第7話 はぐれ
見上げるほどの巨体。
茶色の毛に覆われた熊である。
大地を踏み締める脚は太く、爪はするどい。
こちらを見つめる瞳は冷たく、敵と認識しているようであった。
──グァァァァァッッ!!!
耳が張り裂けんばかりの咆哮をあげる熊。
シャオーネは、もはや笑うしかないなどという境地に達していた。
けれどそれは、それは熊にとって“隙”にしか見えない。
だからだろう。最初の一撃は、シャオーネへと振り下ろされた。
ドンッ
一瞬の出来事。ミレナは自分の身を守るため、全力で避ける。
そして、シャオーネは。
衣服に縫い込まれた魔法が発動され、彼女の身を守った。ただ、勢いを殺し切ることはできず、後方へと投げ出される。
熊の腕は、シャオーネの立っていた大地を砕き、割っていた。
理不尽なまでの力。
「これが、異変の原因……」
確定ではないが、ミレナにはそうとしか思えなかった。
これほどの生物は、それこそウイウイノ山脈でもなければいないもではなかろうかとさえ感じる。
だが、ミレナの感性はお世辞にも的を得たもの、とは言えないものであった。なにせ、彼女らの目の前にいる熊は、弱くて追い出された“はぐれ”でしかないのだ。
ゆえに、熊には古傷があった。
喉元より下に裂けたような傷跡。それに、ミレナも気がついた。
一つ、ナイフを取り出しその傷跡に向かって投擲する。それと同時に、背を向けて走り出す。
5歩で、森へ入り、そのまま突っ切る。
その瞬間、『バギッッ』という木を折る爆音が、背後でこだまする。
木々を薙ぎ倒し、熊がやってくる。
あの図体である。歩くならともかく、走るとなれば小回りは効かない。つまり、本来の速さで走ることができないのだ。
後を追って来てくれたのは、ミレナにとって行幸であった。
ミレナに、あのクマを倒す術はない。否、全力で、あの傷跡をなぞるように斬れば殺すことはできるかもしれない。
だが、どうやってあの熊の懐に入る?
どうやって、首元まで刃を届かせられる?
どうやって、傷を負わせた後離脱できる?
これら全てを完璧にこなす自信は、ミレナになかった。事前にいくつもの策と罠を張り、万全の体制で臨んでいたら、可能性はあったかもしれない。
だが、今はどうだ?
偶然遭遇したため、なんの準備もなく、その場の機転でどうにか凌いでいるだけである。
シャオーネの力が必要だ、とミレナは強く思った。
現状を打開できる頼みの綱は、シャオーネの魔法、ただそれだけだ。
だから、時間を稼ぐ。
慣れない森の足場で転けそうになりながらも、必死で走る。ただ、直線移動ではいけない。
離れすぎると、シャオーネの魔法が届かなくなる。
熊から逃げること。かつ、遠くへと行きすぎてもいけない。そもそも、離れれば離れるほど、戻るのが難しくなる。そのためには、シャオーネのいるであろう場所を中心として円を描くように逃げるのが今ミレナが思いつく中では一番合理的である。
これは、意外としんどい? などと思うも、それでも足は止めない。止めてはいけない。
そもそも、あの熊の方が森に慣れているのだ。一瞬の油断が、命の危険を招く。
そんなことを考えていたから、ソレに気付けた。
音が、聞こえなくなったことに。
追うことをやめた?
熊が、諦めたのだろうか。
それは一瞬の逡巡、それがミレナの命を助けた。
バギッ ヅァァァァ────ダン!!!
上から、熊が落ちて来た。
折れた巨木が、ミレナに向かって倒れてくる。
熊がいるのは右手の少し奥、シャオーネは左手にいるはずである。
ならば、とミレナは熊に背を向け走り出す。
森の奥へ、奥へと走っていく。
体力は、まだ有り余っている。森を走るのにも、万全とは言い難いがだいぶ慣れてきた。
ただ、この鬼ごっこならぬ熊ごっこを、いつまでも続けられる自信はない。いくら今体力があっても、熊が先に息切れする、なんてことは期待するだけ無駄である。
今はただ、シャオーネが魔法の準備をしていることを祈って逃げ続けるしかない。
シャオーネが気絶して、今も眠っているなんてこともあり得るのだが。ミレナはそうなったらそうなったで、二人ともお陀仏だろう、と割り切ることにした。
そんなことを考えられているとは梅雨知らず、シャオーネはガリガリと木の枝で魔法陣を地面に描いていた。
「はぁ、これでどうにかなる、はず」
描いていたのは、熊を殺すための魔法陣。彼女としては、即興であることを抜きにしても、なかなかの出来であると自画自賛している。
ミレナの杞憂は、杞憂のままで済みそうである。
彼女は顔を上げた。
ミレナの場所はわからない。
けれど、熊の居場所ならば、すぐに判明した。
熊の地響きのような咆哮、木々を押し倒す音。それなりに遠くへ離れた場所にいるはずなのに、まるですぐ近くにいるようにさえ感じる。
あれを倒さなければいけないのかと思うと、シャオーネは憂鬱な気分になる。
とは言え、いつまでもそんなことを考えてはいられない。意を決して、ミレナへと合図を送ることにする。
懐から、魔法陣の描かれた紙を取り出す。その中から一枚を選び取り、空へと翳す。
ゆっくりと、魔法陣をなぞるように魔力を込めていく。
そして、魔法は完成された。
魔法陣の中心より、一条の光が空へ放たれる。
遥空へと放たれた光は、突如光を増す。
『キィィィィン……』という甲高い音が、光と比例するように大きくなる。そしてついに、目も眩むような光を発し、すぐになにもなかったようにして消えた。
「ちょっと光量間違えたかな?」
眉間を揉みながら、シャオーネは場違いの呑気な言葉を吐いた。
「眩しすぎる!」
熊に追われていたミレナは、魔法の光のせいで一瞬目が眩んだ。
それでも、足は止めないのは、さすがとしか言えない。
対して追いかけていた熊は、目を押さえて呻いている。
今がチャンスと、ミレナはシャオーネもいる方へと方向転換。
熊のすぐ脇を素通りして、がむしゃらに走る。
そこで、転けた。
気が緩んでいたのかもしれない。思わぬことに驚いて手を突き出せば、木の根を掴むことに。そして勢いそのままに、宙返りをして着地。
はぁ、とため息を吐こうとすれば、背後で『ダンッッ』と音が響く。
そのまま『ギャリギャリ』と、鋭い爪で木々を割いている。周囲を顧みず、怒りのままに当たり散らかしているのだ。
このまま放っておくかとミレナが思ったその時、急に熊が動きを止めた。『グルゥ』と喉奥から地響きのような声を出す。グルリと首を動かし、ミレナの方を向いた。
スンスン、と鼻が動いているのが、ミレナには見えた。
間違いなく、匂いでバレた。
ミレナは気付かぬうちに風上に立っていたのだ。
こうなってしまっては、戦わずにトンズラするなんてこともできなくなった。
今はシャオーネを頼りに、走るしかない。
背後からは、熊の咆哮が響いてくる。
これまでよりも、明らかに力の入り具合が違う。
ミレナを舐めてかかっていたからか。それとも、余裕がなくなったのか。もしくは、その両方か。
けれどそれは、ミレナにとっては嬉しくないことである。
これまで以上に、全力を振り絞って、走らなければいけない。
心臓の音が聞こえるほど激しく動いている。けれど、足を止めることはできない。息をするだけでも苦しくなる。
山を登って、崖を降りて、その後に熊と全力の鬼ごっこと、こんなに身体を酷使すれば、身体中が悲鳴を上げるのは当たり前とさえ言える。
それでもと、必死に足を動かし、木々を通り抜ける。そうして森を出たその先に、あの崖を目の前に捉えた。
崖のすぐ下には、シャオーネが立っている。彼女の足元には、巨大な魔法陣が描かれていた。人が20人寝そべってもまだ空きが生まれそうなほどの大きさであった。
ミレナはその上を走り抜け、シャオーネの隣まで来て立ち止まった。
はぁはぁ、と息を荒げ、今にも倒れそうなミレナ。
「倒す、準備は……はぁ、できたん、です、よね」
「……多分」
「多分?」
「多分大丈夫、なはず」
「そこは、断言して、ください」
「それはちょっと難しいかなぁ」
あんな身体能力の化け物を見せられると、確約はできないし、とシャオーネ。
その時である。ミレナを追いかけて、森から熊が姿を現した。
その瞳は憎々しげに、二人を睨んでいる。
「怒らせすぎたかな?」
その通り、といわんばかりの咆哮とともに、熊が脇目も降らずに走ってくる。
「よかった」
シャオーネは魔法陣に手を置き、熊を見つめる。
タイミングを測っているのだ。
熊が加速するために、グッと足に力入れようとしたその時、シャオーネは勝利を確信した。
ゾゾゾゾッッッッッッ
魔法陣が輝き、その力を発揮する。
まるで、蟻地獄のように、土が砂となり、流動し、熊の体を大地へと引き摺り下ろしていったのだ。
土が渦を巻いて凹んでいき、熊を沈めていく。
気づいた時には、もう遅い。
いくら暴れても、それは体が沈んでいくのを助長させるだけ。
体の半分が沈んだ。
土が吹き上がり、凹んだ箇所を直していく。
首まで沈んだ。
ゾブリッ ゾブリッ と、大地が流動する。
顔が見えなくなった。
彷徨うように振り上げられた前脚の上に、土が積もっていく。
そうして、熊は、大地に埋められた。
生き埋めである。
最後の締めで、地面を固める。
岩のように、頑強に。
シャオーネが今できる最善で、最恐の魔法。
そしてそれは、いとも容易く、打ち破られた。
熊の右手が大地を引き裂いた。
身体中から砂をこぼして、立ち上がった。
魔法が破られたのは、簡単な話であった。
魔法の発動中は、流動的で、さらさらとした砂のおかげで、どれほど強かろうと、力は分散していた。
けれど、熊を閉じ込め、魔法が完成した瞬間、流動性は失われ、熊の力が土を、砂を押しやり、動かすことができた。できてしまった。
シャオーネの認識は、甘かった。
シャオーネの魔法はは熊をギリギリ埋められる程度でしかなかった。だから、熊が本気を出せばすぐ地中に出られた。もっと深く、それこそ、いくら暴れても全く地上に影響がないほど深く、埋めるべきであったのだ。
だから、これは当たり前の結果である。
彼女は選択を誤った。
二人に熊を倒す術は、もはやただ一つもないのだ。
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