西野の疑問
やがて、パタパタという足音とともに、髪の短い少女が走ってきた。両手を飛行機の翼のように横に広げ、真剣な表情で全速力でこちらに向かってくる。ふたりの予想通り、竹内可憐だ。幸乃は、くすりと笑った。
ふたりの前まで来ると、可憐は立ち止まった。ビシッと片手を挙げる。敬礼の姿勢だ。どこで覚えたのかは不明だが、この少女のいつものリアクションである。
「こんちわっす!」
可憐は、大きく元気な声で挨拶してきた。幸乃も、微笑みながら挨拶を返す。
「こんにちは。お姉さんは元気?」
「うん、元気だよ。今はね、うちにお医者さんが来てる。大事な話があるみたいだから、外に遊びに来たんだよ」
元気に答える可憐。この子の姉の杏奈は、心に深い傷を負っているらしい。定期的に、医師が訪問している。
その医師は中年の女性で、南方の人間だが日本語はペラペラだ。かつて日本に留学していたこともあるそうで、発音や話し方などほ日本人とほとんど変わらない。
温かみを感じる風貌であり、話すだけで癒される雰囲気を漂わせている。幸乃も時おり話を聞いてもらうことがある。杏奈は恐らく、可憐には聞かせたくない話をしているのだろう。
その可憐はというと、紫苑の方を向いた。
「ねえ、これ何だかわかる?」
言ったかと思うと、両腕をだらりと下げる。鼻の下を思い切り伸ばし、しかめ面を作った。中腰の姿勢になり、歩き出す。が、突然立ち止まり胸をポコポコ叩き出した。
かと思うと、不意に両手で頭を抱える。そのまま、中腰で歩き出す。数歩進んだかと思うと、こちらを向いた。
さあ答えてみろ、と可憐の顔は言っている。幸乃は笑みをこらえつつ、紫苑が答えるのを待つ。
「ええっと、ゴリラ?」
紫苑が首を傾げつつ尋ねると、可憐は首を横に振る。
「うーん、惜しいんだよ! これはね、二日酔いで頭が痛いゴリラだよ!」
「何それ。ちょっと難しいね」
楽しそうに笑う紫苑を見て、幸乃は微笑む。この可憐は、ユニークな感性を持っている。変わった子ではあるが、今では娘の大事な友人だ。
このふたりが仲良くなったのは、船の中だった。幸乃と紫苑が甲板を歩いていると、いきなり走ってきたのが可憐だ。彼女の方から一方的に話しかけてきて、そのペースに圧倒されたのを今も覚えている。
そんなことを繰り返しているうちに、いつのまにか友達になってしまったのだ。幸乃は最初、真逆のタイプにも見えるふたりが、上手く付き合えるのだろうかと不安だった。
しかし、その心配は無用のものだった。
「ねえ、コトラちゃんの絵を描きたい。描いていい?」
可憐が聞くと、紫苑は嬉しそうに頷いた。
「うん。じゃあ、行こうか」
ふたりは手を繋いだ。紫苑のペースに合わせて、ゆっくりと歩いていく。可憐は一見すると、他人に気を使わないマイペースな雰囲気を漂わせている。だが、きちんと相手を思いやることも出来るのだ。この島に来ていなかったら、可憐と交流することなどなかっただろう。
幸乃には、ここに来てから、もうひとつの願いが生まれていた。
このふたりが、ずっと友達でいられますように──
・・・
そんな島の奥にある木造の一軒屋家が、西野昭夫の住まいである。
電気や水道はちゃんと通っており、生活に不便はない。テレビまである。どういう仕組みかは知らないが、日本の番組を観られるようになっている。ただし、御手洗村に関するニュースは観られないようになっていた。検閲でもされているのだろうか。どこかの独裁国家のようである。ただ、それも仕方ないだろう。
昭夫はリビングにて、椅子に座っている。彼の前には、テーブルが置かれていた。木製で、飾り気のないものだ。椅子もまた、質素なものである。
そのテーブルの向こう側には、ペドロがいる。Tシャツにハーフパンツ姿で、にこやかな表情を浮かべ椅子に座っていた。リゾート地に遊びに来たセレブな中年、といった雰囲気だ。もっとも、Tシャツ越しに見える肉体が常人離れしているのは相変わらずだ。
この男を見ていると、本当に不思議な気分になる。ペドロの本性は、いったい何なのだろうか。何のためらいもなく人を殺す怪物。だが、村の救世主でもあるのだ。しかも、この島の支配者でもある。
この事実を、どう解釈すればいいのか。昭夫には、未だに分からない。
「何か、変わったことはあるかな?」
ペドロの問いに対し、首を横に振った。
「時にありません。皆、普段通りです」
このやり取りは、御手洗村にて高木和馬との間に交わされていたものと、全く同じだ。もっとも、ペドロはたまにしか顔を出さない。事実、今日は三ヶ月ぶりに彼と顔を合わせたのだ。
ペドロが普段、何をしているか……昭夫は、何も知らされていない。聞いたところで、教えてもらえるとも思えなかった。
わかっていることはひとつ。この島には、かなりの数の人間が住んでいることだ。その中には日本人もいるし、医師もいる。鍛え抜かれた肉体を持つ兵士らしき者も見かけたことがあった。全員、ペドロの忠実な部下のようである。
彼らは、必要なものを調達してくれるし、相談にも乗ってくれる。何も不自由なことはない。
改めて、ペドロという怪物の持つ底知れぬ力を感じた。
「そうか。後のことは頼んだよ」
そう言うと、ペドロは立ち上がった。背中を向け、ゆったりとした足取りで歩いていく。
改めて見ると、背中の広さに圧倒された。ペドロの身長は決して高くはない。百七十センチの昭夫より小さい。にもかかわらず、その背中は異様に大きく見えた。これは、筋肉の量や骨格の大きさではない。単純に、人間としての大きさではないだろうか。
昭夫は、その巨大な背中に向かい声をかける。
「ちょっと待ってください。あなたに教えて欲しいことがあります」
すると、ペドロの動きが止まる。
「なんだね。言ってみたまえ」
背中を向けたまま答えた。昭夫は、ためらいながらも口を開く。
「高木和馬さんを殺した理由を、教えてください」
その声は震えていた。いや、声だけではない。全身がガタガタ震えて出していた。心臓は激しく高鳴り、立っていることすらつらい。
だが、どうしても聞かなくてはならなかった。なにせ、ペドロと会うのが三ヶ月ぶりである。今度、いつ訪れるのかもわからないのだ。
昭夫にとって、恩人であった高木和馬。彼と出会ったことにより、昭夫は生きる意味を知った気さえするのだ。
しかし、その高木はペドロに殺されてしまった──
無論、今さら高木の仇を討とうなどとは思っていない。自分は、どうしてもペドロを憎むことが出来ないのだ。そもそも、この男は自分ごときが殺せるような相手ではない。
それに、村人たちを救ってくれた恩もある。特に竹内杏奈は……ペドロがいなかったら、今も部屋の中に閉じこもっていた。暗い部屋の片隅で、膝を抱え座ったままだっただろう。彼が、杏奈を立ち上がらせてくれた。
ペドロは、村人たちに大切なものをくれた。それでも、高木を殺した件だけは、なかったことには出来ないのだ。
すると、ペドロはゆっくりと振り返る。その顔には、見たこともない奇妙な表情が浮かんでいた。
「構わないが、ひとつ条件がある。高木氏の死んだ理由を語る代わりに、君に受け取って欲しいものがある。受け取った後、どうするかは君に任せる。捨ててしまっても問題ない」
予想もしていなかった言葉が返ってきた。昭夫は戸惑い、何も言えず突っ立っている。
そんな彼に向かい、ペドロは問いかける。
「どうしても知りたいのかい? 真相を知れば、君は確実に後悔することになるよ。それでもいいのかい?」
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