【KAC20252】ひなたの君

佐斗ナサト

ひなたの君

 影としてあれ。物心ついたときから、そう教え込まれて生きてきた。


 任務に出るときのお前には、名も顔も声もないものと思え。一人の主のみをいただく城仕えの忍びであればなおさらである、と。

 だから、太陽の下では余所者だ。蝋燭ろうそく の灯りは借り物だ。そう思いながら修行と功績を積み続けた。初めて殿じきじきのめいを与えられたのは、よわい十八のときであった。


 ――曰く、御年おんとし五つになる姫君を警護せよ、と。


 むろん優秀な護衛をつけてはいるが、それだけでは心もとない。日向に立つ護衛に加えて、お前が陰より守れ。それが我が殿の指示であった。

 姫君の愛らしいことはすでに周辺の城まで広まっており、幼い彼女をめぐる思惑があちらこちらで渦巻いていた。城主としても、美貌の娘はぜひ切り札として使いたいことだろう。かくなる意図があっての二重警護だろうと理解できた。この世は乱世、油断した者から喉を裂かれる。当たり前のことだった。


 私はただ深々と頭を下げ、拝命した。


 翌日から、姫君を隠れて見守るようになった。

 確かに器量がよいとはいえ、姫君はまだ幼子だった。いたずらをして周りを困らせ、意に沿わぬことがあれば泣く。着物の裾を汚して暖かな陽だまりを駆け回り、夜は闇を恐れて明るい部屋で眠る。そのような子どもだった。


 姫と忍びの育ちようなど、天と地の差だとは分かっていた。それでも胸中にわだかまるものは、羨望――だったろうか。太陽を友とし、夜の灯りを信じて疑わぬ者への。


 ある日、護衛が何かに気を取られたときのことだった。屋敷の門からの人の出入りに混ざって、姫君がするり、と外へ抜け出した。

 単なる武士は持たぬ目を持つのが忍びである。庭師を装って様子を見ていたところ異変に気づき、まっさきに姫君の後を追った。扮装のままさりげなく追いついて、いけませんぜ姫さま、とでも言って城へ連れ戻すのが、影の者としては賢い仕事のやり方だ。だが瞬時の判断でふところに手を入れ、取り出した布で顔の下半分を覆った。


 角を曲がろうとしたところで、姫君が突然、大樹の陰に引き込まれたからだ。


 地を蹴って駆け出す。もがく姫君の手がちらと樹の陰から見えて、消えた。その反対側から飛び込み、姫を抱え込もうとしていた男の後頭部に肘を叩き込んだ。振り返りかけた男の首に腕を回して、背後からぎりぎりと締め上げる。男はやがて姫を放し、無様に気を失った。

 人攫いの体を横に放り、姫君を見やる。彼女は幼い瞳に怯えの色を浮かべ、じっとこちらを見つめていた。


 わだかまっていたはずの胸が、痛んだのはなぜだろう。

 彼女のように私は生きない。生きられない。それでも――それであればこそ、彼女の瞳には陽の光が満ちているべきではないか。

 血濡れた私の代わりに、めいいっぱいの煌めきを浴びて育つべきではないのか。


 しばし黙してから、私はその場に膝をついた。そして姫を見上げ、こう言った。


「ご安心めされよ。我は御身おんみの影。殿の命によりお守り申し上げる」

「わたしの、かげ……?」

「然り。さあ、屋敷へお戻りを。護衛殿が半狂乱でおられますぞ」

「えっ」


 姫君はきょとんとした顔で屋敷の門を見やる。果たしてそこから帯刀した男が大慌てで駆けてくるところだった。

 彼女はもう一度、こちらを振り返る。だが私はもう木の枝の中に身を潜めていた。


「――かげ?」


 姫がぽつり、と呟いた声が、春風にのって耳に入る。


「……左様。お守り申し上げる」


 そう囁いた私の声は、護衛に手を引かれて戻ってゆく、幼い耳に届いたか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【KAC20252】ひなたの君 佐斗ナサト @sato_nasato

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ