バッテリーはもう戻らない

プラナリア

本文

 俺にとっては就活なんて楽勝だ。まずエントリーシートの履歴欄にこう書く、4番キャッチャーで甲子園に出場、1回戦突破、と。事実なのだからそう書く他ない。当然面接官は気になって事の仔細を聞いてくる。そうしたら満を辞して「感動の甲子園物語」を語ってやるのさ。


 俺には那珂川潤という幼馴染がいた、そいつとは小学校の野球クラブから中3の県大会までバッテリーを組んでいて、周囲からも名コンビとしてもてはやされていた。俺は潤を投手として信頼していたし、1人の野球プレイヤーとして憧れていた。でも中3の3学期になってあいつは突然こう言ったんだ、県外の名門高に進学することにした、君とは離れ離れになると。

 もう一緒にはプレイできない!悲しむ俺に潤は続けてこう語る。できるさ、共に甲子園のマウンドに立てば、僕がエースピッチャーで君が4番バッター、ライバルとして戦おう!と。感激したよ。

 こうして俺と潤は男同士の誓いを立てた、甲子園での直接対決なんて傍目には夢物語でしかないけど、それでも潤に恥ずかしい姿は見せられない。俺は血の滲むような努力を重ねて3年、強豪校の中で4番の座を獲得しチームを甲子園出場に導いた。

 そして、ああなんという天の采配か、1回戦を突破して迎えた2回戦、そこで立ち塞がるのはなんと、絶対的エースピッチャー那珂川潤を擁する……


 ピンポン、インターホンが学生アパートのワンルーム内に響く。企業への内定辞退メールをしたためていた玄関の方へ向かう、机の上に置かれた県大会優勝の記念写真がガタッと揺れて落ちた。Amazonで何か頼んだっけ?そんなことを思いながら扉を開けると女の人が佇んでいた。


「あー、えっとこんばんは〜、湯浅康二さんのお部屋で合ってますよね……?」


 女の人は黒地のパーカーにジーンズという男っぽい格好で、キャリーバッグを引きずっている。胸元の膨らみでパーカーに刻まれた英文が歪んでいた。顔立ちは整っていて肌は清らかで色白く、客観的に美人と呼んでも差し支えないものだったが、その糸のように細い目がどうも見覚えがあるものでもどかしい気持ちになるのだった。しかし何より気になるのは、俺の名前を知っていることだ。


「いや合ってますけど……どなたです?名前も住所も教えた覚えは……」

「んー、まあそうなりますよねえ、それじゃあ単刀直入に言いますか」


 女の人は軽く咳払いをしてから5秒ほど間をおいて、意を決したとでもいう真剣な面持ちで告白した。


「那珂川潤なんだよ、僕。君の大事な大事な幼馴染の、なんか知んないけど女になってた」


 俺はすぐさま警察への通報を試みた、仮にも幼馴染が事件に巻き込まれているかもしれないのだ。潤を名乗る女はすかさず俺の腕をホールドして止めにかかった。


「待って待って待って!せめて警察沙汰にはしないで!」

「うるさい!誘拐犯だか何だか知らねえが自分から名乗り出た癖に往生際が悪いぞ!オラッ!」

「ウギャーーッ!」


 俺は上体を軽く捻って女を振り解いた。こんなひ弱な奴が潤である筈がないだろう。110で通話ボタンを押そうとした時、女は甲高い声で叫んだ。


「君の脇腹にはホクロが3つ隣り合っている!」

「は、はああああああ!?」


 思わず心の底からの「はああああああ!?」が口から出てしまった。


「通称『夏の大三角形』」

「オマエ俺の身体いつ見たんだよ!?」

「中学の野球部のロッカーだよ!あとロッカーと言えば君、PSVitaを持ち込んで没収されたろう!」


 この女は信じがたいことだが、潤くらい親しくないと知らない俺の情報を把握しているようだ。考えられるなは人智を超えたストーカーか、超能力者か、あるいは……


「で、君は虫の中でもガガンボが苦手だ、小3での夏キャンプでマジで信じられない程デカいガガンボに襲われたから」

「それはとっくの昔に克服してて……ハッ!」

「君の夏休みエピソードならダース単位で覚えてるからな、あれは中1の……」

「あ、あの、普通に恥ずかしいんでやめてくれない?」


 女はその後も容赦なく俺の黒歴史を開示し続けた。恥辱の中で俺は認めるしかなかった、どうやらコイツは確かに那珂川潤その人であること、そして一体どうした訳か身体が女なってしまったことを。そうだ、コイツは男の頃から糸みたいに細い目だったものな。

 

「さて、これで信じてくれるかい?」

「お前マジふざけんなよお隣さんにも聞かれてるだろうが……!」

「信用してくれて有り難い限りだよ」

「まあなんというか、こんな荒唐無稽な出来事が身に起こってご苦労察するよ。じゃあそろそろ帰ってくれるかな、俺も就活生でゼミ生だから暇じゃないんだ」

「あ〜〜〜〜そうもいかないんだ、かくかくしかじかで……」


 潤はそれからある朝当然女になってしまった後のことを語った。まず自分自身が行方不明扱いになったこと、当然大学には入れず大学寮にもいられなくなったこと。実家を頼ろうとしたが自分が潤だと信じてもらえず、また他の知人にもやはり不審者扱いされたという。そして最後のよすがが俺だという。


「そういう訳で僕は明日の宿もないという訳だよ、可哀想だと思わないかね?なのでぇ……泊めてくれません?」


 俺は少し考え込むふりをしたのち扉と鍵を閉めた。くぐもった文句が貫通して聞こえる。


「おいふざけんな!バカ!野垂れ死ねというのかい!?」

「おう、どっかで死ね」

「ひどい!僕と君とは最高のバッテリーでライバルで……マブダチじゃないのか!?」

「はぁーあ」


 俺はため息を吐いた。潤の野郎(いやもはや野郎ではなくなったが)はずっと中学時代の認識で時間が止まっているらしい、現実を教えてやろう。


「潤さあ、お前はマブじゃねえ。俺とのバッテリーから逃げた裏切り者だよ」


 中3の3学期、俺と潤は甲子園で対決しようと約束をした……そんなの面接官を騙す為の嘘だね。高校に入ってからも潤とバッテリーを組み続けるつもりだった俺は、コイツが県外に進学すると聞いて頭が真っ白になった。それから潤とは一切口を聞かなくなった、裏切られたと激しく思った。

 それから甲子園に4番で出場したことと、奴と直接対決したのは本当だ。当時テレビでも特集された、マスコミはこういう分かりやすい物語が好きだからな。でもそこに友情なんてない、俺にあったのは裏切者に目にもの言わせてやりたいという恨みつらみ、それだけだった。


「そんな……そんな昔のことまだ引きずってるのかい!?」

「悪いな引きずって」

「僕だって君を傷つけてしまったと思うよ、でもあの日甲子園のマウンドでぶつかって、戦うことで和解できたりしなかったかい?」

「ない、そんな野球漫画みたいな展開にはならん、そういう訳で消えろ」

「僕に野垂れ死ねというのかーーっ!」

「おう、勝手に死んでろ」


 潤は扉を叩いて俺に慈悲を乞う、いい気味だね。潤が路上生活をさせられている光景を脳裏に思い浮かべるとますます面白くなってきた、いや、コイツは今女の姿なのだった。そう考えると少し不憫だな……。

 やがてドンドンと叩く音も止んだ、覗き窓から外を確認すると潤は体育座りでうずくまっていた。


「……一方的に俺は傷つけられたと主張するのはアンフェアじゃないかい?いま僕だって傷ついているんだよ、この身体になって」


 奴の糸のように細い目はいつもより少し縦に広がっていて、扉の向こうの俺をじっと見つめていた。


「僕、プロ目指してたのは知ってるだろう、ドラフト指名しなかった奴らの節穴さを証明してやるって息巻いてさ。現実は甘くなかった、大学野球からパッタリと、笑っちゃうぐらい成長が止まった。僕は天才なんかじゃなくてただの早熟だったらしい」

「……」

「そうしてもう4回生、僕は塞ぎ込んで就活も始められずにいた。社会人野球も勧められたけど嫌だった、プロになれないなら僕がこれまで歩んできた人生も、鍛えてきた身体も何も意味ないじゃないか!って。あ、もしかしてそれか?そんなことを思ったせいで神様は僕を女にして、これまでの人生を全部消し去ってしまったのか?」

「……すまん、悪かった」

 

 俺ば扉を開ける、潤は立ち上がった。

 

「ある日いきなり性別が変わったら困るよな、そりゃあ。なのに自分の恨みばかりぶつけるのは良くないよな」

「康二……!やっぱり昔から根は優しいな君は」

「根はって何だよ、とにかく泊まっていけ、飯もカップ麺代くらいは出してやる」

「いやぁ面目無い、ありがとう、それじゃあ」


 しかし潤はここで踵を返した、彼……彼女と言うべきか?がアパートの外へと歩いていくのを俺は引き止める。


「お、おい、今完全に泊まる流れだったろ!?」

「確かにね、でも君の僕に対する確執はまだ生きてると分かったんだ。そんな相手の家に泊まるのは失礼だろ?だから戻る」

「戻るってどこに……」

「家」

「家族に信じてもらえなかったんじゃ?」

「それはねぇ……嘘、君の同情を引くための」

「おぉ、オマエ……!」

「あー怒らないで!事情がさあ!その、確かに家族は女になった僕が僕であると信じてくれて、受け入れてくれたんだ。涙ながらに誓った、これから大変だろうけど支え合って生きていこうって。でもその翌日から、僕の処遇を巡って亀裂が走った。両親は毎日喧嘩するし、おじいちゃんは僕を嫁入りさせろと繰り返すわで、居心地悪くなっちゃった」


 潤はどこか諦めたように微笑んだ、西日が彼女の黒い長髪を艶やかに照らしている。今のコイツは綺麗だ、悔しいけど。


「なので母親に君の住所を聞いた、ほら、今でも僕らの母親同士は仲良いだろ?それから家出してこうして君の元へ来たの、だから安心してほしい!誰にも知られず野垂れ死ぬ心配は……」

「安心できるかよッッッ!!!」


 俺は潤の肩を両手で掴んで言い寄った。顔と顔が思ったより近くて一瞬ドキッとしてしまった。きっと顔も赤らめていたに違いない、しかしそんなのはどうでも良かった。


「このまま人様を気まずい家庭に送り返すなんてまるで俺がクズみてぇじゃねーか!」

「ちょ、ちょっと近くないか……!?」

「それに確執はまだ生きてる?そうだけどよ、それだけじゃあなくって……」


 潤もまた顔を赤らめていた、どこに出しても恥ずかしくない"女の子"だった、それが今の潤なのだと思うともどかしくて、体じゅうを掻きむしりたくなる気持ちに襲われる。


「憧れてるんだよ、お前に。小さい頃からすごいピッチャーで、練習も試合もいつも涼しい顔で、大して上手くもなかった俺をキャッチャーとして信頼してくれた。勝手に県外へ行って恨んだけど、同時にオマエらしいなと思った!」

「康二……」


 いつのまにか潤は少し小ぶりな身体で俺を抱きしめていた、自然と俺も抱き返していた。胸が当たっているとか、色々気にするべき所はあったけどもう気にならない。


「康二、泣いてる、ちょっとキモいよ」

「るせぇ、だから俺の家に泊まっていけ、お前の気が済むまで何日だって」

「……そうか、それが君の本心なのだね、じゃあその……」


「お言葉に甘えるよ、ありがとう」


 潤は今度こそ本当に笑った、満面の笑みだった。甲子園で勝った時もこんなふうに笑っていたな、そんなことを思い返す。

 元バッテリー、幼馴染同士の対決、メディアでもそんな具合に祭り上げられた俺達の勝負は、俺の一方的な敗北という形で幕を閉じた。俺は潤の球の前に手も足も出ずにチームも敗退、アイツも世間も拍子抜けだったかもな、でもそれより俺が悔しかった。こんなはずじゃあない、いつかリベンジしてやりたかった。


 そんな淡い願いはもう叶わない。潤の身体はふわりと柔らかくって、アスリートらしさとはまるで程遠かった。だから俺はもう、変わってしまった憧れの人の前で不甲斐なく涙を漏らすしかなかった。



◇◇◇◇◇



 その日の夜のこと。


「ギャアーーーッッッ!!!痴女ーーーッッッ!?!?」


 風呂から出たばかりの潤がスッポンポンのまま部屋を闊歩していた。あまりの出来事に俺は枕などを投げつける。


「うわっ!物を投げるとは失礼な!」

「お!ま!え!が!女の裸を男に見せつけるのはセクハラだろうが!」

「風呂後はしばらく裸でいたい派閥に属しているんだ、理解してほしいよ」


 コイツは俺の意に介さず布団の上に座りテレビの電源をつけた、もちろん裸のままで。


「お前それ、男同士でも嫌がられる奴だからなマジ……」

「でも僕らざっと9年間バッテリーを組み続けた仲でぇ……裸もロッカー室で見合ってるじゃないか」

「別に弁明になってないが?」

「ああ、ところでこの部屋に布団はこれ1枚しかない感じ?」

「まあそうだが、ま、まさか……」

「すまないが今夜は2人で布団を共有するのでいいかな、まだ夜は冷えるだろう?」


 俺は静かにうめき頭を抱えた。泊まっていけなんてあんな啖呵を切るんじゃなかったな、マジで。


【終】


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