第4話 俺は和音
令和六年、九月三日、火曜日。
目が覚めると、僕は、俺になっていた。
……俺だ。
性懲りもなく、俺が生息をしている。
かったり〜ぜ。今日も、どうしようもないこの俺が、このくだらない世界で、無意味な生命活動を開始するってわけだ。
俺の名前は、櫻小路和音。大久手市・血の池町にある進学校「県立・血の池高校」に通う高校二年生だ。
和音と言う名前は、俺の母ちゃんが付けた。意味は「モノゴトの終わり」だってよ。なーそれ。ちょーだせー。「お」を「を」と読ませるあたりのセンスを疑う。俺は、この名前が大嫌いだ。従って、俺は、他人にこの名を名乗るのがとても苦手だ。
ベッドから身を起すと、壁に立てかけてある姿見鏡の向こうから、獲物を狙う豹のような三白眼が、こちらを睨み据えている。こけた頬。歪んだ唇。気怠い表情。鬱陶しく伸びた髪を両手でかき上げ、ヘアーゴムで後ろで縛る。それから、昨夜愛雨の野郎が隙間なく閉めたカーテンを勢いよくひっぺかし、窓を全開にする。
曇天。生ぬるい秋風。呆れるほど中途半端な朝焼け。
俺のいる県営住宅の八階の自室の窓からは、商業施設と閑静な住宅街とが共存をするオシャレな街並みが一望出来る。
なんかよお、しばらく景色を眺めていると、自分がこの世界に存在していることが疑わしくなってくんだよな。なんつーか、俺が景色を眺めているのではなくて、逆に、景色に眺められている気になるっつーか。俺は無機質な物体。所詮は路傍の石コロ。つって生きている実感が希薄になるっつーか。
パジャマの裾をたくし上げ、昨日愛雨が貼った膝のバンドエイドを剥がし、治りかけていた傷を指先で執拗に擦る。
傷口から真っ赤な血液がジンワリと滲む。液体は寄せ集まって水泡となり、一筋の雫となって膝から流れ落ち、やがて白いシーツに一点のシミをつくった。
こうして膝小僧から滴り落ちる血液を凝視していると、生きている実感が何割か戻って来る。
「あ~~」なんつって、あえて声を発してみる。愛雨の覇気のない声とは違う、低くドスの効いた声。パジャマの上着を脱いで体をチェックする。ヒョロヒョロの愛雨とは違う、血管の浮き出た太い腕、分厚い胸板、割れた腹筋。
よし、俺だ。間違いない、今日は俺の番。俺の日だ。愛雨と自分の違いを確認することで、生きている実感を徐々に取り戻して行く。
俺たち三人は、人格が入れ替わる際に、変化する事としない事がある。人相は変わる。体格も変わる。声質、肌質、変わる。髪質は変わるが、伸びたり縮んだりはしない。身長も伸び縮みしない。体重も増減しない。三人うちの誰かが患った病気や怪我が消えることはない。持って生まれた知能に差はあるが、記憶した情報は共有をすることが出来る。
要するに、質は変わるが量は変わらないってことだろう。
ぐーーー。不意に腹が鳴った。間抜けな音。あはは。滑稽だぜ。生きている実感が希薄だろうが何だろうが、無条件に腹は減りやがる。これぞ生きている実感ってか。あはは。マジでウケる。
ベッドから下り、両手を上げてつま先で立ち、くーっと背筋を伸ばす。そして、そのままの姿勢で――
「空腹。生命維持。朝飯」
――と単語をつぶやいた時、にわかに人の気配を感じ、体が硬直する。
「……何だよ、母ちゃん。気味がわり~な」
櫻小路麗子。俺の母ちゃんが、部屋の襖を少しだけ開け、亡霊のように立ち尽くし、こちらを覗いている。
「びっくりするじゃねーか。息子の部屋を勝手に覗いてんじゃねーよ」
「…………」
無言。こちらに冷淡な目を向けている。
「おい、何か用か?」
「…………」
「何かしゃべれ。何で黙ってんだよ」
「…………時計」
「……時計?」
「おたく、その目覚まし時計、いつになったら止めるつもり? うるさくてたまりません。大変迷惑です」
ジリリリリリリーー。
「……あ。本当だ」俺は枕元の目覚まし時計のベルの音を、たった今意識した。どうやら、このベルの音で目を覚ましておきながら、止めるのを忘れていたらしい。時計の針は、六時十五分を指している。この目覚まし時計は、通常六時に鳴るように設定されているから、つまり十五分間鳴り続けていたことになる。俺は時々このように注意が散漫になる。
ジリリリリリリーー。
「わりーな。うわの空だった」
ジリリリリリリーー。
「うわの空? あら、嫌だ。どこのお空を飛んでいらしたの? この目覚ましの音、騒音レベルよ。信じられない。可哀そう。怒りを通り越して、むしろ哀れみの気持ちが湧いてくる」
ジリリリリリリーー。
苦言を呈する母ちゃんはガン無視。ジリリ……。落ち着いて目覚まし時計を止める。それから、嫌味なお説教を遮るように、俺は母ちゃんに話しかける。
「てか。俺の昼飯代。五百円。ちゃんとテーブルの上に置いてくれただろうな? あんた、時々忘れて、部屋で爆睡しちまうだろうが。金が無けりゃあ、俺はその日学校で昼飯抜きなんだぜ。あ?」
「人を毒親扱いしないでいただけますか? 言っときますけど、私は愛雨と夜夕代には、毎朝心を込めたお弁当を作っています。そもそも、少し前までは、おたくにだってお弁当を持たせていました。それを、おたくは、やれピーマンは入れるなだの、やれおかずのバリエーションが少ないだの、やれ売店のパンのほうがましだのと文句ばかりつけて。かわいく無いったらありゃしない。正直なところ、五百円くれてやるのも惜しいぐらいです」
「おい、くそババア。それが息子に対する態度か。あ?」
「は~い、くそババア、いただきました~。ドラマでしか聞いたこのないセリフ~。真顔で言うやつ、はじめて見た~」
「てめえ。俺はなあ、こんな家いつ出ていやってもいいんだぜ。あ?」
「あら、嫌だ。まさかの家出宣言。ふん。愛雨や夜夕代と体をシェアしている分際で、やれるものならやって下さい。それでは、ごめんあそばせ。おやすみなさい」
そう吐き捨てると、建付けの悪い襖をカタカタと閉め、母ちゃんは自室で就寝をした。
「ガッデム。ファッキン。サノバビッチ」と、去り際の背中に罵詈雑言を浴びせる。一人きりの台所で、冷蔵庫の中にある適当に喰えそうな食材を漁さる。ハムエッグを作り、それと海苔の佃煮をおかずに朝食を取る。
母ちゃんは、俺の飯を作ってくれない。料理どころか、俺の着た服の洗濯すらしてくれない。まあ、俺が、母ちゃんの作った飯にいろいろ注文をつけ、その挙句自分で勝手に料理をしたり、母ちゃんが洗濯をした衣類の柔軟剤の臭いが嫌で、自分の服は自分の好みの柔軟剤で勝手に洗濯をしているから――と言われればそれまでだが。
そんな俺の身勝手を踏まえても、それでも母ちゃんは、俺の養育を放棄していると思う。俺は、愛雨や夜夕代と「僕と俺と私のノート」で毎日情報交換をしているから分かるんだ。母ちゃんは、愛雨にはやたら厳しいが、あれは期待の裏返し。夜夕代のことは、ただひとり女の子ということもあって、溺愛をしている。
それに比べて、この俺の扱いときたらもう……。きっとあの女は、俺のことが可愛くねえのさ。間違いねえ。俺を名前で呼ばず「おたく」という他人行儀な呼び方をすることからも、それは明白だ。当てつけのように敬語を使う行為に至っては、心の底から辟易しちまう。
思い返してみれば、俺がこの体を訪れた時、母ちゃんは、大粒の涙を流して喜んでくれた。俺を強く抱きしめて、しばらく離そうとはしなかった。あの頃と今では、母ちゃんは、まるで別人だ。ほんの数か月前のことなのに、遥か昔の出来事のように思える。俺はちょっとだけあの頃の母ちゃんが懐かしい。さて、ぼちぼち俺がこの体を訪れた時の話をするとしよう。さあ、どこから話そうか――
俺の生い立ちを、さかのぼれるところまでさかのぼってよいのなら、ぶっちゃけ、愛雨が生まれた時から、俺は「意識」として存在をしていたんだ。
浮遊する魂? 生き霊? フワリフワリと虚空を漂っている感じ?
赤ん坊のあいつが母ちゃんにオムツを替えてもらっている時も、保育園児のあいつが女の子に泣かされている時も、小学生のあいつが公園で仲間外れにされている時も、中学生のあいつがクラスメイト全員に無視をされている時も、俺は「意識」として存在をしていた。虚空から、あの弱虫のことを見ていた。
俺たちはいつも一緒だった。
あいつがひとつ歳を取れば「意識の俺」もひとつ歳を取った。あいつが言葉を話すようになると「意識の俺」も自分の気持ちを言語化するようになった。あいつが思春期を迎えれば「意識の俺」の性的エネルギーも増大し、大人としての自分を確立するために足掻いた。愛雨と俺は、共に成長をして来たのさ。
実のところ、愛雨と俺と|夜夕代の三人で体をシェアするに至った現在も、俺が体を使えない日、俺たちの用語でいうところの「非番の日」においても、俺は、愛雨の行動は、昔と変わらず見ることが出来ている。意識の俺が、ずっとあいつを見ているんだ。
ならば夜夕代が体を使っている日に、この俺が、あの小娘の行動を、愛雨と同じように見ることが出来るかというと、なんとな~くしか見えねえんだな~これが。見えていないわけじゃねえのよ。でも愛雨の時ほど鮮明に見えねえ。ボンヤリと霞が掛かったような映像。消え入りそうな声。せいぜい時の経過を把握できる程度。
このあたりの混み入った話を夜夕代としたことがねえから、あの小娘が俺のことを見ているのかどうかは知らねえ。でも、少なくとも俺は、非番の日に、あの小娘のことを薄らボンヤリとしか見られねえ。鮮明に見ることが出来るのは愛雨だけだ。愛雨の日々の行動は、しっかり把握出来る。
この件を愛雨に話したことはない。今後も伝える気はさらさらない。だってそうだろう? 生命の源はあくまで愛雨で、俺はそこから派生した付属品だと言うことを認めるようなものじゃねえか。なんかすんげ~癪じゃん。言えねえ。言えるわけがねえ。だからあいつは、いまだに俺に監視されていることを知らねえ。
じゃあ次は、俺が愛雨の体を訪れた時のことを話すぜ。
虚空を漂う「意識」だった俺が、満を持してこの現実世界の地を踏んだのは、今年の五月のこと。
あの日、愛雨は、業多という当時母ちゃんが付き合っていた男に、風呂場で殺されかけていた。母ちゃんは、中間テストの結果が芳しくなかった愛雨への折檻として、水を張った浴槽に愛雨の顔面を押し付けるという虐待行為を、業多に代理させていた。
俺は、その様子を虚空から冷ややかに眺めていた。
失望。嘲笑。つくづく情けねえ男。愛雨のことさ。「やめて下さい。許して下さい。お願いです。助けて下さい」業多が鷲掴みにしたあいつの頭を水面から引っ張り上げる度に、ビービー泣き喚きやがって。
愛雨がこの日この場所で窒息して死ぬのであれば、それならそれでよいと思った。あいつは生き物として弱過ぎる。弱い種は遅かれ早かれいずれ滅ぶ。これは自然の摂理だ。
涙と鼻水を垂れ流し苦痛に顔を歪める愛雨を、浴室の少し高いところから見下ろす。なんつーか、思い切り唾を吐きかけてやりたい気分。テメエはそれでいいんだな? そうやって無様にくたばるんだな? ふ~ん。あっそ。さいなら。
てか、こいつが死んだら、「意識の俺」も消滅するのかな? そんな疑問が一瞬頭を過ぎる。まあそれも、それならそれで、別にいっか。愛雨も、俺も、何もかも、消えて無くなりやがれ。生きることに執着したり、迫り来る死に怯えたりすることが、上手く出来なかった。だって俺は、体を持たぬ出来損ないの「意識」だったから。
折檻がはじまって十数分経過した頃、愛雨の生命力がガクンと弱まるのを感じた。あ、こいつ、死を覚悟したな。ふ~ん。あっそ。負け犬確定。俺はヘラヘラと笑った。
事態は最悪の方向に向かっている。
こうなってくると、気がかりなのは、あの女のこと。
業多の後ろで腕を組み、虐待行為の一部始終を黙って見ているあの女。あの女は、俺の母ちゃんだろう。胸に抱かれたことも、声を掛けられたこともないけれど、直感で理解をしている。愛雨の母ちゃんは、俺の母ちゃん。
馬鹿だなあ、母ちゃん。これ、ちょっとしたお仕置きのつもりだったのかい。いやいや、度を越してるっちゅーの。さすがにやり過ぎだっちゅーの。そりゃここまでやったら誰だって死ぬっちゅーの。あんた、このままじゃ警察に捕まるぜ。
てか、愛雨が死んだら、母ちゃん、悲しむだろうな。目の前で息子に死なれたら、もう二度と立ち直れないだろうな。何だかんだ言って、母ちゃんは愛雨に期待をしていたから。実に歪な愛だけれど、まあ、愛雨を愛していることに間違いねえから。
ったく、いったい誰のせいだよ。俺の母ちゃんを悲しませるのはどこのどいつだ。
――業多。
業多め。この反社まがいの豚野郎め。母ちゃんをたぶらかしやがって。母ちゃんを弄びやがって。母ちゃんを堕落させやがって。てめえのせいだ。てめえのせいで、母ちゃんはすっかり壊れてしまった。ムカムカする。無性に腹が立ってきた。だんだん怒りが込み上げてきた。
――殺す。
業多ぁ。俺の意識が、愛雨の体と共に消滅しようとも、てめえだけは地獄に叩き落としてやるぜ。
――でも、どうやって?
俺には、体がねえ。業多の糞野郎をぶちのめすための拳がねえ。畜生。誰かこの俺に体を貸しやがれ。
浴槽に顔を押し付けられ泣き喚いている愛雨の貧弱な体を眺める。
――こいつの体を乗っ取ることが出来れば……
愛雨の生命力がどんどん低下をしている。意識が遠のき、自我が薄まっているんだ。それに反して、俺の怒りは頂点に達している。意識は強さを増し、自我が高まっているのが分かる。乗っ取れるんじゃねえか、今なら。
――どうする? やるか? 現実世界へ行ってみるか?
――あ、やべえ、愛雨の意識が、今まさに、消える……
――もう悩んでいる暇はねえ! 今だ! 行け! 体を乗っ取れ!
「うおらあああ、この糞ッタレがああああ!」
次の瞬間、俺は、後頭部を掴む業多の腕を、地鳴りの如き唸り声と共に豪快に振り払った。昆布のように眼前にへばりついた濡髪を、両手ゆっくりとかき上げる。続けて、さっきまで弱虫だったガキの豹変ぶりに状況を掴みかねている業多の顔面を、振り向きざまに思いっきりぶん殴る。鼻血を流してその場にへたり込む業多。その後方でパニック状態の母ちゃん。
「こんなくだらねえ男と、いつまで付き合ってんだ、あ?」
「ぎゃー」
これが、初めて交わした親子の会話。
それから俺は、戦意を喪失した無抵抗の業多を、無我夢中で殴り続けた。
「母ちゃん、救急車」
「え?」
「聞こえなかったのか、こいつに救急車を呼んでやってくれ。やべ~よ。つい半殺しにしちまった」
業多が泡を吹いて気を失ったところで、俺は我に返り、呆然と立ち尽くす母ちゃんに指示を出した。
「……おまえ、和音だね」
すると、目に涙を溜めた母ちゃんが、俺を見詰めてそう言った。
「わをん? なんじゃそりゃ?」
「おまえの名前だよ。私は、おまえがお腹の中にいる時から、そう名付けるって決めていたのよ。おまえの名前は櫻小路和音。逢いたかったよ、和音、今日までどこに隠れていたのさ」
母ちゃんは、足元に倒れる業多のことなどほったらかしで咽び泣き、俺の体を強く抱きしめ、しばらく離そうとしなかった。
人を殴ると自分の拳も痛い。強く抱きしめられるとちょっと窮屈。母ちゃんの体は細くて柔らかい。母ちゃんの髪からいいニオイがする。生きている。俺は今、生きている。
「和音、お腹が空いていないかい? 何か食べる? 在り合わせだけど、今から母ちゃんが、ちゃちゃっと料理を作るよ。ちょっと待ってね」
業多が救急車で運ばれるのを二人で見送った後、母ちゃんは、俺に手料理を振舞ってくれた。狭い台所のテーブルに、目玉焼きとウインナーと白いご飯が並ぶ。今思えば、すんげ~質素な料理だけれど、現実世界で初めて口にした料理は、たまらなくウマかった。つい、ご飯を三杯もおかわりした。
それから母ちゃんは――もともと俺は三つ子として生まれてくる予定だったこと。それが出産の直前に、なぜか俺ともう一人が、忽然とお腹から姿を消したこと。でも、いつかきっと、こうして姿を現してくれる予感がしていたこと――などを俺に告げた。
そして俺も――愛雨が生まれた時から自分は「意識」としてあいつと共に成長をしていたこと。今日まで愛雨の生活をずっと虚空から見ていたこと。愛雨の意識が弱まり俺の意識が強まったタイミングで体を乗っ取り、晴れて現実世界の地を踏むことが出来たこと――などを母ちゃんに告げた。
日暮れのわびしい食卓。十七年間逢えなかった親子が、差し向かいで、ぬるいお茶をすすっている。
「なあ、母ちゃん。今日俺は、半ば強引にこの世界に出て来たわけだけれど、もともとこの体は愛雨のものだから、早いとこ返してやらなくちゃならねえんだよな。でも、どうやってあいつに返せばいいんだ?」
「う~ん」
「て言うか、この体を一度あいつに返したら、俺はもう二度とこの世界に戻れねえのか?」
腕を組んで考え込んでいた母ちゃんが――
「あ、良いことを思いついちゃった!」
――片手でテーブルをパンと叩き、せきをきったように話し始める。
「愛雨の意識が低下したタイミングで入れ替わることが出来たのならば、おまえと愛雨は、恐らく睡眠中に入れ替わることも出来るはず。おまえたちは、母ちゃんのかけがえのない子供。母ちゃんは、和音も愛雨も、どちらも失いたくない。だから、今日からおまえたちは日替わりでその体を使うようにしなさい」
「日替わりで体を使う? 冗談だろう。そんな夢みたいな……」
「夢なんかじゃない。ルールを決め、お互いがそれを守れば、きっと出来る」
「ルールだあ?」
「日替わり交代で順番に体を使用する。自分が体を使う日の朝は、努めて意識を高め、滞りなく出現をする。自分の番ではない朝は、努めて意識を低下させ、相手の邪魔は絶対にしない。無断で体を乗っ取っちゃ駄目。仲良くシェアする」
「体をシェアする……上手く行くかなあ」
「やる前から弱音を吐くな。やってみなければ分からない。いいかい? おまえは今晩寝入ったら次に体を使えるのは明後日だよ。それまで勝手に出てくるんじゃないよ。安心しな。このルールは、母ちゃんが、愛雨にも了解を得ておくから」
こうして、俺と愛雨は、日替わり交替制で、順番にこの体を使うことになった。やってみたら、思っていたよりスムーズに出来たんだな~これが。
ついでに話しておくと、母ちゃんは、この日のうちに、愛雨が通っている血の池高校へ俺を連れて行き「今後は二人が日替わりで通学することになりましたから」と学校に直談判をした。
校長は言葉を失っていた。教頭は難色を示した。担任の田中においては、至極迷惑そうな顔だった。結局、この日は、ていよく断られた。
それでも母ちゃんは諦めなかった。知り合いの知り合いの知り合いを通じて、人権団体を紹介してもらい、そこに学校との仲介を頼んだ。その団体は、子供の人権だの、多様性の時代だの、障害こそ個性だの、出方次第で御校をSNSに晒すだのと御託を並べ、学校に激しく許可を迫った。
その甲斐あってか、先ずはこの学校の養護教諭、いわゆる「保健室の先生」が、俺たちに理解を示した。更には、その保健の先生が、学校の上層部や教育委員会やPTAを熱心に説得して回ってくれたらしい。お陰様で、間もなく、許可は下りた。
この世界に現れて二週間ぐらい、いや、もっと早かったかも、俺は、とんとん拍子で血の池高校の生徒になっちまった。無論、細かな条件付きではあったが……。
ちなみに、母ちゃんは、俺がこの体を訪れて以降は、それまでズルズルとだらしなく付き合って来た業多とキッパリと別れ、一切の関係を断った。
台所の奥にある洋間から、あの頃とは別人になった母ちゃんの寝息がスース―と聞こえる。相変わらず寝つきだけは良い。俺は、自室に戻り「僕と俺と私のノート」を開く。『愛雨へ 説教するな』と返事を書き、母ちゃんを起こさないように静かに制服に着替えて家を出る。
県営住宅の敷地を出て、古戦場通りを北へ歩く。
すると「武蔵塚」と言う史跡を通りかかったところで、俺を待ち伏せしていたと思われる二人の高校生が、史跡の広場から歩道へ駆け下りて来た。
「こいつか?」「ああ、間違いない。後ろで髪を縛っている日は和音だ」「でも、愛雨が髪型を変えたってことはねえか?」「見ろ、あの冷酷な目を。こんな悪魔のような顔をした高校生は櫻小路和音以外にいない」
血の池高校の制服。二人の顔をよく見ると、そのうちの一人は知った顔だ。三日前に、歩道の物陰から突然足を引っ掻けて俺を転ばし、地面に倒れ伏した俺を指差しながらケラケラとあざ笑った三年生だ。おかげで、ズボンは破れるは、膝は擦り剥くわ――ま、もちろん、その後、容赦なくフルボッコにしてやったが。
「おいおい、誰が悪魔っすか誰が。朝っぱらから人聞きの悪いこと言わんで下さいよ、先輩」
三年生らが歩道に立ちはだかり、俺の通学と阻む。イラっとした俺は、鼻の頭と頭がくっつく寸前まで、相手に顔を近づけてそう息巻いた。
「おい、和音。この怪我を見やがれ。よくもやってくれたな。今日は俺の友達が、てめえを血祭に上げてくれるぜ。覚悟しろ」
頬が腫れ、目の上に青タンをつくり、前歯の欠けた三年生が、痛々しく啖呵を切る。
「おい、二年坊主。てめえ、こいつのこと可愛がってくれたらしいじゃねえか。悪いがカタキを取らせてもらうぜ」
無傷のほうの三年生が、下から舐め上げるように俺を睨む。
「あ? 言いがかりはやめてくださいよ。もとはと言えば、この人が、俺を転ばして」
「うるせえ。てめえは生意気な後輩として、三年の間で悪名が高いんだ。だから俺が懲らしめてやったんだろうが」
「いやいや、笑わせんで下さい。逆に、俺にコテンパンにされたじゃないっすか」
「黙れ、二年坊主」
痛っ。
マジかよ。無傷のほうが、そう威嚇するなり俺の左の頬を殴りやがった。口の中が切れた。食道に血が流れて行くのが分かる。十円玉をかじったような味がする。
まったく勘弁してくれっちゅ~の。現実世界に戻る度に、三年の輩が俺に絡んで来やがる。これで何人目だあ。かれこれ十数人は相手をしているぜえ。俺が何をしたっちゅ~の。存在しているだけで目の敵にされるってどういうこと? ちっ。仕方ねえなあ、手短に済ませるとするか。
「いや~、すみませんね~先輩。このように熱い挑戦状を叩きつけられても、今の俺には、先輩のお相手をしたくても出来ない事情があるっす」
「俺と喧嘩を出来ない事情だと?」
「はい。実は俺、先日そちらの先輩をタコ殴りにした時に、両手の指、合計8本を複雑骨折しちゃいまして。現在粉々になった全ての指に鉄のプレートがギブスとして埋め込まれているっす」
「てめえ、適当な言い訳をして逃げる気か」
「言い訳じゃないっす。ほ~ら、見て下さいよ。この拳の甲のところに鉄のプレートが。ほ~ら、よく見て。薄っすら透けて見えるから」
両方の拳を、先輩の顔にゆっくりと近づける――「あ~ん、鉄のプレートだあ? どれ?」――と、二人の三年生が、まんまと俺の拳に誘き出された時――
「鉄拳制裁、ボーーーン!」
――怪我だらけの方と、無傷の方、両方の鼻っ柱を同時に殴る。途端に手で鼻を覆ってその場にうずくまる二人。お二人揃って、覆った手の隙間から鼻血が大量に滴り落ちている。
「く、糞ッタレ。卑怯な真似しやがって。てめえ、憶えてろ」
「残念でした。言われた側から忘れます。そもそも、おたく、どちら様~?」
そう捨て台詞を吐くと、歩道に密集した見物客を押し退け、俺は、その場を後にした。
今日も、午前中は学校の近くの公園で時間を潰す。
俺は、特別な予定がない限り、学校へ行くのはいつも午後からだ。別に学校が嫌いってわけじゃねえ。ただ、俺の性格上、授業中に自分の席でじっと座っていられるのは半日が限界なんだ。悪気はねえ。悪気はねえんだが、困ったことに、何時間も惰性で授業を受けていると、ついフラフラと席を離れてしまう。
例えば――物理の授業中に何やら窓の外が騒がしい――運動場で他のクラスの連中が体育の授業でサッカーをしている――授業は退屈――サッカー観てえ――そう思うと居ても立っても居られなくなり、衝動的に窓際に立ち、サッカーの試合を観戦している。
例えば――暑い日に、ふと廊下を眺める――教室より廊下のほうがヒンヤリとしていて涼しそう――そう思うと居ても立っても居られなくなり、衝動的に廊下をブラブラと歩いている。
これは流石に真剣に授業を受けているクラスメイトに迷惑だろう? 同じクラスにこんな身勝手な野郎がいたら、俺だったら問答無用で殴ってやるぜ。
協調。同調。思いやり。そういった感性は、こう見えてあり過ぎるぐらいある男なのさ、俺は。だからこそ、授業は半日バックレることにしている。重ねて言うが、サボりたいわけじゃねえ。これはみんなのためだ。
高校のすぐ近くにある「血の池公園」に足を運ぶ。
ここには、その昔、秀吉と家康が戦った合戦の際に、家康方の家臣である渡辺守綱らが血のついた槍や刀を洗ったという伝説の池があったらしい。その池には「毎年、合戦のあった4月9日になると池の水が真っ赤に染まる」という言い伝えがあり、ゆえに地域の人々は「血の池」と呼んだ。
その池を埋め立てて整備をしたのがこの「血の池公園」だ。現在は、地域住民の憩いの場になっていて、池の痕跡はどこにもない。
みゃーん。
西の入り口から園内に入ると、一匹の野良猫が近づいて来て、俺の足に体を擦りつけて来る。癒し。かわゆし。愛くるし。ここに来る前にコンビニで買っておいた猫の缶詰をカシュっと開けて、猫に与える。
「美味いか、猫。すげー勢いで喰うなあ、猫。そーか、そーか、腹ペコだったか、猫」
この猫とは、俺がこの公園を初めて訪れた時からの付き合いだ。広場のベンチに寝転んでいたら、どこからともなく現われ、俺の目をじ~っと見詰め、みゃーん、みゃーん、と物欲しそうに鳴きやがる。仕方がねえから、俺は、その日の朝に母ちゃんが作ってくれた弁当を、こいつに与えてやった。ところが、その弁当に猫に食わせてはいけない食材が入って入たらしく、猫は腹を壊し、しばらく調子を崩してしまった。良かれと思って取った行動だったが、軽率だった。すっかり痩せちまって。こいつ、マジで死ぬんじゃねーかと思った。
俺は、猫に申し訳ない気持ちでいっぱいになり、以降は、何とかして母ちゃんが俺に弁当を作る気が失せるように仕向け、その代わりとして昼飯代の五百円をくれるように仕向け、その金で、猫に缶詰のエサを与えるようにしている。
猫がエサを食べ始めたら、広いグランドを歩き、園の中央にある藤棚(藤の木の蔓を這わせて、垂れ下がる花を鑑賞できるようにした棚)の下で、テントを張って暮らしている老人を訪ねる。
「お~い、和尚~。三休和尚~。起きろ~。食い物を持ってきたぜ~」
どこかのゴミ置き場で拾って来たと思われる薄汚れたアウトドア用テントのてっぺんを摘まんで、ワサワサと揺らす。
「お~お~、若僧。待ち兼ねたぞい。わしぁ~、腹が減って死にそうじゃわい」
すると、埃まみれの袈裟を着たボサボサの有髪僧が、いつものようにテントの中から這い出て来た。
三休和尚。近所の人の話では、二十年程前からこの公園に勝手に住み着いている僧侶らしい。元々はこの辺りに先祖代々から続く由緒正しい寺の住職だったとか何とか。眉唾眉唾。この品の無い風体、そもそも僧侶ってことすら疑わしいぜ。ただのホームレスじゃねえの?
三休和尚も、俺がこの公園を初めて訪れた時からの付き合いだ。俺が野良猫に弁当を与えていたら、どこからともなく現われ、こちらを物欲しそうにじ~っと見詰め、今にも虚無僧のようにニャムニャムと念仏を唱え物乞いをしそうな勢いだった。仕方がねえから、俺は、猫に食わせていた弁当の半分を分けてあげた。
猫にコンビニで買った缶詰のエサを与えるようになってからは、三休和尚にはコンビニのオニギリを買っている。
「ほら、和尚、食べな」
今日コンビニで買ったオニギリを、三休和尚に手渡す。
「うおおお、ありがとさん、ありがとさん。いつもすまんのう。まったくこの街の連中ときたら、最近は畑でとれたダイコン一本恵んでくれん。ここに住みだした頃は、米やら、ニンジンやら、白菜やら、たくさん恵んでくれたものじゃが。みんな不景気なのかのう」
「不景気もあるけど、農家そのものが減っているんだろう。街を歩いても、田んぼや畑なんて、そうそう見ないぜ」
「この街も、すっかり変わってしまったのう。あ、このオニギリ」
「おうよ。今日もシックスイレブンのシーチキン味だ」
「うおおお、これじゃこれじゃ。このツナマヨネーズの滑らかさが最高なんじゃあああ」
三休和尚が、ビニールの包装をひきちぎり、オニギリをむさぼり食う。
のんびり。ゆるゆる。のほほん。俺と三休和尚と野良猫は、曇天模様の空の下、昼時まで何をするでもなく時間を潰す。
「若僧よ。本当にいつもありがとさん。わしは、その昔交流のあった檀家さんが時々物資を調達してくれるからこうして生きながらえておるが、それとは別に、三日に一度コンビニのオニギリを食べるのが、とても楽しみなのじゃよ」
「気にしねえでくれ。自分がやりたいことを勝手にしているだけだから。それに、あんたには、こうして猫の世話をしてもらっているしな。それより、和尚、あんた、いい加減に髪を切ったらどうだ? さすがにみっともないぜ」
「おお。わしもそうしたいところじゃが、なにせわしにはその金がない」
和尚が、頭皮をボリボリと掻きむしる。肩まで伸びた長い髪の毛から、大量のフケが辺りに舞う。
「今度夜夕代にあんたを散髪してもらうようにお願いをしてやるよ。あいつは器用だし、オシャレだから、きっと今流行りの髪型にカットしてくれるぜ」
「夜夕代? 誰じゃそりゃ? 貴様の彼女か? ほ~、そんな地獄の餓鬼のようなツラし腐って、隅には置けんのう」
「アホか。そんなんじゃねえよ」
三休和尚は、俺がひとつの体をシェアして生きていることを知らない。よほどの必要性がない限り、俺たち三人の関係を安易に他人に伝えるのは、後々弊害にしかならねえから。
ベンチにでろ~んと伸びゴロゴロと喉を鳴らす猫を、俺は撫でている。
「名前ぐらい付けてやったらどうじゃ?」
「名前?」
「その野良猫のことじゃ。貴様が飼い主みたいなのものではないか。いい加減に名前ぐらい付けてやれ」
「名前なんていらねえ。猫は猫。だから猫。問題なし」
「おい、若僧。そもそも、貴様、名は何と言う? 親しい仲じゃ、ぼちぼち教えてくれてもよかろう?」
「嫌だね。俺、自分の名前が好きじゃねえんだ。言いたくねえ。とは言うものの、和尚に『若僧』と蔑まれるのは、ちょいと癪だがな。まったく口の悪い坊主だせ」
「べつに蔑んでなどおらぬ。逆に貴様を讃えて若僧と呼んでおるのじゃぞ。若僧とは、要するに若き修行僧のこと。貴様には、悟りを求め苦行に励む僧のようなオーラがある。だが、貴様がどうしてもと言うのであれば、呼び方を変えようか? いったいどう呼ばれたい? クソガキ? チンピラ? ロクデナシ?」
「おいおいおい。わ~ったよ。今まで通り、若僧呼ばわりしやがれ」
俺たちは、笑い合った。それから和尚は、俺の顔をまじまじと見ながらこう言った。
「なあ、若僧。前々から聞こうと思っていたのだが、貴様、ここで出逢う前に、どこかでこのわしと逢っておらぬか? その顔、昔どこかで見たような気がするのだが……う~む、歳は取りたくないのう。さっぱり思い出せんわい」
「はあ? 有り得ねー。あんたは一度逢ったら忘れたくても忘れられねーキャラクターだ。断言する。絶対に逢ってねー。それより、俺も前々から聞こうと思っていたけれど、その三休って名前、変な名前だな。親が付けたのか? 変な親だな」
「バカタレ。これは僧名じゃ。わしは同宗派の一休宗純というお坊様を大変尊敬しておる。頓智の一休さんのモデルになった高僧じゃ。知っておろう? 一休さんは、ひと休み。だが、わしはふた休みも、み休みもしてやるぞ。そんな気持ちを込めて、僧名を『三休』としたのじゃ」
「一休宗純? 知らねーなあ」
「一休さんの作った有名な詩に『有漏路より 無漏路へ帰る 一休み 雨ふらばふれ 風ふかば吹け』というのがある。良き詩じゃろう?」
「難しくて分かんねー。いったいどんな意味だ?」
「人生とは、モノゴトで溢れた世界から、何も無い世界へと向かう帰り道で、休憩をしているようなものだ。雨が降ろうが、風が吹こうが、気にしない気にしない」
「へ~。素晴らしいな」
「お、分かるか? この詩の良さが」
「ああ、良き詩かな」
そんなこんなで、しばらく和尚の小難しいお説教に耳を傾けていたら、気が付くと、もう昼だった。さてと、ぼちぼち学校へ行くかあ。
「おばちゃん。焼きそばパンひとつ。違う違う。小さいほう。百十円のやつだよ」
学校に到着するのは、いつも昼休憩の時間。俺は校内の売店に直行して、自分の昼飯を買う。
(ねえ、ちょっと)
手持ちの五百円から猫の缶詰と三休和尚のオニギリを買った残金なので、いつも小さなパンをひとつしか買えない。
(ねえ、ちょっと)
正直、腹が減って仕方がねえが、まあ、自分が好きでやっている事なので、誰かを逆恨みするわけにもいかず、腹の虫の音を黙って聴いている日々ってわけさ。
「ねえ、ちょっと。おい、こら、和音。さっきから私が話しかけているでしょう。なんで無視するわけ」
背中のあたりが何やらガチャガチャうるさいことに気が付いて振り向く。おや、クラスメイトの尾崎地図子が憤怒の形相で俺を睨んでいる。
「あ?」
「あ? じゃないわよ。平然と私の前に横入りをして、堂々と焼きそばパン買ってんじゃないわよ。私、並んでいるの。みんな、並んでいるの。あんたも並んで買いなさい」
地図子の後方を見ると、生徒が十数名、売店の前でたむろしている。
「こいつらは何を買うか悩んでいる連中だろ? 俺はもう決まっているから。百十円の焼きそばパン、一択だから」
「違うわーい。たむろしているようだけれど、これはちゃんと列を成しているの。みんな自分の順番が来るのを待っているの。さあ、和音、すみやかに手にした焼きそばパンを売店のおばちゃんに返却し、列の最後尾に並び直しなさい」
「何でだよ。わぁ〜たよ。次からちゃんと並んで買うからよ。今日のところは見逃してくれ。な?」
「駄目です。直ちに最後尾へ行きなさい」
「あ~もう、いつも俺の顔を見るなりガミガミガミガミ。てめえは俺の保護者か」
結局俺は、地図子に幼児のように手を引かれて列の最後尾に回り、奥歯がへし折れるほどの歯噛みをして売店の列に並んで焼きぞばパンを買った。
「おーい、和音~」
渡り廊下で、秋風に吹かれながら一人焼きそばパンを頬張っていると、あの女が二階の踊り場から駆けてくる。
「おいおい、今度は何だあ。お説教は聞き飽きたぜ。てめえはもう俺に構うな。頼むからどっか行け」
「聞いてよ。昨日愛雨が誰かにイタズラをされたの」
こちらの苦言など素知らぬ顔で、地図子が要件を切り出す。
「イタズラ?」
「うん、背中に悪質な張り紙をされたのよ。ほら、これが証拠写真。マジ許せない。ねえ、和音、犯人を見つけ出して、とっちめてやってよ」
地図子がスマートフォンで撮影した画像を見せてくる。縦長の端末には、張り紙を片手に泣きそうなツラをしてカメラ目線の愛雨。ふん。相変わらず負け犬臭ぷんぷんたる野郎だぜ。
「アホか。な~んで俺が愛雨のために犯人捜しをせにゃならんの? そういうことは春夏冬に頼め」
「それが、春夏冬くんは、空手道場の遠征合宿で、明日まで学校に来ないの」
「マジ? そんなこと俺は聞いてないぜ? チクショ~、あの野郎~。今日は久しぶりに寸止めなしのマジ喧嘩を申し込むつもりだったのに」
「ねえ、和音。愛雨のかたき討ってよ。同じ体をシェアする者同士じゃない。ね。お願い。この通り」
地図子が俺に両手を合わせる。何だかなあ。こいつは、もともと正義感の強い女だが、愛雨のこととなると、変にむきになる。
「知らねーよ、俺は」
「犯人の目星はおおよそついているわ。同じクラスの蛇蛇野夢雄よ」
「へ~。それがどうした。知ったこっちゃねえよ、俺は」
「お願い。蛇蛇野のやつを問い詰めてやって」
「知らね~ってば」
「いつもありがとう。頼りにしてる。それじゃあ、私は選挙管理委員の打ち合わせがあるから行くね」
「てめえは、人の話を聞いてんのか。俺は一切かかわらねえって――おい! 待て! 待てってば!」
一方的に言いたいことだけを矢継ぎ早に言い放ち、尾崎地図子は、渡り廊下の果てに消えて行った。
血の池高校の昼下がり。食事を終えたクラスメイトがワイワイと雑談をしている教室にフラリと入る。そこに居た全員が、まるでシマウマの群れがライオンの存在に気付いたみたいに、一斉に俺に視線を向ける。せっかくなので、岩陰から草食動物を狙う肉食獣の如き眼力で、群れ全体を威嚇してやる。一瞬で静まり返る教室。
つい深い意味もなくみんなをビビらせちゃうけれど、実は、俺は、このクラスの連中には、内心とても感謝をしている。なにしろ、ひとつの体をシェアし、日替わり交代で通学をする俺たち三人に対し、ぶっちゃけはじめはどう接してよいのか分からず困惑をしていたが、そこは若者特有の柔軟な思考で現実を速やかに受け入れ、今では俺たちのことを明確に「個人×3」という認識してくれている。
担任の田中をはじめ、頭の固い大人どもは、いまだに俺たちのことを「個人÷3」という扱いをしやがる。分かるんだよ。態度の端々にそれが出てんだよ。馬鹿にしやがって。違うっちゅ~の。俺たちは、三個人が、たまたまひとつの体をシェアしているだけだっちゅ~の。まあ、そんなことはさて置き……
さ~て、蛇蛇野夢雄はどこだあ?
あ、みぃ〜つけたあああ。
教室の隅。集団から一人離れて、スマートフォンをいじっている。
「蛇蛇野くぅ~ん、こんにちは~」
「や、やあ、和音くん。こ、こんにちは」
あえて薄気味の悪い笑顔をつくり、あえて一歩一歩ゆ~っくりと蛇蛇野に忍び寄る。ライオンに狙われたシマウマが、こちらの出方を伺い硬直している。
「さあ、蛇蛇野くぅ~ん、午後からも、我らが学び舎で、共に勉学に勤しもうねぇ~ん」
「……どうしたの、和音くん。珍しいね、きみがぼくに話しかけるなんて。てか言うか、普通にしゃべりなよ」
「なにを言っちゃってるのさぁ~、蛇蛇野くぅ~ん。ミーはいつだって、くぉんな話しかたじゃないくゎ~ん」
ビビってやがる。きっと金玉が縮みあがっていやがる。さ~て、ここらでにわかに態度を激変させてやる。
「おい、蛇蛇野。てめえ、俺に何か言うことないか、あ?」
蛇蛇野よ。俺はてめえにカマをかけてんだ。てめえが昨日しでかした悪行を、俺が知らねえとでも思っているのか? あいにく俺は、自分がこの体を使わない日も愛雨の行動を見ることが出来るんだぜ? さあ、答えろ。てめえは、それに感付いているのか、いないのか?
――そんな意味も含ませつつ、蛇蛇野を問い詰める。
「ななな、何のことだい、和音くん、きみの言っている意味がよく分からないよ」
……微妙な反応。ふん。まあいい。見ろ。顔からすーっと血の気が引いていやがる。
これは愛雨の敵討ち。だが俺は、がんばってこいつを自白に持ち込む気など、はなからねえ。こいつが恐れ慄く顔を見れたらそれで満足。ちゅうわけで、容赦なくいたぶらせてもらうぜ。蛇蛇野が手にしていたスマートフォンを、おもむろに取り上げる。
「てめえは、さっきから何を熱心に書き込んでいやがる?」
「あ、ちょっと、勝手に見ないでよ」
るっせー。勝手に画面を覗き込む。何だコリャ? 俺はスマートフォンを持っていないから詳しくは知らねえが、どうやら、こいつは、どこぞのタレントの誹謗中傷が書き連ねているサイトに、みずからもせっせと悪口を書き込んでいるようだ。俺は、蛇蛇野の書きかけのコメントを、教室中に響き渡る声で読み上げる。
「え〜なになに『才能枯れたね。もう地上波には出るな。全国民があなたを嫌っています。馬鹿。死ね』……なあ、蛇蛇野、楽しいか?」
「ほっといてよ」
「教えてくれ。こうやって人の悪口を書き込むと、生きている実感が湧くのか?」
「そんな嫌らしい言い方しないでよ」
「嫌味じゃねえ。こうして罵詈雑言を書き連ねることで、よっしゃー、俺は今生きているぞ、人生ちょー楽しい、リアルちょー充実、ってなるなら、ぜひ俺もやりたい。純粋にそう思っただけさ」
だってそうだろう、こんなくだらねえ所業で、僅かでも生きている実感が得られるなら俺だって……おっと、これは愛雨のかたき討ちだ、こんな糞野郎には微塵の同調もしちゃならねえ。気を取り直して、更にネチネチといたぶってやる。
「てめえ、恥ずかしくねえのか? あ? まったく親の顔が見てえよ」
手にしたスマートフォンをポイと放り投げる。すると、慌ててそれをキャッチした蛇蛇野は――
「人の親を侮辱するな。ぼくのパパは新聞記者だぞ」
――と、突然語気を鋭くした。なんだあ? 何を急に熱くなってんだあ? 予想外の反応に俺は少々焦った。
「新聞記者?」
「そうだ。ママが言うには、ある怪奇事件に深く関わり過ぎて業界から消されてしまったけれど、それは優秀な記者だったって」
「なんで過去形なんだ?」
「パパは、ぼくが赤ちゃんの時に、ママと僕を置いて消息を絶ったらしい。だから詳しいことは分かららない。でも、和音くんにぼくのパパを侮辱して欲しくない! きみに人の親を馬鹿にする権利はない!」
……おいおい、突然何を向むきになってんだ? ……まあ、確かに、俺にてめえの親を馬鹿にする権利はない。
「すまねえ。悪かった」
そう言いかけて、この俺が、素直に謝罪など出来る筈もなく――
「ふん。ほざいてろ。タコ」
――かろうじてそう毒づき、どこかしら退散するようにその場を後にした。なんか俺、最後のほう、蛇蛇野に追い詰められていなかった?
何とも言い表せない敗北感に苛まれながら、午後の授業を受ける。下校をする。自宅で制服を脱いで洗濯機を回す。冷蔵庫にある食材で自炊をする。それから「僕と俺と私のノート」を開き――
『夜夕代へ 気が向いたら血の池公園にいる僧侶を散髪してやってくれ よろしく』
――と書き込み、カーテンを閉め、部屋を真っ暗にしてベッドに横になる。
自嘲。自責。自省。学校で蛇蛇野に謝れなかった。あんな時、春夏冬なら、きっと相手の目を見て「ごめん。失言だ。許してくれ」なんつって、毅然とした態度で謝罪をした筈だ。どうして俺は春夏冬のように素直になれない? どうして俺は春夏冬のように真っすぐに生きられない?
午前中に三休和尚が詠った詩が、ふと脳裏に蘇る。
『有漏路より 無漏路へ帰る 一休み』
誰もがモノゴトで溢れた世界から何もない世界に帰っているのなら、この十七年間「体をもたぬ意識」として生きてきた俺は、いったいどこへ帰ればいい?
あれ? そもそも、俺って生きてんだっけ?
殴り合いたい。今すぐにでも春夏冬と喧嘩がしたい。あいつと真剣勝負をしている時、俺は、自分がこの世界で生きていることを、強く実感することが出来る。
「春夏冬に逢いて~」
そう溜息をつき、やがて俺は眠りに付いた。
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