ニューイングランドの落日
長井景維子
一話完結です。
赤々と燃える火は、この築100年になる古い洋館のファイアープレイスに温かな光の輪を作り、その側で淡いブルーのセーターを編んでいる、ミセス・ガードナーの指を寒さから守っていた。彼女はもうすぐ70歳になる白髪の陽気な老婆で、今もオーブンでアップルパイを焼きながら、お茶の時間に合わせてやってくる孫たちを楽しみに待っていた。
窓の外は木枯らしが吹いていて、雪が舞いそうな薄暗い空の雲の合間から、薄日が差している。コーギー犬のマギーが足元にやって来て、オーブンから漂う香ばしい香りに鼻を鳴らす。ミセス・ガードナーは編み物の手を休めてカウチから腰をあげ、キッチンへ歩いて行った。オーブンの様子を見ると、アップルパイは美味しそうに出来上がっていた。
今までに何百枚、アップルパイを焼いて来ただろう。多分、一番最初に焼いたのは、ミセス・ガードナーがティーンエイジャーの頃だった。それから、早くに世を去った母の代わりに弟二人を育て、弟たちや父にパイを焼くうち、すっかりベーカリーよりも美味しいパイを焼ける腕にまでなった。弟二人の世話で、大学には行きそびれたが、その代わりと言っては語弊があるが、素晴らしい伴侶と結ばれた。
マイク・ガードナーは温厚な青年で、シティーの大きな銀行に勤めていた。ミセス・ガードナーは彼と初めて会ったその瞬間に恋に落ちた。マイクの濃い緑色の瞳は暖かくて、その素晴らしい深みのある声と相まって彼らしい男っぽい雰囲気を醸し出す。まだ二十歳前のミセス・ガードナーが本屋で立ち読みをしていた時に隣に来て、
「すみません。ちょっとそこの本を取らせてください。」
と声をかけて来たのがマイクだった。互いに不意に目を覗き込み、お互いにプッと吹き出した。なぜか笑ってしまった。それが運命のイタズラだった。
『砂糖を使わない料理で一週間生き延びる』という題名の本に手を伸ばしたマイクに、若いミセス・ガードナーは、
「お砂糖を絶ってまで生き延びようとは思いませんわ。ずっと体に毒ですわ。」
と、何気なく言った。それを聞くとマイクは目を丸くして驚いていたが、すぐにこれ以上ないというくらい優しい微笑みを顔に讃えて、
「砂糖は体に良くないとばかり思っていました。そういうものですか。」
と言ってその本を棚に戻した。
「美味しいお菓子でお茶の時間を過ごすのは、生きている限り楽しみですもの。」
二人は何かお互いに惹きつけられるものを感じ、立ち話を続けた。そのうち夕立が降り始め、本屋に閉じ込められた。これを幸いに二人は話し続けた。軽く自己紹介もしながら、カジュアルに世間話をしていると、雨は止んで大きなダブルレインボーが空に架かった。それをみると、マイクは彼女に、
「もし良かったら、そこのカフェでお茶でもどうですか?」
と、いきなり誘った。しかし、軽い軟派な感じはしなかった。
暖かいカフェオレを飲みながら、二人のおしゃべりに花が咲いた。それから数ヶ月で二人はめでたく結婚した。
ミセス・ガードナーは料理上手で、すぐに授かった二人の女の子たちの子育ても、そつなく上手にやってのけた。二人の子供たちは健康に育ち、姉のメアリー・ジェーンは看護師となり、妹のステファニーは小学校の教師になった。マイクは銀行員を勤め上げ、定年で退職すると、若い頃から好きだった登山に時間を割くようになった。険しい山々ではなく、ニューイングランドのなだらかな山道をトレッキングするのが好きだった。ミセス・ガードナーも同行して、山の上でランチボックスを広げ、綺麗な花や野鳥の写真を撮りながら夫婦で楽しむ。秋はとりわけカエデの紅葉で山々は美しく色づき、青い空に映える赤や黄色でため息が出るほどの美しさだ。
ミセス・ガードナーは、もう一つ、人生でやり残したことがある気がしていた。それは、大学に行っていないことだった。出身高校へ行って卒業証明書のコピーをもらってくると、近くの州立大学に志願した。募集要項をくまなく記入して、アプリケーションを提出すると、二週間して合格の通知が来た。彼女は飛び上がって喜んだ。
マイクも子供達も喜んだ。新学期が始まると、彼女はノートとペンを買い揃え、車で大学のキャンパスに向かった。勉強は不得意ではなかった。新しい内容が少し使い古した頭脳に心地よい刺激となって溢れ込んだ。それを彼女は心から楽しんだ。教室で若い子供達と知り合い、ランチに誘われ、その子たちの話を聞くうちに、自分もその年齢に戻れそうな変な錯覚を抱いたものだった。
ミセス・ガードナーは文学を専攻し、無事に卒業した。この4年間は何物にも変え難かった。弟二人と父の世話、そして、高校を卒業してから洋品店で働き、マイクと結婚し、二人の娘を育て上げ、やっと二人が自立した後に、州立大学に入って若者たちと一緒に過ごした日々。やっとやり残したことをやり遂げた。あとはマイクと二人、健康に気をつけながら、山に登り、旅行もしたいけど。
アップルパイは上々の出来で焼きあがった。マイクが読書を中断して書斎からやって来た。ミセス・ガードナーのスマートフォンにメールが入る。
『いま、ハリソン・ロードの雑貨屋で子供達が買い物したところ。今からお茶に伺うわ。メアリー・ジェーン』
メアリー・ジェーンは家族とともに車ですぐのところに住んでいて、すぐに行き来ができるのだが、ステファニーは遠くカリフォルニアにいる。ボーイフレンドのジミーと近々結婚の予定だ。
「おばあちゃん、おじいちゃん、こんにちはー!」
玄関のベルが鳴って、元気な男の子と女の子の双子が現れた。ガードナー夫妻は微笑みながら、二人を抱きしめた。メアリー・ジェーンは車をドライブウェイに駐車している。
孫たちはコーギー犬のマギーに頬をすり寄せている。ミセス・ガードナーは薬缶を火にかけ、ティーポットに紅茶の葉を準備した。大きなマグカップを五つ出して、アップルパイを八等分に切り分け、皿に乗せてフォークを添えた。
遅れて入って来たメアリー・ジェーンは夫妻とハグすると、ミセス・ガードナーが編んでいた編みかけの青いセーターを見つけて、
「お母さん、とってもいい色ね。お父さんの?」
と聞いた。
「これはお父さんに編んでるけど、あなたたちにも編もうと思ってるのよ。好きな色があったら教えてちょうだい。」
と薬缶の湯をティーポットに注ぎながら言った。ポットカバーを被せてテーブルに持ってくると、アップルパイを配り始めた。
「お父さん、お母さん、ステファニーと私から旅行をプレゼントしようと思う。来年の春、クルーズなんてどう?ヨーロッパは久しぶりでしょう?」
「ええ?嬉しいな。」マイクが目を輝かせて言った。
「本当?お母さんもヨーロッパクルーズ、気にいるかな?」
「いいわね。私は船酔いするけど。」
「今の豪華客船はほとんと揺れないわよ。それに酔い止めを飲んでいれば大丈夫よ。」
「そう、いいわね、マイク!」
「よかった。じゃあ、ステファニーにも伝えておくわ。これは彼女の提案なのよ。」
「ステファニーは元気かしらね。」
「すこぶる元気よ。結婚式にはカリフォルニアにみんなで行けるわね。」
「そうね!楽しみだわ。さ、パイを食べてちょうだい。」
子供達も席について熱い紅茶と焼きたてのアップルパイを食べ始めた。サクッとしたパイの生地の中にニューイングランド特産のマッキントッシュリンゴがたっぷりと入っている。双子の女の子ナンシーは言った。
「おばあちゃんみたいなパイを私も焼いてみたい。」
双子の男の子、マシューは、
「ナンシー、おばあちゃんはきっと僕たちの歳の頃にはもうパイを焼いていただろうよ。君も今から始めたら上手になれるよ。」
とパイをほうばりながら言った。
「喜んで教えてあげるわよ。」
ミセス・ガードナーは大喜びで答えた。今日も幸せな夕日が窓の外に沈もうとしていた。ニューイングランドの長い冬が始まろうとしていたが、ガードナー夫妻は家族とともに幸せいっぱいに乗り切って行くだろう。マイクは可愛がっているコーギーのマギーにパイのかけらをやり、思い切り頭を撫でてやった。マギーはない尻尾を振るようにしながら、テーブルの下でパイを食べた。
ニューイングランドの落日 長井景維子 @sikibu60
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