第11章「忍び寄る闇と灯る光」(1)
「白山シンは、いったいどこまで忘れてしまうんだろう――」
シンはそう胸の内で呟いているかのような、不安げな光を宿した瞳をしていた。
それでも彼は、今日も文化祭の準備に参加しようとしている。
「なあ、シン。こっち手伝ってくれ!」
御影コウタは声を張り上げた。
「俺、今、何を……えっと……」
シンが口ごもると、コウタはズバリと切り込む。
「何を手伝うんだったかって? おいおい、さっき打ち合わせで言っただろ。お化け屋敷用のパネルを教室から体育館へ運ぶって!」
「ご、ごめん……」
シンはメモ帳を開いてぱらぱらと確認し、そこに書かれていないと分かると苦笑いを浮かべる。
「書くの忘れてたみたいだ。いや、ありがとう、思い出したよ!」
「ほんとかぁ? まあいいや、さっさと運ぶぞ!」
コウタの声は陽気だが、瞳には薄い不安がにじんでいる。
風間ナツミはそんな二人を少し離れたところから見守っていた。
「シン、コウタ、そこにある板、ほんっとに重いから気をつけてよ!」
そう声をかけるナツミの表情は明るく見えるが、じつは視線がやや落ち着かない。
彼女もシンの記憶抜けを心配しつつ、それでもクラスメイトを盛り上げたい気持ちを優先しようとしているのだ。
「ナツミ、その板こそが問題なんだけど……」
コウタが板の角を持ち上げようと試すが、案外大きくて一人では厳しそうだ。
「シン、お前もこっち来て。二人がかりで行くぞ!」
「わかった!」
シンは慌ててメモ帳とペンをズボンのポケットに押し込み、コウタと一緒に板の端をつかむ。
「よし、行こう!」
コウタが先頭で体育館方面へ進み始め、シンも板を抱えてゆっくり歩き出す。
ナツミはその後ろ姿を見送りながら、小声で呟いた。
「……シン、今日はあまり無理してほしくないんだけどな」
ナツミがそんなふうに誰にも聞こえない声でつぶやいた理由は、シンが“単なる天然”では済まされない物忘れの症状を抱えていると知っているからだ。
最近は特にひどく、彼の目が虚ろになる瞬間さえある。
それでもシンは周囲に隠して頑張ろうとする。
そのことがナツミには危なっかしく見えて仕方なかった。
一方で、このクラスにもう一人、異様な空気をまとった黒江ユキがいた。
「ユキ、そっちの飾りはどう? 不備とかない?」
ナツミが声をかけるが、ユキは伏せた瞳のまま、小さく首を振った。
「……特にない。でも……騒がしい」
それだけ言って、ユキはこめかみに手を当てる。
どうやら頭痛に悩まされているようだ。
ナツミは不安げにユキの肩に手を乗せる。
「大丈夫? ……あんまり無理しなくていいんだよ? 先生に相談するとか」
「相談……したくない」
ユキが消え入りそうな声で拒む。
彼女の脳裏には、保健医・榎本の姿がちらついている。
ごく最近、榎本が自分やシンを不必要に気遣うようになり、どこか探るように見つめてくるのを彼女も感じていた。
保健室へ行けば、余計に何かを察知されるかもしれない。それが恐ろしく、ユキは身をすくめるようにしてうつむく。
「……ま、ムリはしないでよ。嫌な予感しかしないから」
ナツミはそれだけ言い残し、クラスメイトへ指示を出すために走っていく。
ユキはその後ろ姿を眺め、どこか哀しげに目を伏せた。
◇◇◇
――しばらくして、昼休み。
教室は文化祭の装飾や道具が散乱し、弁当を食べる生徒と準備を続行する生徒が入り混じったカオスな空間になっている。
保健医・榎本真理がそこへ姿を見せたのは、ちょうどシンとユキが廊下側の席へ戻ってきたタイミングだった。
「シンくん、ユキさん、文化祭の準備はどう?」
彼女は親しげな笑みを浮かべて二人に話しかける。
「……え、あ、はい、まあ」
シンは愛想笑いを返すものの、どことなく落ち着かなそうだ。
ユキは顔をそむけて一言も発しない。
榎本は二人の様子を見渡し、慈しむような口調で続ける。
「大変でしょう? もし疲れたら、いつでも保健室に来ていいのよ」
「ありがとうございます。……でも、まだ平気なので……」
シンがそう答えると、榎本の目線が一瞬鋭さを帯びた。
けれど、その一瞬はすぐに消える。
ユキにはそれが見逃せなかったようで、嫌悪とも恐怖ともつかない視線を榎本から外す。
「そっか、無理しないでね。じゃ、私はこれで」
榎本はすんなり引き下がり、去り際にシンとユキをもう一度振り返った。
その後ろ姿を、教室の隅からコウタとナツミがヒヤヒヤしながら見守っている。
コウタがナツミに小声で囁く。
「……マジで、榎本先生、あの二人ばっかり狙ってねぇか?」
ナツミは唇を噛んで困惑気味に答える。
「うん……でも、証拠がないし、あからさまに変だって言えないよ」
「まあな……」
コウタはそう言いながら、さりげなく鞄の中へ視線を落とす。
彼のスマホには、以前この学校の資料室で見つけた不穏なメモの写真が保存されている。
そこには、榎本を示すイニシャルらしきサインと、シンやユキを連想させる“被験体”の記録が映し出されていた。
(でも……このまま黙ってても、シンとユキがどうにかなっちまうんじゃねえか)
コウタはそう強く思い、拳を握る。
◇◇◇
――放課後。
「なあ、ナツミ、ちょっとこっち来て」
コウタがナツミを呼び、校内の倉庫へ再び足を運ぶ。
周囲には誰の気配もなく、段ボールや古い棚が埃まみれで並んでいる。
ナツミが眉をひそめながらコウタの後ろをついていく。
「ねえ、コウタ。またここの資料、探すつもり?」
「そう。前に撮ったやつだけじゃ心もとないし、補足情報が必要かもしれないだろ」
コウタは懐中電灯のスイッチをつけ、倉庫の暗がりを照らした。
ナツミも仕方なさそうに頷く。
「わたしも、シンやユキの様子を見てると、何か動かないと……って思う」
ナツミは箱の隅を調べながら呟く。
「今朝もシンが、打ち合わせの日時を完全に忘れてた。ユキも頭痛ばっかで、教室でもあんまり喋らないし……」
「だよな。俺もあいつらのために、できることはしたいし……榎本先生が怪しいって分かってるなら、この学校にまだ資料が残ってるかもしれねぇ」
コウタとナツミは散乱した書類を一枚一枚めくり、段ボールの奥底にあるファイルを引っ張り出す。
そのとき――ナツミの目が止まった。
「あれ……コウタ、これ見て」
ナツミが取り出したのは、黄色く変色しかけた紙の束だ。
そこには大きく「児童心理研究レポート」「特別支援センター」と書かれている。
「『被験体No.07』『フェーズ2』とか書いてある。……これ、見ろよ、『念動力』『感情読心』……副作用に『記憶欠落』『感情麻痺』だって」
「これ……もしかして、シンとユキのこと?」
ナツミが凍りついた声で尋ね、コウタは険しい表情を崩さずに頷く。
「やっぱり、あの二人は小さい頃から施設の実験に使われてたのかも……しかも、ここに『榎本』っぽいイニシャルもある」
コウタは唇をぎゅっと噛み、思わず紙を握りしめそうになるが、ナツミが止める。
「ちょっと、破れちゃう……。こっちはスマホで写真撮ろう」
ナツミはスマホを取り出し、手ブレしないように丁寧に書類を撮影していく。
コウタは倉庫の扉を警戒しながら見張っている。
「……これ、ヤバいな。文化祭で忙しいってのに、こんなの見ちゃったら気が気じゃねぇ」
「でも、シンとユキには知らせるしかないよ。ほっといたら、あの保健医がもっと変なことするかもしれない」
二人は目を合わせ、黙って頷く。
今こそ彼らの秘密を明かすときが来たのかもしれない。
◇◇◇
一方その頃、昇降口ではシンとユキが一緒に下校しようとしていた。
シンは相変わらずノートに書いたメモを確認しつつ、ユキの表情を窺う。
ユキは俯きがちで歩みが遅い。
「……ユキ、大丈夫か?」
シンがやや小さな声で訊ねる。
ユキはそっと目を上げ、どこか空虚な瞳を向けた。
「ごめん……わたし、何もできないし、足手まといばかりだと思う」
その言葉はいつも以上に弱々しい。
ユキは人混みでのノイズを受け続けて頭痛が絶えないし、文化祭のための細かい準備もままならない。
「何もできないなんて、そんなことないよ。……むしろ、こうして一緒にいてくれるだけで、俺は助かるんだ」
シンは真剣な眼差しでユキを見つめる。
「……シンは、優しいね」
ユキはそう言いながら顔を伏せた。
彼女の黒髪が頬を隠して、表情が読めなくなる。
「優しいってわけじゃないさ。……ただ、いつか俺が何も思い出せなくなっても、ユキがそばにいてくれたら……って、思うんだ」
シンは自分が馬鹿なことを言っていると自覚しつつ、それでも口にせずにはいられない。
記憶が飛んでいく恐怖を感じながら、彼は必死に何かにすがろうとしていた。
「……そば、に?」
ユキはまぶたを伏せ、微かな息を吐く。
胸の内には、読心で受け取ったシンの“不安”と“優しさ”が絡み合って伝わってくるはずだが、今の彼女は自分の感情がはっきり分からない。
「うん。……でも無理はしなくていいんだ。ユキが辛いなら、俺……もっと努力するから」
「……何に努力するの?」
「え……と、その、忘れないようにメモするとか……。いや、わからないけど、何でも!」
シンの言葉にユキはほんの少しだけ、唇の端を震わせる。笑うでもなく、怒るでもない、曖昧な動き。
「……変な人」
「かもな……」
そうして二人は黙りこくったまま校門を出る。
互いに傷を抱えた者同士が、どうにもならない現実の中で寄り添おうとしている――そんなぎこちない空気が流れていた。
◇◇◇
校外の人気の少ない場所で、榎本真理がスーツ姿の男と向かい合っていた。
男は四十代前半ほどに見え、無機質な眼鏡をかけている。
研究施設の関係者だ。
「進捗はどうなっている?」
男は低い声で問う。
榎本は苦い表情で背筋を伸ばしながら、小さく息をつく。
「シンくんやユキさんは、もう限界に近い。これ以上は……」
「それを確かめるのが我々の任務だ。文化祭の日こそが絶好の機会だろう。彼らが能力を使う状況を用意して、データを収集する。それが最終段階だ」
「しかし、彼らが壊れてしまったら……」
榎本が声を震わせると、男は冷ややかに言い放つ。
「壊れるかどうか、それもデータだ。被験体としての役割をまっとうしてもらう。君も協力する義務があるだろう?」
「……わかっています。しかし……」
榎本は言葉を詰まらせる。
男は更に追い打ちをかけるように口を開く。
「抵抗するなら、過去の研究協力の件で君も責任を問われる。覚悟はできているんだろうな?」
「……はい」
榎本は小さく頷くしかない。
記憶を失いつつあるシン、感情を失いつつあるユキ。
その姿を目の当たりにしながらも、施設の指示に逆らえない――その葛藤が、彼女の胸に暗い影を落としていた。
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