麻里子は息を飲んだ。
「なぜ、協力したんですか」
「彼の情熱と、君の眠っている才能——その二つが出会えば、何か素晴らしいものが生まれると思ったからさ」
編集長としての慧眼と、人間としての優しさが混ざり合った答えだった。
「高瀬君は君に嘘をついていた。それは間違いない。でも、彼の感情は嘘ではなかった」
藤原は立ち上がり、カバンから一冊のファイルを取り出した。
「これは九年前の『文学の森』の投稿原稿だ。編集部に残っていたものさ」
彼はそれを麻里子に手渡した。
「もう一度、自分の言葉と向き合ってみてはどうだろう」
藤原は静かに告げると、帰り支度を始めた。
「答えは自分の中にある。焦らなくていい」
彼はそう言い残して去っていった。
麻里子は震える手で原稿を開いた。九年前、大学四年生だった自分が書いた短編小説。『青い鳥の帰る場所』——幼い頃に読んだ絵本からインスピレーションを得て書いた物語。主人公は過去のトラウマから逃れられず、言葉を失った作家。彼女が青い鳥を追って旅をする中で、本当の自分と再会するという内容だった。
読み進めるうちに、麻里子の目に涙が浮かんだ。稚拙ながらも、そこには彼女の魂が込められていた。言葉への愛、傷ついた心の叫び、そして希望への渇望——。全てが詰まっていた。
「こんな作品に、彼は心を動かされたの?」
麻里子はつぶやいた。九年の歳月。その間ずっと、高瀬は彼女の言葉を追いかけていたのだ。それは狂気じみているようにも思えたが、同時に純粋な情熱でもあった。
彼女は自分のパソコンを開き、ファイルを探し始めた。古いバックアップの中に、大学時代の創作ファイルがあった。開いてみると、そこには書きかけの短編がいくつも保存されていた。全て『青い鳥の帰る場所』を書いた後に始めたもの。しかし、どれも完成していなかった。
「なぜ、書くのをやめてしまったんだろう」
答えは彼女自身の中にあった。父親の裏切り、初めての恋人との別れ——心を開くことへの恐れが、彼女の言葉を凍らせていたのだ。
しかし今、高瀬の情熱を知り、自分の古い作品と再会した彼女の中で、何かが動き始めていた。眠っていた感性が、少しずつ目を覚ましつつあった。
夜の十一時を回った頃、麻里子は決断した。高瀬のアパートへ向かおう。全てを理解し、自分なりの答えを出すために。
タクシーに乗り込んだ彼女の心は、不思議なほど落ち着いていた。混乱と怒りは収まり、代わりに静かな決意が芽生えていた。
高瀬のアパートに着くと、建物の窓には明かりが灯っていた。彼はまだ起きていた。麻里子はインターホンを押さず、直接ドアをノックした。数秒後、ドアが開き、高瀬が驚いた表情で立っていた。
「麻里子……」
彼の声には、疲労と希望が混ざっていた。目の下には疲れの色が濃く、髭も伸びていた。この三日間、彼もまた眠れぬ夜を過ごしたのだろう。
「入ってもいい?」
麻里子の声は落ち着いていた。高瀬は無言で身を引き、彼女を中に招き入れた。
居間に入ると、テーブルの上には原稿用紙が散らばっていた。彼は書いていたのだ。執筆という行為に救いを求めていたのかもしれない。
「藤原さんが来てくれた」
麻里子は静かに言った。
「そして、私は自分の短編を読み返した」
高瀬は緊張した面持ちで彼女を見つめていた。言葉を待ちながらも、何も急かさない。その姿勢に、麻里子は感謝した。
「あなたは九年もの間、私という一人の人間を追いかけてきた。それは狂気じみてるわ」
麻里子の言葉に、高瀬は小さく頷いた。否定せず、逃げず、ただ真実を受け入れる姿勢。
「でも同時に、それは純粋な情熱でもある」
彼女は続けた。
「私はあなたにものすごく怒っていた。嘘をつかれたと思ったから。でも今は分かるわ——あなたは確かに嘘をついた。しかし、それは私に会うための、不器用な方法だったのね」
「ごめん」
高瀬の声は小さかった。
「会いたかった。どうしても。でも、『九年前のあなたの短編に感動して、ずっと探していました』なんて、いきなり言えなかった」
その言葉には真実が宿っていた。確かに、そんな告白をいきなりされれば、麻里子は距離を置いただろう。
「それで、編集者と著者という関係を作り出したのね」
「そう。君の人柄を知り、少しずつ近づきたかった」
彼の告白は、もはや驚きではなかった。麻里子はゆっくりと部屋を見回した。そして、ふと目に入ったものがあった。
「あれは?」
彼女は書斎の方を指さした。高瀬は少し躊躇ったが、彼女を案内した。そこには、壁一面の『青い鳥の帰る場所』のコピーの隣に、新たな原稿が貼られていた。タイトルは『二十三時の真実』。
「これは?」
「僕の新作だ。いや、僕たちの物語かもしれない」
高瀬は静かに答えた。麻里子はその一部を読み始めた。そこには彼らの出会いから別れまでが、繊細な言葉で紡がれていた。しかし、それは単なる実話の記録ではなく、魂の旅路を描いた物語だった。
麻里子は原稿から顔を上げ、高瀬のデスクを見た。そこには、彼女のノートパソコンとよく似たモデルが置かれていた。しかし、彼女の目を引いたのはその横に置かれた古い日記帳だった。
「これは?」
彼女は手に取った。高瀬は何も言わなかったが、彼女が開くのを許した。それは九年前の日記だった。一ページ目には、こう書かれていた。
『今日、人生を変える物語に出会った。『青い鳥の帰る場所』——その言葉に、僕は自分自身を見た気がした。作者の「佐伯M」とは誰なのか。いつか必ず会って伝えたい。この物語が僕に希望をくれたことを』
麻里子は静かに日記を閉じた。彼女の心に深い感動が広がっていくのを感じた。そこには純粋な感情があった。計算ではなく、魂の共鳴。
「あなたの方法は間違っていた」
麻里子は静かに言った。
「でも、その情熱は嘘じゃなかったのね」
高瀬は黙って頷いた。
「私も嘘をついていたわ」
麻里子の告白に、高瀬は驚いて顔を上げた。
「自分自身に。本当は書きたかったのに、恐れから逃げていた。心を開くことが怖くて」
彼女は窓辺に歩み寄った。外は静かな夜だった。時計の針は二十三時を指していた。
「あなたは私の言葉を追いかけてきた。そして私は言葉から逃げてきた」
麻里子は振り返り、高瀬を見つめた。
「皮肉ね」
高瀬は静かに近づき、彼女の前に立った。
「もう逃げなくていいんだよ」
「怖いわ」
麻里子は正直に言った。
「また傷つくのが」
「僕も怖い」
高瀬も同じく正直だった。
「君に拒絶されることが。でも、それでも前に進みたい」
麻里子は深く息を吸った。そして、バッグから一枚の紙を取り出した。それは昨夜、彼女が書き始めた短編小説の冒頭だった。
「私も前に進みたい」
彼女はそれを高瀬に渡した。彼は驚いた表情で受け取り、目を通した。そこには『二十三時の帰り道』というタイトルがつけられていた。
「麻里子……」
高瀬の目に涙が浮かんだ。それは喜びと安堵の涙だった。
「私たちの物語は、まだ終わっていないわ」
麻里子は静かに告げた。
「むしろ、本当の意味で始まったばかりかもしれない」
高瀬のアパートの窓からは、東京の夜景が一望できた。二人は窓辺に立ち、静かに光の海を見下ろしていた。
「あなたが書いた『二十三時の真実』、続きを読ませて」
麻里子の申し出に、高瀬は笑顔で頷いた。
「でも、その前に一つだけ」
彼はポケットから青い鳥のペンダントを取り出した。麻里子が怒りのあまり返してしまったものだ。
「もう一度つけてくれないか」
麻里子は黙って頷き、身を屈めた。高瀬が優しくペンダントを彼女の首元にかける。その感触は、彼女に安心感をもたらした。
「翼を広げる勇気を」
高瀬はつぶやいた。麻里子は微笑み、彼の言葉を受け止めた。
「帰る場所を見つけるために」
二人の視線が交わった瞬間、全てが明らかになった。過去の痛み、現在の葛藤、そして未来への希望——それらが一つに溶け合い、新たな物語を紡ぎ始めていた。
時計の針は、ちょうど二十三時を指していた。真実の時間。二人の新しい物語が始まる瞬間。
麻里子は窓に映る自分たちの姿を見つめた。そこには、もう迷いはなかった。ただ、新たな旅への期待だけがあった。
「私たちの物語、書きましょう」
彼女の言葉に、高瀬は静かに頷いた。それは単なる創作の約束ではなく、人生を共に歩む決意だった。
外では、満月が東京の夜空を明るく照らしていた。青い鳥が帰る場所——それは彼らの中にあったのだ。
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