七年間付き合っていた彼氏が、たぬきだった話
九戯諒
出会いと予兆
第1話 大山君との出会いと、初めての『水族館デート』
私が一個下の大山君と付き合い始めたのは、今から七年前、当時大学二回生の時でした。私が所属していたボランティアサークルに大山君が新しく入って来て、出会った三日後に桜の木の下に呼び出され、いきなり告白をされたのです。
私は丁重にお断りしました。『付き合う』『付き合わない』以前の問題として、私たちはお互いのことを全く知らないし、『好き』『嫌い』を判断する材料すら何もないのですから、当然のことです。
私の第一印象としては、大山君はただ顔が可愛いだけの『チャラい遊び人』という感じだったのですが、サークルで活動を一緒にしていくにつれて、それはひどい誤解であることが分かってきました。
大山君は髪の毛こそダークブラウンに染めていましたが、いつも黒縁の眼鏡をかけていて、その下にある丸くて人懐っこい目が特徴的でした。
いわゆる『癒し系』とでもいうのでしょうか。大山君は全体的におっとりとした雰囲気で、喋りも動きもひどくスローペースで、語尾を軽く伸ばす癖があります。そして、いつも穏やかな笑みを浮かべていて、大山君と出会ってから七年が経ちますが、私は大山君が怒っているところは見たことがありません。それどころか、大山君がいるだけで自然と場の雰囲気が良くなってしまうくらいです。
大山君は私と同じ物理学科に所属していました。大山君曰く、『どうしても解明したい謎があるんです』とのことでしたが、それは七年経った今でも秘密のままです。でもかつて、大山君は私に向かってこう言いました。
「いつか、雪野さんには僕の全てを正直に打ち明けられると思いますから、どうか、それまで待っていてください」
いつものように『のほほん』とした表情でそんなことを言われてしまっては、それ以上追求するのも野暮というモノです。私は『分かりました』とだけ答えて、それ以降、この話についてはすっかり忘れてしまうことにしたのでした。
さて、大山君は(絶対数が少ない)同じサークルの一つ下の後輩で、(同じく絶対数が少ない)物理学科の一つ下の後輩でもある訳ですから、試験の過去問を渡したり、込み入った専門科目の勉強を教えたりするのは、一つ上の身近な先輩として、私の役割であると心得ていました。
私と大山君が所属していたボランティアサークルでは、地元の小中高生に無償で勉強を教えていたのですが、『物理』という科目を教える機会などほぼ皆無に等しく、代わりに『英語』や『数学』を教えることが多かったのですが、そこは当然ながら『英語学科』や『数学科』の学生の方が頼りになる訳で、しかも教える側の大学生の方が教えられる側の小中高生よりも多く参加している日も少なくなかったものですから、いつしか私と大山君は大教室の隅の方で大人しく机を並べて、『力学』や『電磁気学』などの専門科目について共に語り合うようになっていました。
期末試験に向けて図書館の自習スペースで一緒に勉強をしていた暑い七月の下旬、私は大山君にデートのお誘いを受けました。『夏休みに入ったら、一緒に水族館に行きませんか?』と。その時の大山君は珍しく緊張しているようでした。
私は快諾しました。その頃には既に、大山君の『誠実で実直な人柄』に気が付いていたというのもありますし、実を言うと、私も大山君には少なからず好意を抱いていたからです。
ハッキリ言って、『チャラい遊び人』風の外見とは裏腹に、大山君は完全に恋愛初心者のようでした。『小学校低学年のまま、恋愛観が止まってしまっている』と断言してしまっても良いかもしれません。今にして思えば、出会って三日後に桜の木の下で告白をしてきたのも、『小学生レベルの恋愛観』で物事を考えていたからなのかもしれません。
そんな大山君が私を『水族館』に誘うというのは、驚くべき進歩です。私は、大山君との水族館デートを楽しみにしていました。
水族館の大水槽は迫力満点でした。大きなサメがゆったりと泳いでいる姿はまさに圧巻で、他にも大小様々の魚が泳ぐアクアブルーの神秘的な世界は、私には小宇宙のように感じられました。
「雪野さん、あの魚、美味しそうですね~」
大山君は相変わらず『のほほん』とした表情で、そんなことを言っていました。しかも、優雅にゆらめく、大きな『エイ』を指さしながら。
「あの、エイは食べられないと思いますけど……」
「え、そうなんですか?」
「ええ、多分」
「なるほど。流石は雪野さん、何でも知っていますね」
大山君は目を輝かせながら、私のことを『尊敬の眼差し』で見つめてきました。
大山君は知識欲が旺盛です。自分の知らないことを新しく知ると、それが何であれこのような反応を示します。四月からの約三か月間の付き合いで、私は大山君の習性をそれなりに理解していました。
私は鞄からスマートフォンを取り出して、『エイ』について調べました。
「……すみません、訂正します。どうやらエイは日本国内でも『焼き魚』や『煮つけ』、『唐揚げ』として食べれれているようです」
「へえ~そうだったんですか! じゃあ、やっぱり『美味しそう』って思ったのは、間違いじゃなかったんですね」
大山君は人懐っこい笑みを浮かべると、唇をペロッと舐めていました。それは、実家で飼っているトイプードルのモカちゃんを彷彿とさせる仕草でした。モカちゃんがご飯を食べるときも『待て』をすると舌を出して、口の周りをペロッと舐めることがあります。ちょうどそんな感じで、大山君も自分の唇をペロッと舐めたのでした。
「大山君、そろそろお昼にしますか?」
約三か月間の付き合いで大山君の習性を理解していた私は、それを見て提案しました。時間を確認すると昼食には少し早かったのですが、エイを見て『美味しそう』などという感性を持つ大山君を、水族館の沢山の魚を前にお腹を空かせたまま放置することが、私にはひどく可哀そうに思われたからです。
大山君は喜んでいました。
「雪野さんは本当に凄いですね。僕が考えていることを、何でも分かっているみたいです」
「何となく、そう思っただけですよ」
「そうなんですか?」
「ええ、そうです」
「……なら、もし将来結婚するなら、僕は雪野さんみたいな人が良いです」
大山君の予想外の一言に、私は少し取り乱してしまいました。
「お、大山君。い、いきなりどうしたんですか……」
私は丸眼鏡の位置を調節しながら大山君に尋ねます。
「僕と雪野さんって、相性がいいかなって思うんです」
「相性、ですか?」
「はい。雪野さんは僕の考えていることが『何となく』で分かってしまうようですし、僕も雪野さんと一緒にいると、心が落ち着くんです」
本当は三か月間の『観察』による賜物なのですが、それを正直に白状するのは気恥ずかしくもあり、私は大山君の言葉を訂正することができませんでした。私が『そうですか』とだけ返すと、大山君は歩きながら、私の手をそっと握ってきました。
「この水族館、海鮮丼が美味しいみたいですよ」
「お、大山君。それより、この手は何ですか?」
「この先は暗いですし、それに、人も多いですから」
いつもの『のほほん』とした調子でそんなことを言われてしまうと、私も不思議と納得してしまうのでした。
「雪野さんの手、すごく柔らかいですね」
ムニュムニュと触感を楽しむように、大山君は私の手を握ってきます。
「だとしても、わざわざ『揉む』必要はないでしょう」
「でも、そうしないと柔らかさは分からないですし」
「そもそも、分かってどうするんですか?」
「どうもしませんよ。ただ、『雪野さんの手って柔らかいなー』って、僕が思うだけです」
三か月間の付き合いで分かったことですが、大山君には全く意味のないことを大真面目に行う習性があります。全く意味のないことばかりなので、具体例を挙げようにも挙げることはできません。覚えていないからです。
ただ、自分でも非合理的なことだとは自覚しているのですが、そんな大山君と一緒にいると、私は心が休まるのでした。全く意味のないことをしている大山君の隣にいるだけなのに、どうして私の心は休まるのでしょうか。『心理学』を勉強したことがない私には、その理由を説明することはできません。
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