僕の小説

 僕には誰にも言えない秘密がある。


(由紀Siteに応募しようかな……)


 実は、僕も小説を書いている。長く続いている趣味で、五つの完結済み作品と執筆中の作品が二つある。どれも二十万文字近い長編だ。


 だけど、僕は自分の小説を他人に見せたことが無い。レーベルの公募に出したことも、Web小説サイトに投稿したことすら、無い。小説が趣味であることを誰かに話したこともない。


 今まで何度も誰かに、出来れば由紀に自分の小説を読んでもらいたいと思ってきた。でも、僕はそれができない。由紀Siteの概要欄にあるリンク先の応募フォームを埋めて送信する。ただそれだけのことが五年もできずにいる。


 怖いんだ。自分の作品が酷評されることが怖い。


 僕と同い年でベストセラー経験がある由紀から見れば、僕の小説なんて突っ込みどころの百科事典だろう。鋭い鉞が飛んでくることは必至だ。

 僕は仕事で塩崎さんやハラスメント気質のクライアントと渡り合ってきた。自分が書いた提案書をボロクソにこき下ろされた回数なんて両の手では数えきれないほどある。十八人いた同期の三分の一はメンタル不調で辞めちゃったけど、僕は生き残ってきた。

 それなのに、自分の小説が誰かに評価される恐怖には耐えられない。どう考えても矛盾してる。自覚していても、頭でこの恐怖心は消せないんだ。


 もしかすると僕の作品は面白い––いや、残念だけど多分それは無い。


 僕はヘルマン=ヘッセの『デミアン』で小説にのめり込むことになった。その影響で、僕は小説を書く時はいつも、十代から二十代の若者が、他者との関係や特殊な経験を通じて変わっていく「軌跡アーク」を中心的なテーマにしている。些細な出来事から大きなライフイベントまで、人生が何事にも敏感に反応する年頃だ。


 だけど、僕がどうしても書けないものがある。恋愛だ。僕はどうしても恋愛に当事者意識を持てない。


 僕の周りの人たちはいつだって、誰もが、多かれ少なかれ恋愛というものに関心を持っていた。他の事に熱中して恋愛から離れる時期があっても一時的なもので、いずれまた恋愛をすると信じているように見えた。


 僕にはそういうのが無かった。恋愛はいつも他人事で、誰もが自分を恋愛の潜在的な当事者と考えていることに強い違和感を抱いていた。人生で三度告白されたことがあるけど、違和感を拭えずに全て断ってきた。


 大学一年生の時に履修した心理学の講義で”アロマンティック”という言葉を知った時、僕が常日頃感じていた置いてけぼり感の意味を悟った心地がしたのを、今でも思い出せる。


 周囲の恋愛話についていけないことには慣れっこだ。僕は年齢=彼女いない歴であることを、人間関係を構築する手段として積極的に利用してきた。たまに僕の内面を深堀したがる迷惑な人もいるけど、「巨乳でエロい黒ギャルを彼女にしたいです!」って言っておけば済むことを学んだし、今のご時世そういう人は減ってきている。


 だけど、小説を書いている時に感じる置いてけぼり感は深刻だ。


 恋愛ほど人をわかりやすく大きく変えるものは無い。恋愛を通じて大きく変わった人を何人も見たことがある。だから僕は、恋愛からしか得られない何かがあって、それは小説で表現されるべき価値があると信じている。

 なのに、僕はそれを一生体験することも書くこともできない。僕には恋愛感情が理解できないから。そのことが、たまらなく虚しい。巨乳でエロい黒ギャルもこの虚しさをごまかしてはくれない。そこは僕と作品だけの世界だから。


 何度も小説を書くのを止めようと思ったことがある。止めたって誰も損はしないのに、でも止められない。恋愛描写を避けながら作品が完成に近づくほど自分の孤独を突きつけられるだけなのに、僕は今日もパソコンを開いて文字を打ち込んでいるんだ––

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