第5話 私は夜夕代

 令和六年、九月四日、水曜日。


 目が覚めると、俺は、私になっていた。

 キャー、ヤバーい、私だー。やっと私の番が回ってきたー。

 ち〜っす。私の名前は、櫻小路夜夕代。大久手市・血の池町にある進学校「県立・血の池高校」に通う高校二年生で〜す。

 夜夕代と言う名前は、私のママが付けたの。「どういう意味?」って以前ママに聞いたら、ママったら「意味は無い。字面と語感が可愛いから」って即答すんの。マジうける。我が子の名前を、そんなノリ一発で。でも確かにプリティーな名前。漢字の並びもキュート。私はこの名前がだ~い好き。

 枕元で鳴り響く目覚まし時計を解除して、勢いよくベッドから飛び起きる。

 昨日の夜に和音が着て寝た糞ダサいスエットとボクサーパンツを脱ぎ捨て、タンスの引き出しからピンクのおブラを取り出し、人格の入れ替わりと同時に膨らむCカップのオッパイを寄せて~上げて~身に着ける。

 かわゆいフリルの付いたおパンツも履く。てかさ、股間にある愛雨と和音の共有物。コレ、つくづく邪魔。世の男どもは、よくこんなものを四六時中ぶら下げて平気で生活が出来るなあと感心する。次に自分が体を使う時は、シレッと消えて無くなっていないかなあ。

 ん? 口の中に違和感。壁に立てかけてある姿見鏡に向かって大きく口を開けて中を覗く。ホッペの内側が切れている。腫ほんのり血の味。患部を確認した途端に痛い。

「チキショー。和音め。また喧嘩しやがったな。膝の擦り傷もまだ治ってないのにい。あんにゃろ。翌日に体を使用するのが、十七歳の女子高生だってことマジ分かってんのお? あのバカ。アホ。スカポンタン」

 ブツブツ文句を言い、制服を着る。それから、薄暗い部屋の姿見鏡の前で正座をして、ウエットティッシュで目ヤニとヨダレを拭き取り、ママから貰った銀色のポーチの中にギュウギュウに詰め込んであるコスメを床に広げ、ブロンドヘア―の愛くるしい自分にメイクを施す。

 この体は、私へと人格が入れ替わる瞬間、ゴツゴツした男性の体から、しなやかな女体に激変する。胸が膨らみ、腰がくびれ、お尻が丸みを帯びる。ついでに、髪の毛が艶のある美しい金髪に変化をする。

 ただやっぱりね、悲しいかな、顔の端々に野郎どもの面影が残るのよ。鼻の下に薄っすらとヒゲが生えている時とかあるし、ニキビもほったらかしだし。マジ最悪。

 だから、ファンデーションやリップやアイシャドーで入念にメイクをするの。私の生活は、自分を「女」に仕上げることから始まる。女として完成をするまではこの部屋から一歩も出ない。

 私は、女。心の扉を叩いて「あなたは、男ですか、女ですか?」と尋ねると、いつだって部屋の中から「もち、女っしょ」という声がする。

 あ、ちなみに、私の心の部屋には、アレクサンドラと言う名前のスペイン人女性が住んでいるんだけどね。彼女はいつも軽快なカルメンを踊り――

♪ セニョリータ あなたは もち女っしょ

♪ 誰が何と言おうと 世間がどう見ようと

♪ セニョリータ あなたは もち女っしょ

♪ 喉仏は立派だけれど 股間に邪魔なの付いているけど

♪ セニョリータ あなたは もち女っしょ

♪ オッパイあるし Cカップだし

――と、陽気歌い、私を励ましてくれるのん。

 メイクが仕上がる。立ち上がり、姿見鏡の前でファッション雑誌のモデルさんのようなポーズを決めてみる。うん、バッチリ。私ったら、今日も激カワ。せっかくだから、あと3パターンほどポーズを決めてニヤニヤする。

 準備オッケー。さあ、いよいよ、夜夕代ちゃんの一日が始まるぞ~。昨晩和音が閉めた部屋のカーテンを全開にする。

吹き付ける風。土砂降りの雨。うわ~、マジっすか。ちょー最悪。こんな日に学校行くの嫌だな……。ところが、私が心中でそう愚痴った同じタイミングで口からこんな言葉が零れた。

「雨ふらばふれ  風ふかば吹け 気にしない気にしない」

 え、なに、このセリフ?

 はは~ん、おおかた和音あたりが直近で仕入れた知識だわ。私たち三人は、オツムの出来に個人差はあるけれど、誰かが記憶した知識や情報はある程度共有することが出来る。誰の名言か知らないけれど、なかなか素敵な言葉だわ。今度は、さっきより大きな声でしっかりと発声してみる。

「雨ふらばふれ  風ふかば吹け 気にしない気にしない」

 不思議~ん、心が晴れる~ん。


「夜夕代~。朝御飯が出来たわよ~」

 あ、ママが、台所から私を呼んでいる。

「おはよう、ママ」

「おはよう、夜夕代」

 台所に入ると、夜の仕事から帰り朝食の支度を終えたママが、私に勢いよく飛び付いてハグをする。

「………………………………ね、ねえ、ママ。ハグ長すぎ。いい加減に離して。はやく朝ご飯を食べないと、学校に遅刻しちゃう」

「あ、ごめんごめ~ん。夜夕代を抱きしめていると、つい時の経つのを忘れちゃうのよ~。こいつめ。可愛すぎ。罪な娘じゃ」

 そう口を尖らせて、ママが私のオデコを白く美しい人差し指でツンと突く。

 イスに座ると、ママがテーブルに炊き立てのご飯と温かいお味噌汁を並べてくれる。焼き魚の小骨も丁寧に取り除いてくれる。そして、私が食べるところを見ながら頬杖をついてニコニコと話しかけてくる。

「ねえ、夜夕代。この間、ジャスオンで、あなたに似合いそうなお洋服を見付けたの。でも、サイズがちょっと微妙だったから買わなかったのよ。今週の土曜日は、あなたが体を使う日でしょう? ママと一緒に買い物に行って、そのお洋服を試着しましょう。どうしても、あなたに着て欲しいの。絶対に似合うと思うから」

「うん。嬉しい。いつもありがとう、ママ」

 ママは、私が頼んでもいないのに洋服をたくさん買ってくれる。靴もたくさん買ってくれる。化粧品なんか、多すぎて困るぐらい買ってくれる。

……嬉しいんだけどね。すごく嬉しいんだけれど……

 ママは、いつだって自分が私に着せたい物を買う。履かせたい靴を買う。使わせたい化粧品を買う。私の好みは一切聞いてくれない。私が望むものは買ってくれない。私、着せ替え人形じゃなんだけどな……。

 次はあそこへ行こう、その次はどこへ行こうと、いろんな場所に連れて行ってくれる。でもそれは、ママが行きたい場所であって、私が行きたい場所ではない。一緒にお出かけをすると、ママは私が迷子になるのが心配で、私を片時も自分の側から離そうとしない。私、ママの所有物じゃないんだけどな……。

 ママは「夜夕代がやりたいことは、何でも叶えてあげたい」と笑顔で言ってくれるけれど、先日、クラスメイトの尾崎地図子ちゃんとカラオケに行きたいと初めてお願いをしたら、一瞬で表情が険しくなった。

「ただカラオケに行くだけではないのよ。ちゃんと図書館で勉強をした後に行くんだよ。地図子ちゃんは、悪い子じゃない。学年一の優等生。普段から私を助けてくれる、とても良い子。ね、だからお願い、この通り、私をカラオケに行かせて!」

 としつこくお願いをしたら――

「ふ~ん、まあ、夜夕代が行きたいなら、勝手に行けばあ」

――と、眉間にしわを寄せて、しぶしぶオッケーしてくれた。ママは強い愛で私を愛してくれる。私がママを大好きなのも噓じゃない。嬉しいんだけどね。すごく嬉しいんだけれど。ああ、贅沢な悩み。

「ねえ、ママ。聞いていい?」

「なあに、夜夕代」

 きゅうりのお漬物をポリポリと頬張り、私はママに何気ない質問をする。

「パパってどんな人だったの? ママの愛した人は、いったいどんな人だったのかな~って、ふと気になって」

 パパのことを、私はあまり知らない。パパは、櫻小路建設という地元では有名な建設会社の社長だったらしい。でも、今から十七年前、労働災害事故で死んじゃったの。

 この家には、パパの写真や遺品が残っていない。ママは、つい最近までたくさんの男の人とお付き合いを繰り返していたから、家に死に別れた夫の写真があるのは、何かと都合が悪かったんじゃないかな。

「いい男だったよ。すこぶる仕事が出来る人でね。すべて自分で考えて、すべて自分で判断をして、あらゆる責任を自分一人で抱え込んで……妻として尽くせるだけ尽くしたという自負はあるけれど、本当はもう少しこちらの意見も聞いて欲しかった。もっと手助けをさせて欲しかった。まあ、何の不自由もない生活をさせてもらったから、感謝しかないけどね」

「へ~。じゃあさ、パパは、私と愛雨と和音の三人のうち、誰に一番似ている?」

 この質問を聞いた途端、ママは露骨に不機嫌になった。「ねえ、ママ? 私、何か気に障ること言ったかなあ?」あとは何も言わず自室に籠り、寝息を立ててしまった。

 ふ~ん、ママの態度でじゅうぶん分かった。パパって、コワモテだったんだ。よかった、私は美人のママ似で。てことは、愛雨は、パパの顔とママの中間って感じかな。


そんじゃあ、私が愛雨の体を訪れるまでのことを話すね。小難しい話だから、上手く話せるか分かんないけど、許してね。

 私と、愛雨と和音は、三つ子なの。今から十七年前の、平成十九年の八月十五日に、私たちは、三人揃ってこの世に生を享ける筈だっだ。でも、ママのお腹から出て来たのは愛雨だけ。私と和音が現実世界の地を踏むことはなかった。

 でね、昨日まで母親のお腹にいた三人の胎児のうち、二人が忽然と姿を消したという異常事態に、ドクターは、はじめのうちこそ懸命に原因を究明していたみたいなんだけど、何の手がかりも掴めない日々を過ごすうちに、三人の胎児がいたというのは誤診だったという苦しい言い訳をはじめた。挙句の果てには、そもそも三人の胎児がいたという記録すらはじめから無かったと断言した。はあ? 信じらんない。有り得ないんですけど。

 でも、どれだけドクターが煙に巻こうとしても、実際に三つの命をお腹に宿したママは納得をしなかった。いなくなった二人の赤ちゃんは、何かしらの事情で一時的に姿を消しているだけで、いつか必ず自分の前に姿を現す、本能的にそう確信をしていた。

 ママの信じた通り、私は消えて無くなったわけではなかった。肉体を持たぬ「意識」として、この十七年間生きていた。愛雨の体の側を付かず離れず、空中を、ぽわ~ん、ぽわわ~ん、と漂っていたのよ。

 今でも非番の日の私は、宙を舞う意識となって愛雨の生活を観察している。でもどういうわけか、私より先にこの現実世界に舞い降りた和音の生活を見ることは出来ない。せいぜい日付や時間の経過を感じるぐらい。

 和音が私の生活を観ているのかは知らない。私が見えないのだから、たぶんあいつも見えないと思う。そして、あいつも愛雨のことだけは見えているような気がする。

 ぽわ~ん、ぽわわ~ん、と漂う「私の意識」と「和音の意識」が、空中でお互いを認識したり、会話をしたりしたことはない。私たちは、愛雨のことだけを一方通行で見ていると思う。

 以前私が「僕と俺と私のノート」で、それとなく愛雨に探りをいれたら、彼は「自分の番が回って来るまでの二日間の記憶が何もない」と言っていた。つまり、愛雨は、非番の日に私や和音の生活を見ることが出来ないってこと。

 こう考えると、私と和音って、愛雨のオマケみたいで嫌だな。……なんか悲しくなってきた。楽しい話しよっと。

 えっと~、余談かもしんないけど、ついでに言っとくと、私ったら、肉体を持たぬ意識のくせして、すんごい早熟だったのん。私が人を好きになったのは、なんと五歳の時。初恋の相手? もち、愛雨の幼馴染の春夏冬宙也くんよ。

 武蔵塚の広場で遊んでいる子供の集団から、一人だけ仲間外れにされてションボリしている愛雨に「いっしょに遊ぼ―」って陽気に声を掛けてくれた太陽のような笑顔の彼。惚れちまうやろー。それから私は、彼だけを一途に想い続けている。我ながら純情な乙女ね。

 さてさて。そんな私が、愛雨の体を訪れたのは、今年の六月のこと。

 その日、愛雨は、クラスメイトたちと一緒に、掃除の時間に、放置されたプールの周囲の草むしりをしていた。

「おーい、愛雨ー。こっちも草がいっぱいになったから、回収に来てくれー」

 抜いた雑草を袋に詰めてまわる愛雨を、遠くから、クラスメイトが呼ぶ。

「りょうかーい。今行くー」

 とっすん。

 この時、何者かが背後から愛雨の背中を勢いよく押した。

え、なに? なにが起きたの? 

 突然の出来事に一瞬状況を掴み兼ねる。愛雨の体を付かず離れず漂う「意識の私」は、必然的に愛雨と共にプールの水上を舞った。わわわ。これって突き落とされたってこと?

 ゆるっせん。いったい誰じゃーい、こんなシャレにならんイタズラをするのは。後方に視線を送る。薄汚い緑色の水に呑まれる刹那、私は、愛雨の背後でほくそ笑む男を確かに観た。

――蛇蛇野夢雄。

愛雨のクラスメイト。いつも愛雨に陰湿な嫌がらせをする最低野郎。私、こいつ苦手。生理的に受け付けない。本能が敵だと叫んでいる。

 間髪入れず、激しい音と水しぶきを上げ、愛雨は水面に呑み込まれる。

 それから愛雨は――「誰か、助けて」バシャバシャ。ブクブク。「僕、かなづちなんだ」バシャバシャ。ブクブク――ってな感じで、なんだかもうギャグ漫画みたく分かりやすく溺れてみせた。ぷぷぷっ。笑ってる場合じゃないけどね、なんかウケる。 

 でさっ。話はここからなんだけどさっ。いよいよ愛雨の力が尽きて、ブクブクブクブク~って、プールの底に沈み始めた時に―― 

「落ち着け、愛雨。ボクが来たからにはもう心配ない。さあ、しっかりとボクに掴まれ」

 キャー。アタイの想い人、春夏冬くんが、勇猛果敢にも制服のまま冷たいプールに飛び込み、救出に来てくれたーん。

 片手で愛雨を抱え陸に向かって泳ぎ始める春夏冬くん。無我夢中で彼にしがみつく愛雨。愛雨の肉体から付かず離れず漂う「意識の私」。

 きゅん。やばーい。春夏冬くんの顔が、めっちゃ近っ。吐息すら聞こえるほどに。マ・ジ・で・イケメン。めちゃんこカッケー。非の打ちどころナッティング。

 あら、嫌だ。助が来たという安堵感からか、逆に愛雨の意識がだんだん弱まっているじゃないの。おい、こら、愛雨、死ぬな。死んだら承知しないからね。あんたが死んだら、私の意識も消えるじゃない。待ちに待ったミートザ春夏冬くんタイムが終わっちゃうじゃない。儚き陽炎のごとき愛雨の意識に相反し、私の意識のボルテージは最高潮。はち切れんばかり。

――て言うか~。よくよく考えたら、今ならこいつの体、余裕で乗っ取れるんじゃない? 今このタイミングでこの体を支配出来たら、私、春夏冬くんにいきなり急接近の巻きじゃない? 視線、吐息、体温、匂い、アタイが独り占めじゃない?

――どうする? 現実世界、行っとく?

――あ、愛雨が気を失う。やばい。

――行こ。行くっきゃないよ、私。恋のチャンスは今。今でしょ。

「……春夏冬くん、大好き」

 私は、プールサイドで春夏冬くんに抱きかかえられていた。助かった。彼が私を救助してくれた。めちゃんこ近い彼の顏。硬い胸板から伝わる彼の鼓動。びしょ濡れの制服だけを隔て密着する肌と肌。感じるよ。あなたの視線。吐息。体温。匂い。生きている。私は生きている。

 ゲボッ。ゲボッ。ゲロゲロ。嫌というほど飲んだヘドロ臭いプールの水が、腹の底からコンコンと湧き出て来る。いや~ん。最悪~。せっかく春夏冬くんにお姫様抱っこされてるのに、私、ゲロってる~。

「大丈夫か、愛雨」

 違うよ、春夏冬くん。私は、愛雨じゃないよ。

「……春夏冬くん、大好き」

「しっかりしろ、愛雨。え、何? よく聞こえない。何だって?」

「……春夏冬くん、大好き」

 長かった。五歳からの恋だった。ずっとこの瞬間を待っていた気がする。もうろうとする意識のなか、まるでうわ言のように、私は彼に告白をした。

 騒然としていたプールサイドが徐々に落ち着きを取り戻し始める。

「あれ? 見てよホラ、愛雨の髪。濡れているから分からなかったけど、色が変わってない?」

 すると、春夏冬くんに救出された私を取り囲む人だかりの中の一人が肉体の異変に気が付いた。

「本当だ。金髪になってる」

 生徒たちが、また騒ぎ始める。

「和音に入れ替わったんじゃね?」

「違うでしょう。和音くんはいつも黒い長髪を後ろで縛っているわ」

「じゃあ、こいつ誰だよ。おいおい、また愛雨に別の人格が現れたんかい。もう勘弁してくれ。ややこしくて仕方がない」

「て言うか、アタシ、もっとすごいこと気付いちゃった。はだけたシャツの隙間から見えているの、あれって、オッパイじゃない?」

「マジ? うおおおお、本当だあああ。おい、みんな見ろ、愛雨が巨乳になったあああ」

「エロっ」

「こいつ、女?」

「オカマじゃね? 男のシンボルあるっぽいぜ」

「ぎゃははは。女の腐ったようなやつが、オカマになった」

「ヤバっ」

「キモっ」

「ヤバっ」

「ゲイっ」

「ヤバっ」

 クラスメイトたちが、私を指差し、寄ってたかって罵声を浴びせてくる。え、なに、めちゃくちゃ言いたい放題言われてるんですけど。なんで。マジで意味分かんない。私、あんたらに何かしたあ? 

「ちょっと、みんな、そんな言い方やめなよ。言われる側の気持ち少しは考えなよ」

 黒縁の眼鏡をかけた女子生徒が、周囲を厳しく注意する。

「地図子ちゃん。お願い。保健室から林檎先生を呼んできて」

 春夏冬くんが、その子に指示を出す。この女子生徒は、いつも愛雨を助けてくれる尾崎地図子ちゃん。

 この時、私をお姫様抱っこする春夏冬くんとバッチリ目が合った。びしょ濡れの彼が、びしょ濡れの私を見て首を傾げている。いよいよ彼も異変に気が付いたみたい。

「君、愛雨じゃないね。かと言って和音でもない」

「……春夏冬くん、大好き」

「ねえ、君。君はいったい誰なんだ?」

 しばらくして地図子ちゃんが保健室の先生を連れて来た。春夏冬くんが抱いていた私を労わるようにプールサイドに立たせる。

 保健室の先生が私の前に立つ。白衣を着た背の高い女性。まだ愛雨の側を漂う意識だった時、何度か廊下ですれ違っている。ショートボブのボーイッシュな美人。イケジョ。あらためて近くで見ると、すごく若い。おいくつかしら。

 てか、先生が到着するなり、私を奇異の目で見ていた野次馬どもが、蜘蛛の子を散らすように除草作業に戻った。この人、怖い先生なのかな。

 先生は、手にしたバスタオルで、私の髪をワシャワシャ豪快に拭き、顔をポンポン優しく拭く。それから少しだけ目を細めて私を見詰め、聞いた瞬間ハッとトキメくハスキーボイスでこう言った。

「保健室まで歩ける?」

「…………」

「歩ける? イエスオアノー、どっち?」

「…………」

「私、聞いている。あなた、答える。保健室まで歩ける? それともタンカが必要? それとも救急車呼ぶ?」

「……自分で歩きます」

「オッケー。ついて来なさい」

 先生が、私の肩にバスタオルを掛ける。私たちは歩き始める。十メートルほど歩いたところで、背後から男子生徒の歓声と女子生徒の悲鳴が聞こえた。振り返ると、春夏冬くんが濡れた制服をその場で脱いでいる。上着を脱ぎ、ズボンを脱ぎ、しれっとパンツを脱ごうとしたところで「キャー、春夏冬くん、やめてー。公然わいせつ罪―」と地図子ちゃんに阻止されていた。半ケツ見えてた。

誰もいない保健室に先生と入る。

「派手に溺れたみたいね。調子はどう? 気分が悪いとか、頭がクラクラするとか」

「水もたくさん吐いたし、もう大丈夫っぽいです」

「そう。なら良かった。実際プールサイドで何があったの? 転んだの? 誰かに突き落とされたの?」

「……それは、今答えたくありません」

「あらそう。じゃあ答えなくてよろしい。また別の機会に話せたら話しましょう」

 クラスメイトの蛇蛇野夢雄が愛雨を背後から突き落としたことは、この場ではあえて黙した。何となくややこしい話になりそうな気がしたから。

「さあ、先ずはその濡れた服を脱ぐわよ。この保健室にはね、制服を派手に汚したり破いたりした生徒のために着替えの制服を常備しているのよ。ほらそこ、それっぽいサイズのものを、どちらも揃えたから、好きな方を着なさい。それから、借りた服は、クリーニングしろとまでは言わないけど、ちゃんと洗濯をして返してね」

 先生は、びしょ濡れの私を、保健室の隅のベッドの近くに立たせると、ベッドを囲むようにL型に曲がったカーテンをシャッと勢いよくしめた。机の上に、男子生徒の上着とズボン、女子生徒の上着とスカートが、並べて置いてある。わ、下着まである。私の手は、おのずと女子生徒の制服に伸びた。

「着替えました」

「オッケー。じゃあ、こっちに来て」

「…………」

「ほら~、何を恥ずかしがってんの~。さっさと出てきなさ~い」

 カーテンを少しだけ開け、私は、女装した姿を、恐る恐る先生に見せた。

「あら、ジャストサイズじゃ~ん。ちょっと小さいかなと心配したけど、ピッタリで良かった。さあ、この椅子に座って――」

 先生は、私を奇異の目で見ることなく、そこにわざとらしさを微塵も感じさせない対応をした。私たちは、問診をする机に並んだ丸椅子に腰を掛ける。

「さあ、これから、先生と少しだけお話をしましょう。私、あなたのことをたくさん知りたいの。とは言うものの、一方的に質問攻めをするのはフェアじゃないから、先ずは先生から自己紹介をするね」

「…………」

「私の名前は、一里塚塚林檎。この学校の養護教諭です。生徒の健康管理、ケガや病気の救急処置、健康相談や心のケア、保健教育などの仕事を日々行っています。養護教諭養成課程のある大学を卒業して、すぐこの学校に赴任しました。年は二十三歳です」

「…………」

「な~んて堅苦しい話はつまらないかな? それじゃあ、あなたが興味を示しそうな話をするね」

「…………」

「カミングアウトします。私こと一里塚林檎はノンバイナリーです」

「…………ノンバイナリー?」

「お、嬉しいな。こちらの話にやっと反応してくれたね。そう、私はノンバイナリー。ノンバイナリーとは『男性・女性どちらにも当てはまらない、あるいは当てはめられることに違和感を覚える人』のこと。性自認と性表現を、女か男かの2択で分類しない。日によって男だと感じるときもあるし、女だと感じるときもある」

「……先生は、男性でも女性でもない人なの?」

「体の仕組みは女性です。でも、心はどちらにも当てはまらない。当てはめたくない」

「生きづらくない?」

「そりゃあ、幼い頃は悩んだり自分を責めたりしたこともあったよ。でも、自分の心の扉を叩いて『あなたは、男ですか、女ですか?』と尋ねると、いつだって部屋の中から『そんなのどっちでもいいじゃ~ん』という声がする。あ、ちなみに今の『そんなのどっちでもいいじゃ~ん』というセリフは、私の心の部屋に住んでいるジョゼフとエマニュエルと言うフランス人のカップルが、シャンソンの調べに乗せて歌うんだけどね」

 あなたの心の部屋にはどんな人が住んでいるのかしら。先生、すごく興味があるな。そう言って林檎先生がニッコリと笑う。つい私の顔もほころんだ。

 それでは、今度は、あなたのことをいろいろ聞くね。先生の質問に答えてね。ただし、答えたくない質問には答えなくてよろしい」

「…………」

「あなたは、愛雨くん?」

「……違います」

「あたなは、和音くん?」

「……違います」

「では、あなたは誰?」

「……分かりません」

「名前は?」

「……知りません。現段階でお伝え出来ることは、私は、この十七年間、ほんのつい先程まで、櫻小路愛雨の側を付かず離れず漂う『意識』だった。その『意識の私』が、溺れて苦しむ『愛雨の意識』がいよいよ消えかかるタイミングで、彼と入れ替わった、ということだけです」

「なるほど、愛雨くんの体に、第三の人格が出現したってことね」

 林檎先生がカルテらしき用紙に、なにやら細かくメモをしている。

「それでは、先生からあなたにお願いがあります。私は、あなたのような人には誰よりも理解があるつもりです。その上でお願いします。この手で、あなたの体に触れさせてほしい。体の変化を確認させてほしい。もちろん、駄目なら断ってくれて結構よ」

「……大丈夫だと思います」

「それは、触ってよいという答え?」

「はい」

「では、まず、胸を触るね。ちょっと掴むよ?」

 先生の右手が、私のオッパイを優しく掴んだ。

「……本物だ。では、次に、股間に触れるよ。こちらも軽く掴むね?」

 同じ手が、今度は私の性器に触れた。

「……ある。こっちも本物だ」

 それから、林檎先生は、しばらく熱心にメモを取り続けた後――

「では、最後の質問です。あなたは男? それとも女?」

――と質問をした。

「女です」

 これだけは食い気味で答えた。

「了解。これで質問はおしまい。今日はもう下校をしなさい。それでは、これから保護者に連絡を取り、あなたを迎えに来てもらいます。ここでもう少しだけ待っていてね」と言い残し、林檎先生が保健室を出て行く。そして、しばらくの後、戻ってくると、私に向かって開口一番こう叫んだ。

「夜夕代~。お母さんが今すぐ迎えに来てくるってさ~」

「夜夕代?」

「そう、櫻小路夜夕代。これがあなたの名前。あなたのお母さんが教えてくれた。お母さん、受話器の向こうで『この日をずっと待っていた。きっと現れてくれると信じていた』と泣いて喜んでいたわよ」

「……そうですか」

「ねえ、夜夕代。さっきから何をそんなに塞ぎ込んでいるの?」

「……だって、さっきプールサイドで、みんなが私のことをバケモノみたいに……こんなことなら意識の世界を飛び出して現実世界になんか来るんじゃなかった……」

「な~んだ。何を悩んでいるかと思えばそんなことか。あのね、夜夕代。私のような立場の者が生徒の容姿をとやかく言ってはいけないから、ここだけの内緒の話にしておいてほしいのだけどさ」

「……はい。なんですか?」

「言っておくけど、あなたは、すんげ~美人」

「……え?」

「世の中には、様々な美人がいる。個性的な美人。見方によっては美人。メディアが作り上げた美人。嫌味な美人。でも、あなたの美しさには、街ですれ違う者の十人中十人が振り返る。そうあなたは、完全無欠、非の打ちどころのない美人。嘘じゃない。先生が保証する」

「……でも」

「デモもヘッタクレもない。周りの目なんか気にするな。あなたは美人。さあ、胸を張れ。堂々と前を向いて生きてやれ」

 この時、林檎先生のこの言葉で、私の中の何かが弾けた。

「どっひゃ~。ででですよね~。そう、私は美人。パーフェクト。完全無欠。いや~、そうじゃないかと思っていたの。うっひょ~。テンション爆上がりい。よっしゃ~、この美貌で愛しの春夏冬くんのハートをスッコーンと射抜いてやるわ~ん。待ってろよ~あきない~。ぐししししぃ」

「……夜夕代ちゃん。ま、まさか、それがあなたの地のキャラ?」

「そうどえ~す。いつも元気な夜夕代ちゃんどぅえ~す」

 林檎先生が、頭をポリポリと掻きながら困惑している。いや~ん、そんな顔しないで~。私、すっごく嬉しかったんだからね、涙がチョチョ切れるほどに。ホントだよ、林檎先生。マジでアリガトね。

 それから私は、ママの指示のもと、ひとつの体を、私と愛雨と和音の三人でシェアする生活をはじめた。

 血の池高校の生徒には、申し訳ないぐらい簡単になれちゃった。ひとつの体に複数の人格が共存する生徒を受け入れるか否かとか、そこら辺の難しい諸問題は、和音が通学をする際にほぼ解決済みだったから、私の時は大した話し合いもなく、学校側も『ああ、また一人増えのですか。致し方ないですね。ど~ぞど~ぞ』ってな感じで許可をしてくれた。

 もちろん、それに伴って学校側からいくつか細かな制約が提示された。え~っと、そんじゃ、この機会に、和音の時に既に提示されていた条件、及び私の時に追加された条件、両方をまとめて下記に記すわね。以下、箇条書き。

① 登校した人格は下校まで変えない。配慮無き人格の入れ替えは、校内に混乱を招く。

②登録上は一人の生徒として扱う。登録者は、本校を受験し合格した櫻小路愛雨。性別は本人の住民票や戸籍の表記に則り、男とする。

③中間・期末テストの受験者も、扱いとしては一人。各学科の試験日に登校をした者が代表して試験を受験する。

④従って通知表などの成績も三人に一人分の評価を与える。評価の名義は櫻小路愛雨。

⑤学校側は、日常生活における三個人の性別・性格・学力の違いは、出来る限りの配慮をする。三個人においても、くれぐれも学校運営に支障をきたす行動は慎むこと。

 これだけ読むと、私と和音って、愛雨の付属品感ハンパ無いっしょ。まあ、どれだけ不平不満を垂れたところで、私たちの体はひとつなのだから、しゃ~ないんだけどさ。でも、なんかこう、イラッとする扱いなのよねえ。いや、分かってんのよ、登校させてくれているだけで有難い話だってのは重々承知してんの。だけどさ、う~ん。


 さあ、もう家を出ないと学校に遅刻しちゃう。ママを起さないよう静かに家を出る。土砂降りの雨の中を透明のビニール傘をさして登校する。

「夜夕代、オハヨ~、久ぶり~」

「地図子ちゃん、逢いたかったよ~、オハヨ~」

 授業開始前の教室に入ると、仲良しの尾崎地図子ちゃんが、元気いっぱいに声を掛けてくる。「キャー」と奇声を上げて抱きついちゃう私。だって、私が前回この体を使ったのは日曜日だったから、こうして学校に来るのは先週の木曜日以来。かれこれ六日ぶりなのだ。

「ねえ、夜夕代、聞いてる? 春夏冬くん、空手の遠征合宿とかで今日まで欠席だよ」

「ええええええ。聞いてない、聞いてない、聞いてないよおおおお。うおおおん」

「あらあら、なにも泣くことはないじゃない」

「だって、私が次に体を使うのは土曜日だよ。学校が休みだからまた逢えないじゃん。その次に体を使えるのは来週の火曜日。それまでダーリンおあずけじゃん。無理い。耐えられない。禁断症状出る」

「やれやれ、夜夕代は本当春夏冬くんのことが好きなのね」

 地図子ちゃんが私の頭をヨシヨシと撫でながら、慰めてくれる。

 私たちが体を使う順番は厳しく決められているの。愛雨→和音→夜夕代。原則としてこのローテーションを崩すことは無い。三人が体を使いたい日の希望を出してシフトを組むなんて到底無理な話だし、各自の判断で譲ったり譲られたりを良しとしちゃうと、キリが無いでしょう? だから公平を期すためにも、ローテーションを事務的にカレンダーに当てはめて、それを厳守している。

 一限目の国語の授業が終わった。二限目の体育の授業を受けるため、女子生徒は授業と授業の間の休み時間に、女子更衣室に行って体操服に着替えねばならない。

「夜夕代、一緒に着替えに行こ―」「夜夕代、ほら、早くしな、休み時間が終わっちゃうよ」「うん、行こ―、行こ―」私は、体操着の入ったナップサックを抱えて、地図子ちゃんをはじめてとする三~四人のいつもの仲良しグループで女子更衣室へ移動をする。

「ちぇ。いいよな~、夜夕代は、女子の裸がタダで見れて~」「だよな。なんで夜夕代は女子更衣室に自由に入れて、俺たちは駄目なの。不公平じゃんなあ」

 教室で体操服に着替え始めたアホ男子どもの声が背後から聞こえてくる。

「でも僕、ぶちゃけ、タダで見られるのなら、夜夕代の裸でもオッケーだけどね」「あ、俺も」「俺も。あいつ美人だし」「だし、ナイスバディだもんね」「てか、みんなで真剣にお願いしたら、夜夕代ちゃん、チラッと見せてくれるんじゃね?」「お願いしてみる?」「してみるか?」「それこそお願いをするのはタダだし」「だな、ここはひとつダメもとで」

 野郎どもは横一列に並び、パン! パン! 私に向かって二拍手をして手を合わせると、あろうことか一同声を揃えて――

《夜夕代ちゃん、オッパイ見せて!》

「ん誰が見せるかああああ、このスカポンタああああン。私は女よ。女子更衣室で着替えるのは当たり前でしょうが。私は女子高校生よ。オッパイ見せろだあ? 通報したらあんたら全員ブタ箱行きだぞ。禁固10年の刑だぞ」

 順番にぶん殴ってやりたい気持ちをグッと抑えて私は女子更衣室に向かう。は~、まったく男子ときたら、どいつもこいつも、バカアホエロ。

「ねえ、夜夕代、おトイレついてきて~」

「うん、いいよ~。私もオシッコしたかったから~」

 更衣室へと向かう途中で、地図子ちゃんと女子トイレに立ち寄る。

 ペチャクチャと雑談をしながらトイレに入ると、室内には他のクラスの女子生徒が集団でたむろして通路を塞いでいた。彼女たちの中の一人が私を見るなり反射的に「キャッ」と短い悲鳴を上げる。

「あの~、通れません。通路をあけてもらっていいかな? 私と彼女はここで用を足したいの」

 地図子ちゃんが、他のクラスの女子生徒の悲鳴の意味を敏感に察し、私に対するこれ以上の侮辱をあらかじめ抑制するかのようなキツい態度でそう言った。

「いや、でも、この子……」「うん、この子は男子トイレに入るべきじゃない?」「確かに、平然と女子トイレって、あり得ないっしょ」「犯罪だよね」

 他のクラスの女子生徒たちが、はたして私に向けて言っているのか、それとも地図子ちゃんに向けて言っているのか、それとも内輪でただ囁き合っているのか判断をし兼ねるトーンで話し続けている。

 さっきの男子生徒の私に対する偏見なんてまだまし。なんだかんだ言って毎日同じ教室で集団生活をしているだけに、それなりに私への理解と配慮がある。でも他のクラスの生徒の中には、いまだに私を異形の者として見る人が多い。これが現実。

「あら、呆れた。時代遅れもはなはだしい。あなたたちの脳内ってウホウホ前夜ね。現代が多様性の時代だってことご存知? LGBTQって言葉知ってる?」

 短気な地図子ちゃんが、アクセルをふかし真っ向から抗弁をする。

「もういいよ、地図子ちゃん、やめて」

 私は、地図子ちゃんに、そっとブレーキをかける。

「いや、でもさ」

「いいのよ。慣れているから。こんなことは日常茶飯事。ねえ、そこでお喋りしてるみんな、驚かせちゃってゴメンね。本当にごめんなさい。私が男子トイレに入れば解決することだもんね。うん、だから、私、そうするね」

 引き留める地図子ちゃんを振り切り、女子トイレを飛び出す。

――意を決し、お隣の男子トイレへ。

 中をチラリと覗き、人の気配を確認する。誰かいる? いない? よし、誰もいない。今がチャンス。忍者のように男子トイレに忍び込み、サササと小走りで個室まで直行し、内側から速やかに鍵を掛ける。

 本当は、職員室の前にあるバリアフリートイレに入りたいところだけど、そこまで走っていたら、もう体育の授業に間に合わないもんね。

 洋風便器に腰を掛け、出来るだけ音をたてないように用を足す。――その時、乾いた機械音。

 パシャ。

……なに、今の音? スマホのシャッター音?……え、怖い。まさかね。個室の向こうの気配を察する。

 静寂。

 誰もいない……よね。

 気のせい……だよね。

 さあ、急がなきゃ。体育の事業に遅れちゃう。静かに用を足し、出来るだけ小さく流れるように慎重に洗浄レバーの下げ、ふたたび忍者のようにそ~っと個室のドアを開けたら蛇蛇野夢雄が立っていた。

「あれ~、夜夕代ちゃ~ん、こんにちは~」

 個室の前に不自然に立ち尽くしている。こ、声が出ない。ま、ま、ま、マジで心臓止まるかと思った

「奇遇だね。オシッコかい? 僕もオシッコさ」

 まじキモいんですけど〜。全身に鳥肌。身震い。

「まさか、あんた、撮った?」

 歯を食いしばって恐怖を振り払い、がんばって声を絞り出す。

「なんのこと~?」

 不敵な薄ら笑い。

「今日は珍しく正面に立つんだ。いつもなら背後から不意をつくのに」

「え?」

「……プール……張り紙」

「え? え? え? どういうこと? なにが?」

「あら、ごめんあそばせ。深い意味はナッティング。忘れて忘れて」

 蛇蛇野に背を向け、颯のように男子トイレから脱出する。かろうじて平然を装ったが、めちゃんこ怖かった。全身に冷汗。奥歯がガチガチ鳴っている。足が震えてマトモに走れない。ななななんて日だ。愛しの春夏冬くんは休みだし、男子どもにエロいこと言われるし、他のクラスの女子に差別をされるし、挙句の果てに男子便所で蛇蛇野と遭遇するし。んもおおおお、最悪の一日。 

 私の足は、自然と運動場ではなく保健室へ向かう。もう無理。体育の授業はキャンセル。保健室の扉を開けると大好きな林檎先生が机で書類と睨み合っている。

「あら、夜夕代。どうしたの?」

「林檎先生。お願い。少しだけベッドで横にならせて。頭が痛い。熱っぽい。気分が悪い。症状は、この中から先生が好きなのを選んでちょうだい」

「またかいっ。んも~、困った子だね。具合がよくなったら必ず授業に出るんだよ。担任の田中先生には、私からそれなりに報告をしておくね」

 林檎先生は、いつもこんな感じ。私が保健室にエスケープをすると、あえて細かな詮索はせず、かくまってくれる。

 結局、午後の授業を全て欠席し、保健室のベッドでずっと横になっていた。

 下校をする。夜まで一人でテレビを観る。お腹が減ったのでママが作り置きしたご飯を食べる。お風呂に入り、自室のベッドでまた横になる。うつ伏せになり「僕と俺と私のノート」を開く。愛雨と和音がメッセージを残している。

『夜夕代へ カーテン閉めろ てか 風呂入れ』『夜夕代へ 気が向いたら血の池公園にいる僧侶を散髪してやってくれ よろしく』二人に返事を書く。『愛雨へ うい~っす』『和音へ 僧侶? 誰よ? まあ いいけど そのうちね』

 仰向けになって天上を見詰め、私の今日一日を振り返る。世間は私みたいな人間に対する差別や偏見を無くすことを理想としているらしいけれど、現実はまだまだ。ああ、息苦しいったらありゃしない。

 閉め切った部屋のカーテンを全開にして、雨上がりのまばらな星空を眺める。こうして広大な夜空を眺め、その先にある無限の宇宙に想いを馳せると、鬱屈が和らぐ。なんだかなあ、宇宙はこんなに広いのに、世間の了見はなんでこうも狭いかなあ。

 その点、愛しのダーリン、春夏冬くんは、他の連中とは一味も二味も違うわ。彼の頭の中には差別や偏見という概念がまるでない。時にそれは彼の長所ではなく短所なのではないかと感じるほどに。 

 ああ、来週の火曜日がたまらなく待ち遠しい。彼とスタバのキャラメルフラペチーノが飲みたい。飲むもんね絶対にい。

「は~、春夏冬くんに逢いた~い」

 そう溜息をつき、やがて私は眠りに付いた。


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