身代わりの夢

Kei

身代わりの夢

月明かりのない山道を市兵衛は急いでいた。行商のため江戸に向かっていたのだ。

峠を越えれば今夜の宿場に着くはずだったが、いつの間にか霧が立ち込め、道が見えなくなっていた。


(街道を外れてしまったか……)


どうしたものか、と不安が胸をよぎる。背後で枝葉が擦れる音がして、思わず振り返る。誰もいない。風の仕業か辺りの草むらが ざわり と揺れる。


(—— !)


疲れから神経が立っていた。梟の鳴き声もやけに耳に響く。歩き続けて体力を消耗し、空腹感も募ってきていた。


その時、小さな家が霧の中から姿を現した。

障子越しの灯がまばゆく、戸口のそばには薪が高く積まれている。屋根からは炊事の煙が立ち上っていた。


「旅の者です。どなたか、おられませんか?」


市兵衛は戸を叩いた。



………



返事は返ってこない。しばらく待って、戸をゆっくりと開けた。誰もいなかった。

市兵衛はそろそろと家に入った。


土間は綺麗に掃かれており、水がなみなみ入った瓶が置かれている。また家の真ん中に据えられた囲炉裏には炎が燃えていた。自在鉤に大きな鍋が掛けられており、蓋の隙間から湯気が立っていた。戸口まで炎の暖かさが届いている。


市兵衛は草鞋を脱ぎ、板張りの床に上がると囲炉裏に近づいた。

鍋の蓋を上げると粥が炊かれていた。


「なんと…白米じゃないか!」


市兵衛は驚いた。麦やあわの混じらない白米だけの粥など、そうそう食べられるものではない。こんなに沢山の米が、このような人里離れた山中に有るとは。しかし不思議に思うよりも空腹の方が勝った。夢中で粥をかき込んで、鍋をすっかり空にしてしまった。


腹が満たされた途端、疲れが前に出てきて眠気が襲ってきた。

市兵衛はそのまま板張りに横になった。



・・・・・



深夜、市兵衛は気配を感じて目を覚ました。家の中は真っ暗だった。

囲炉裏の火は消え、とても寒かった。


( ? )


不穏な空気が漂っている。ふと、天井に目が行った。


( ———— ‼)


闇の中に無数の青白い手が蠢いていた。

腐りかけた指が、市兵衛の喉に向かって這うように近づく。重く冷たい声が響く。



……れ…



 ……代われ……



「う…うわーっ!!」


市兵衛は飛び起きた。その瞬間、手はふっと消えた。

恐怖に腰を抜かしながらも火を打ち、囲炉裏に火を着けた。辺りがうっすらと照らされた。


市兵衛は言葉を失った。

ボロボロの床板はそのほとんどが破れており、むき出しになった地面の至る所から雑草が生えている。えぐれた壁、藁の落ちた屋根… 先ほどまであった「生の気配」は消え去っていた。家は朽ち果てていた。


市兵衛はあたりを見回した ———壁に、古びた文字が刻まれている。



『此処で眠るな。次に目覚めるのは、お前ではない』

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身代わりの夢 Kei @Keitlyn

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