約束の地

 日の光がさんさんと照る中、幸乃と紫苑はのんびりと歩いていた。いつもと同じく、昼食後の散歩である。

 周りには、名前も知らない植物が生えていた。派手な色の花が地面に咲いており、かつては映像でしか見たこともなかったような大木も生えている。

 時おり、大きな昆虫が飛んでいるのも見かける。奇妙な色の羽根を持つ蝶や、手のひらほどもありそうな巨大カブトムシなどである。たまに、大きめのネズミのような生き物を見かけることもある。

 正直いうなら、幸乃は大きな虫やネズミは苦手だ。あまり近づきたくはない。だが、紫苑はそうでもないらしい。好奇心あふれる目で、あちこち見回している。こちらに越して来てから、そろそろ三ヶ月になるが、少女の目には未だに新しい発見があるらしい。

 そんな娘と手を繋いで、幸乃はゆっくりと歩いていく。柔らかい土を踏み締め、紫苑のペースに合わせ一歩ずつ進んでいく。

 不思議な気分だった。ふとした時、自分は夢でも見ているのではないだろうか……と思うこともある。こんなことが、現実にあるのだろうか。

 そう、ここは御手洗村ではない。それどころか、日本ですらないのだ。太平洋のどこかにある、名前もない小さな島ということしかわからない。


 ・・・


 三ヶ月前、何の前触れもなく村人たちは集合させられた。他の住人と、こんなに長く顔を合わせるのは初めてである。幸乃と紫苑は小さくなっていた。もっとも、戸惑っていたのは真壁家だけではない。皆、この異様な事態に困惑の色を隠せずにいた。

 そこに現れたのが、あのペドロである。悠然とした態度で皆の前に現れると、にこやかな表情で全員の顔を見回す。

 ややあって、おもむろに口を開いた。


「とても残念なお知らせがある。先日、高木和馬氏が亡くなった」


 声も出せなかった。あまりにも急な出来事に、唖然となり事態を飲み込むのに精いっぱいであった。他の者たちも、同じ状態である。

 そんな中、ペドロだけが平静であった。落ち着いた口調で語り続ける。


「死因について詳しいことは、今は言えない。いずれ、西野くんの方から詳しい説明があるだろう。葬儀に関しても同じだ。今はまず、これから何をするかについて話す」


 そこで、ペドロは言葉を切る。その場にいるひとりひとりの顔を、じっくりと見回す。

 少しの間を置き、ふたたび口を開く。


「君らには、ふたつの選択肢がある。ひとつは村を出て山を下り、俗世間の中で暮らしていく。御手洗村に来る前の生活に戻るわけだね。村の代表である高木氏が亡くなった以上、これは致し方ないことだ」


 それは予想していた。だが、もうひとつは何だろうか。皆、固唾を飲んで次の言葉を待つ。


「もうひとつは、俺の指示に従い引っ越してもらう。向かうのは、南方にある島だ。気候は温暖で、海外の金持ち連中がバカンスを楽しむような場所さ。君らはその島で、今まで通りに暮らしてもらう。皆が、そこで一生暮らすに困らないだけの金は用意してあるよ。ただし、日本に帰るのは少々難しくなる。どうしても日本に行きたい場合は、俺の許可が必要となるよ。また、日本にいる知り合いと連絡を取るのは控えていただきたい。さらに、ネットは使えない環境だ。はっきり言うと、今までの人生全てを捨て去り、新しい人生を歩んでもらうことになる」


 こちらは、予想もしていなかった言葉である。その場にいる全員が、呆然となっていた。咄嗟に言葉が出ず、その場に突っ立っている。

 ややあって、再びペドロが口を開く。


「もちろん、来るか来ないかは君たちの意思に任せる。俺は、何も強制する気はない。正直に言うと、全てを捨て去る覚悟がないのなら来ない方がいい。さあ、どうする?」


 もし、この話がペドロ以外の人間の口から出たものであるなら、幸乃は従わなかっただろう。これほど怪しい話はない。詐欺か、もしくはカルトな団体と判断し無視していたはずだった。

 ところが幸乃も紫苑も、ペドロの申し出を受けたのだ。なぜかは不明だが、あの男が自分たちに危害を加えるわけがない……という信仰にも近い思いに導かれ、島に行くことを承知したのである。

 しかも、この親子だけではない。その場にいた全員が、島に移り住むことに同意したのだ。

 翌日の夜、怪しげな男の運転する車に乗り込み、皆で山を下りた。さらに港へ行き、停泊していた巨大な船に乗る。これまた、今まで見たこともないような豪華なクルーズ船だ。

 船旅は、とても快適なものだった。幸乃も紫苑も、船に乗るのは初めてである。だが、とても楽しく過ごせた。

 数日間の船での生活を経て、着いたのがこの島だ──


 ・・・


 他の家族がどう思っているかは知らないが、幸乃は選択を後悔してはいない。もともと、日本での暮らしに未練はなかった。御手洗村に来た時点で、それまでの人生で得たもの全てを捨て去っていたのだ。

 ここは、御手洗村よりも住みやすい。今は、日本なら冬が始まる時期だが、Tシャツに短パン姿で歩けるのだ。気候は温暖であり、風邪を引く心配はなさそうだ。

 時間は、ゆったりと進んでいく。かといって、退屈ということもない。島に流れる特有の空気のせいだろうか、何もしていない時間が心地好いのだ。退屈という概念が、消え去ってしまったかのような錯覚すら感じる。

 かつて、怪しげな宗教団体の人間が自宅へ訪問しに来たことがある。妙に澄んだ目をした中年男と中年女だった。

 彼らはにこやかな表情で、こんなことを言ってきたのだ。


(信者になり、本当の神様に使えるのです。そうすれば、いつか約束の地に行けますよ。そうなれば、死も苦しみもありません。娘さんの病気も治りますよ)


 その時は、ふざけるなと怒鳴り付けて追い返した。どこから紫苑の病気の話を聞き付けたのだろうか。弱っている人の匂いを嗅ぎ付けると、どこからともなくやってくるピラニアのような奴ら……という印象しかない。口ではもっともらしいことを言ってはいたが、しょせん人の弱みに付け込むクズ野郎の集団だ。

 今も、その印象は変わっていない。だが、この島に来て思うことはある。ひょっとして、ここが約束の地なのではないだろうか、と。バカげた思いであることはわかっている。だが、自分たちにとってのパラダイスである事実に変わりはない。

 やがて、幸乃は声をかけた。


「そろそろ帰ろうか。コトラが、家で寂しがっているよ」


 そう、真壁家はこちらに引っ越す際、コトラも一緒に連れて来たのだ。かつての自由きままな野良猫の生活から、窮屈な室内のみで生きる飼い猫となってしまった。だが、コトラは特に不満を感じていないらしい。家の中をのそのそ探検し、幸乃の手製のキャットタワーに登る。その上から、幸乃と紫苑の生活を見下ろしていた。いや、見守ってくれていたのかもしれない。親子が帰って来ると、嬉しそうに出迎えてくれたりもする。

 今では、大切な家族の一員だ。


「うん、帰る」


 紫苑は、ニッコリと笑って答えた。

 ふたりは手を繋いで、ゆっくりと歩いていく。紫苑は、まだ歩けるのだ。この美しい南の島を、ふたり並んで歩いていける。それが、本当に嬉しい。今のこの瞬間を、永遠に忘れないだろう。

 幸乃の願いは、今も変わっていない。一日だけでいいから、この子より長生きさせて欲しい。

 そんなことを思っていた時、声が聞こえてきた。


「うおおおお!」


 叫び声、そして迫って来る足音。紫苑は母の顔を見上げ、ニッコリ微笑んだ。


「可憐ちゃんだね」


 幸乃も苦笑しつつ頷く。


「うん」





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