第5章「記憶がすり抜ける夜」(1)

 シンはかすれた声でそう呟きながら、机の上や引き出し、そしてベッドの下まで必死に探す。

 前夜に書いたはずの“メモ”がない。

 何に書いたのか、どんな用紙だったのかすら曖昧だ。

 書き留めておかなければならないと思ったことだけは覚えているのに、実際の紙も思い出も、まるごと霧散しているようだった。


「シン、もう朝ごはん冷めてるわよ!」


 部屋の外から母親の声が届く。

 母親は最近のシンの様子を見て不安が増しているらしく、声にも微妙な緊迫感が混ざる。


「今行くよ……」


 シンは肩を落とし、小さくため息をついた。

 シンには念動力という特殊な“力”がある。

 しかし、そのせいで能力を使うたびに記憶が抜け落ちている可能性があるのだ。

 自分でもいつからこんな力を持っていたのか、正確には覚えていない。

 物心ついたときには既に小さな超常現象を引き起こしていた記憶もあるが、それがどこまで事実なのか曖昧なのも事実だった。


「やばい……最近、どんどんひどくなってる気がする……」


 鞄の中身を確認しようとファスナーを開くが、教科書が揃っているか不安で仕方がない。

 それでも母親をさらに心配させたくない思いから、一応は全部あると信じることにして、下へ降りる。


「おはよう。ねえ、本当に忘れ物ないの?」


 キッチンから顔を出す母親が軽く眉を寄せる。

 母親はシンの顔色を見て、「こんなにやつれた顔の我が子は初めて見る」と言わんばかりに心配そうだ。

 シンは無理やり笑顔を作る。


「平気……多分ね。ありがとう、母さん。行ってくるよ」

「具合悪いなら休んだら……」

「大丈夫、大丈夫。行かないと……」


 シンは曖昧にごまかし、トーストだけを口に押し込み、慌ただしく玄関へ。

 そこでふと自分が家を出る時間を忘れそうになり、「あれ、いつもって何時に……」と呟いてしまうが、母親が「七時半でしょ?」とやや強めに答え、「ほんと、心配だわ……」と呟く。

 シンは苦笑いするしかない。


(自分でもヤバいと思う。でも、母さんがさらに心配するのは嫌だし……ここは何とか持ちこたえないと)


 そう思いながら家を出る。

 外へ出ると朝の風が心地よいはずなのに、頭痛で全く爽快感がない。

 途中、御影コウタが追いついてきた。


「おいシン、今日も顔色悪いって。マジ大丈夫かよ」

「ああ……コウタ。ごめん、心配かけて」

「昨日のお前さ、小テスト受けたのに全然覚えてないのヤバいだろ! 『テストなんてあった?』とか言ってたし……」

「そ、そうなんだ……ごめん、本当に思い出せない」

「とりあえず保健室行っとけよ? 行くなら付き合うからさ」

「うん、ありがとう」


 通学路には同じ高校の生徒らしき姿が点々と見える。

 街には坂も多く、朝から軽く体力を削られるが、シンにはそんな些細な疲労感よりも、記憶が抜け落ちている恐怖の方が重大だった。


 ◇


 学校に到着すると、二人は教室に向かう。

 そこにはクラスメイトたちが賑やかにおしゃべりをしている。

 風間ナツミの明るい声が特に目立つ。


 「はいはーい、みんな席ついて! ホームルーム始まるわよ!」とナツミがやや大げさに手を振っている。

 「ナツミ、朝から元気だな……」とコウタがぼやく。

 するとナツミが「なにさ、コウタ! あんたこそテンション低いじゃん。シンと一緒に居眠りでもしてた?」と返す。

 周囲がクスクス笑うが、コウタは苦々しい顔。


「いや、シンが……また色々忘れててさ……」

「ちょっとシン、ノート返してくれたっけ? 貸したの覚えてる?」


 ナツミがシンを振り返る。

 シンは「あれ……ノート……?」と言葉に詰まる。

 「ほんとシャレになんないよ……この前も中間テストの日すら忘れてたし……」とナツミは真顔で訴えた。

 コウタは「俺もやばいと思うんだ」と頷く。

 シンは気まずいまま「ごめん……」としか言えない。


 ◇◇◇


 黒江ユキは、シンたちの様子を離れた席からクールに見つめていた。

 セミロングの黒髪をすっと下ろし、整った顔立ちで制服をきちんと着こなしている。

 その表情はほとんど動かないため、クラスでは「近寄りがたい美少女」と思われている。

 しかしユキには、周囲の感情を“波”として感じ取ってしまう能力があった。

 それゆえ自分の感情が徐々に消えている――そう感じており、いつも控えめに行動していた。


(彼……周りに迷惑かけて……彼自身も、どうしようもなく焦ってる)


 ユキは胸を押さえ、視線を机に落とす。

 強い感情が飛び交う教室だと頭がキリキリと痛む。

 ユキはシンに声をかけたい衝動に駆られながらも、言葉にできず、唇を結んだままノートを開いた。


 ◇◇◇


 一時間目の途中、シンは頭を抱え込み、どうにも授業に集中できない。

 教科書をめくっても、手元のノートに「テスト」「ノート借りた」と自分で書いた形跡があるのに、その記憶がない。

 息苦しさと頭痛が増し、思わず挙手して「すみません……保健室行かせてください」と申し出る。

 教師も「無理はするなよ」と背中を押す。

 クラスメイトがざわつく中、シンはよろめきながら教室を出る。

 廊下に出ると、コウタが「大丈夫かよ」と小声で声をかけるが、シンは「一人で行くから……ありがとう」と弱く微笑んで断る。

 コウタは引き止めたい気持ちをこらえて見送った。


 ◇


 保健室のドアを開けると、そこには榎本真理が控えていた。

 榎本は白衣を着て落ち着いた雰囲気をかもしている。

 まるでどんな事態にも動じないクールさがあり、生徒からは「優しい先生」として好印象を持たれていた。


「また来たのね。どうしたの? 頭痛?」


 シンは肩を落とし、「はい……ちょっと耐えられなくて」と返す。

 榎本はニコリと微笑み、「ベッドに横になっていいわよ」と勧める。

 シンが遠慮がちに腰を下ろすと、榎本は椅子を引き寄せ、「最近、毎日のように来るじゃない。何か悩みがあるなら話してほしいんだけど……」と探るように言葉を投げる。


「大丈夫です、ほんと……ちょっと寝不足かもしれないし……」


 そう言いながらシンは心のうちで(先生は何か知っているんだろうか……)と微かな違和感を覚える。

 榎本は表情を崩さずに「何か思い当たる原因はない? 友人関係とか、家族との問題とか……」としつこく聞いてくる。

 シンは「いや、特に……」と曖昧に答えるしかない。


「そっか……まあ、無理はしないで。どうにもならなくなったらちゃんと言うのよ?」


 榎本は優しげな声だが、その瞳はどこか鋭く光り、シンを観察しているように感じる。

 シンは深く頭を下げ、「ありがとうございます」と言ってベッドから立ち上がる。

 薬をもらうでもなく、その場に居続けるのが怖くて逃げるように保健室を出た。


 ◇


 昼休みが終わり、午後の授業が始まろうという頃。

 シンは相変わらず頭痛と混乱を抱え、ノートの文字を追っても意味を掴めずにいる。

 するとチャイムが鳴った直後、廊下にたユキと偶然顔を合わせた。

 ユキは無表情で立っているが、シンを見ると少しだけ視線を動かした。

 コウタとナツミが「先に戻るよ」と去ったあと、ユキが口を開く。

 「本当に覚えてないの……?」と抑揚のない声。

 シンは「え?」と聞き返し、ユキは静かに目を伏せてから、「いろいろなこと、昨日のこともテストのことも」と言う。


「うん……覚えてない。自分でも怖いんだ。何でこんなに色々忘れるのか、わからなくて……」


 シンが顔をしかめてそう打ち明けると、ユキは少し間をおいて「“怖い”って思えるなら、まだ感情がある証拠だよ……」と呟く。

 シンは意味を掴めず、「え?」と首をかしげるが、ユキは「何でもない……」と目をそらしてしまう。

 しかしシンには、ほんのわずかにユキの声が震えたように聞こえた。


「君も……何か悩んでるの? 表情がないように見えるけど……本当は……」

「わからない。私も自分がどうしたいのか……」


 ユキは短く言い、話を打ち切るように踵を返すのだった。

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