第4章「手がかりと不安の狭間で」(2)

 放課後。

 シンは頭痛が限界を超えそうになり、コウタたちと別れ一人で保健室へ向かった。

 薄暗い廊下を歩く中、視界が揺れるような感覚と、こめかみを刺す痛みが交互に訪れる。

 扉を開けると、白衣を着た榎本真理が笑顔で振り向いた。


「また来たのね。これで何回目かしら? 大丈夫?」

「すみません、頭痛が止まらなくて……」


 榎本はシンに対してはいつも優しいが、ときどき冷ややかとも感じられる視線を見せる。

 保健室奥の棚にファイルをしまいながら、榎本は「心当たりはあるの?」と問診を続ける。


「実は、“特別支援センター”のパンフみたいなのを見てから、ずっと頭痛がひどくて……もしかしたら俺、昔そこに通ってたのかなって」

「特別支援センター……ね。どんな施設かしら? 詳しくは知らないの?」

「はい、見たのは図書室で見つけたボロボロの切れ端だけなんです。児童心理研究とか書かれてて……なんか、気になるんだけど思い出せなくて……」


 榎本が目を細め「そう……」と呟く。

 その一言が妙に重く響き、シンは「先生、何か知ってるんですか?」と聞きたくなるが、榎本の表情がすぐに柔らかい笑みに戻ったため言葉に詰まる。


「まあ、あまり無理しないほうがいいわ。記憶を急に探ろうとすると、かえってストレスになることもあるし。頭痛薬、まだ持ってる?」

「あ、すみません……もう一回分、ください……」


 榎本が薬を手渡し、シンは礼を言ってベッドに腰を下ろす。

 榎本は書類をまとめながら、机の上に何かのロゴのファイルを置いているのをサッと隠したように見えた。

 シンの視界は揺らぎつつも、それを見逃さなかったが、強い頭痛に妨げられて深く追及できない。


 ◇


 薬を飲んで少し落ち着いたシンは夜遅くに帰宅し、リビングへ入った。

 母親が「遅かったわね。何かあったの?」と問うが、シンは「いや、学校の用事……」と曖昧に答える。

 母親は心配するが、シンは「もう部屋に行く……」と素っ気なく言ってしまう。


「シン、何かあったんじゃないの? 最近ずっと様子がおかしいし……。昔あんたが“特別なカウンセリング”を受けてた頃を思い出すわ」

「え? 何それ……」

「えっ……あ、ごめんなさいね。何でもない。気にしないで」


 母親は口をつぐみ、気まずい空気が流れる。

 シンは「特別なカウンセリングって……俺、昔何か病気でも?」と追及しようとするが、母親は「ごめん、ごめん」と勢いよく謝り、キッチンに逃げるように移動してしまう。

 シンは苛立ちで胸が痛むが、問い詰め方もわからず部屋へ向かった。


(母さん……明らかに何か隠してる。特別支援センターのことも知ってるんじゃ……俺が小さい頃、施設に通ってたのか?)


 扉を閉めたあと、母親の呟く「シン……ごめんね……」という声がかすかに聞こえたが、どう答えていいかもわからない。

 親子で大きく対立こそしていないが、確実に溝が生まれ始めているのを、シンは感じるのだった。


 ◇


 夜も遅くなり、シンは部屋で課題に取りかかろうとするが、頭が痛くノートの文字が霞んで読めない。

 ため息をつきながら自作のメモ帳を開き、今日の出来事をメモしようとするも、書くべき内容が散逸しているのを痛感する。


「俺、今日は放課後に何してた? 保健室に行った回数とか、誰と話したかとか、ちゃんと覚えられてない……」


 スマホのメモアプリを開いても、断片的なキーワードだけで整合性が取れない。

 「榎本先生」「特別支援センター」「研究……」等々。

 頭痛は治まらず、視線が上下に揺らぐ。

 鏡に映った自分を見ると、まるで別人のように血色が悪い。


「これ……ほんとにまずいな……。忘れるたびに記憶が飛んでる感じがする……。母さんに聞いても逃げられるし、榎本先生も……何か隠してるけど教えてくれない……」


 声にならない声で呟き、机に突っ伏す。

 目をつむると、昨夜のフラッシュバックの映像がうっすら蘇る。

 白衣を着た大人が何かの装置を操作し、子どもらしき自分にセンサーを付けているような――そんな記憶。

 どこの施設かもわからないが、まさか“念動力”のための研究だったのか? 思考は堂々巡りで答えが出ない。

 そして、シンはユキの表情をおぼろげながら思い出す。


(彼女のあのときの表情……眉がわずかに動いた気がした。もしかして彼女も“施設”に通ってたとか……? 俺と同じ境遇? 考えすぎかもしれないけど……)


 いずれにせよ、何ひとつ証拠も確信もない。

 シンは疲れきり、布団に転がって天井を睨む。

 カーテンの隙間から微かな風が入り、デスク上の紙がさざめく音がするたび、無意識に「もし念動力で動かしてるならどうしよう……」と怯えてしまう。


「これ、どうすりゃいいんだ……。いつか全部忘れちゃうんじゃないか、俺……」


 不安と眠気が混じり合いながら意識が遠のいていく。

 脳内にはユキの冷たい瞳や、榎本の意味深な笑顔、母親のすまなそうな顔が浮かんでは消える。

 次に目覚めたとき、何をどれだけ覚えているのかさえわからない――それがシンの恐怖だった。


 ◇◇◇


 黒江ユキは自宅のシンプルな部屋で教科書を眺めながら、シンの表情を思い出していた。

 読心力で拾った“深い不安”が胸に引っかかるが、自分自身の感情はまるで動かない。

 頭痛に近い感覚が波を立て、「彼が苦しんでいることだけはわかる。でも私には関係ない……はず……」と自分に言い聞かせた。


 ◇◇◇


 榎本真理は保健室のパソコンで研究資料を見つめ、シンやユキのデータをまとめながら提出を躊躇していた。

 榎本は施設から「被験体の状況を定期的に報告せよ」と指示されているが、教師として彼らを“実験台”に差し出すことへ罪悪感を抱えている。

 まだ報告は送らず、「どうすればいい……」と独り言をこぼすのだった。


 ◇◇◇


 夜は静まり返り、街灯がまばらに光る。

 シンの家の周辺も人通りがなく、カーテンを閉めきった二階の部屋だけが微かな明かりをともしているが、シン本人は半分眠ってしまったのか、うっすらと意識が沈む中で「……ただの物忘れじゃない……」と呟く。

 風が吹き、机上の紙を揺らした気配に気づかぬまま、シンは闇へ落ちていくのだった。

 

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