第1章「静かな違和感」(2)

 朝のホームルームが終わり、ざわつく教室で御影コウタが「シン、プリント回収したか?」と声を張り上げた。

 

「え? プリント? あ、また忘れたかも……」

「おいおい、シン、またかよ。何度目だ? さっき先生が『回収してくれ』って言ったばかりじゃんか」

「ごめん、コウタ……ちょっと頭が回ってない。スマホにメモしたはずなんだけど……」


 白山シンは、眉を下げてスマホを探す姿は“頼りない”印象を与えている。

 朝から紙のノートやスマホのメモを開いたり閉じたりを繰り返し、「やばい……やばい……」を連呼しながらオロオロしていたのだ。


「シン、大丈夫? また物忘れ? あんた、今朝だって教科書を置きっぱなしだったし」


 風間ナツミが斜め後ろの席から口を出す。


「うん……自分でも何やってんだか……最近ホントひどくて……。えっと、プリントは……あ、これかな……?」

「それ、違うって。先生に出すやつは別のやつだろ」

「ごめんコウタ……もうちょっと探させて……」


 シンが汗をかきつつ机の奥を探っていると、ホームルームを終えた担任が「白山、さっき配ったプリントどこいった?」と声をかけてきた。


「すみません先生、すぐ持っていきます……」

「頼むぞ。次のホームルームまでにみんなの分集めてくれ」

「はい……!」


 コウタとナツミが「しっかりしろよー」とため息をつくなか、シンはなんとかプリントを発見し、「あ、あった!」と安堵の声を上げる。

 だが、心の中では別の不安が渦巻いていた。


(最近やたらと抜け落ちるな……記憶が欠けてるっていうか……)


 そんな彼の思考をよそに、チャイムが鳴って次の授業が始まる。


 ◇


 そして放課後。

 生徒たちが部活動へ向かったり、友人同士で遊びの計画を立てたりと賑やかな雰囲気の中、シンはふとメモを見直して「あ、そうだ、先生に言われたプリントの追加分……取りに行かなきゃ……」と立ち上がる。


「プリント追加? どれだよ?」

「いや、先生が職員室で間違い分を刷ってくれたみたいで……」

「なら行ってこいよ。忘れんなよー」


 コウタが苦笑まじりに背を押す。

 ナツミは「さっき職員室行ったとき、先生が『白山、どこ行った?』って言ってたよ」と肩をすくめる。

 シンは頭を抱えて廊下へ出た。


 ◇


 誰もいなくなった教室に戻ると、後ろのほうで棚の上に乗せてあった荷物が不安定に積み重なっているのが目に留まる。


「うわ、あれ危ないな……落ちたらやばいんじゃ……」


 そう思った瞬間、バランスが崩れたのか、大きめの段ボール箱がずるりと滑り落ちかける。

 シンは反射的に駆け寄り、手を伸ばした。


「やべっ、落ちる……っ!」


 その瞬間、箱が空中で一瞬停止するように見えた。

 まるで空間がスローモーションになったかのように、落下の速度が緩む。

 だが、シンの心拍は急上昇し、頭の奥がズキリと痛んだ。


(またか……こんなの、ただの偶然じゃない……この“力”のせいなのか……)


 視界がぼやけながらも、シンは箱を抱えるように受け止め、床へそっと降ろした。


「……痛っ……頭が……くそっ、やっぱり使うとこうなるんだ……」


 自分の“念動力”と呼ぶしかない力を使うと、必ず頭痛が起きる。

 しかも近頃は物忘れも連動するかのように悪化していた。

 何かが決定的におかしい――それを自覚しながらも、シンは誰にも打ち明けられないままでいた。


 すると、教室の入り口から静かな足音が響き、黒江ユキがひょっこり姿を見せた。

 その表情には冷たい無表情が浮かんでいる。


「大丈夫……?」


 ユキの声は淡々としているが、その瞳の奥で微かな興味を示すようにも見える。

 シンは手を振りながら「うん、なんとかなった……ちょっと頭痛がして……」と答える。


「頭が痛いのは、前から?」

「まあ、そんな感じ……。あれ、俺、何か落としたかな……」


 ユキは目線を巡らせ、首を振る。


「落としてないと思う。あなたが持ってるプリント以外は何も……」

「そっか……ありがと。ごめん、変なとこ見せちゃって……」

「別に……あまり無理しないほうがいいんじゃない」


 そう言い残し、ユキは踵を返す。

 シンはその背中を追いかけるように小さく声をかける。


「黒江さん……あの、名前、合ってるかな? えっと……ユキ……」

「そう……何か用?」

「いや……ごめん。なんか……笑顔もないし、怒ってるのかもって思ったけど……そうでもないのかなって……」

「怒ってない……よく言われるけど、ただ表情があまり出ないだけ」


 ユキの返事は短く、そして寂しげな色が混じる。

 “表情が出ない”――。

 それはまるで何かを失っているかのような響きで、シンの胸をざわめかせる。


「そっか……ごめん……ありがとう、声かけてくれて……」

「ううん。気にしないで」


 ユキはかすかに目を伏せたが、そこに悲しみの影を見た気がして、シンは思わず息を呑む。

 だが、彼女はもう会話を続けるつもりもなく、教室を出ていく。


(あの瞳……無表情なのに、どこか悲しそう……。どうして気になるんだろう……)


 シンは頭痛をこらえながら静かにプリントを回収した。


 ◇


 しばらくして、友人たちに促されシンは保健室へ向かった。

 最近の頭痛や物忘れは尋常ではないからだった。

 保健室の扉を開けると、新任の保健医・榎本真理が笑顔で迎えてくれた。

 ショートヘアに白衣を羽織っている。

 落ち着いた声色が印象的だ。


「どうしたの? 顔が青いけど、頭痛かしら?」

「ええ、ちょっとクラクラしちゃって……すみません……」

「疲れでもたまってるの? 最近、何か気になることはない?」


 榎本は優しく微笑むが、その瞳に探るような光が宿っている。

 シンが「いや、特には……」と苦笑いすると、彼女は「ふうん……」と呟き、小さく頷いた。


「じゃあ無理しないでね。ベッドで少し休んでいいわよ。何かあったらすぐ呼んで」

「はい、すみません……ありがとうございます……」


 シンは礼を言いつつベッドに座るが、ふと棚の奥を見やると“研究施設”と書かれたファイルの背表紙がちらりと目に入る。

 すると榎本がすっと横に立ち、視線をふさぐようにして「大丈夫?」と気づかれぬように振る舞う。

 奇妙な違和感を抱きながらも頭痛がおさまらず、シンはベッドうえで横になるのだった。


 ◇


 日が傾き始めた頃、シンが帰り支度をしていると、コウタが「おい、シン、倒れたりすんなよ?」と軽口を叩く。

 ナツミも「ほんとよ、あんたがボーッとしてたら私たちがフォローしなきゃいけないんだから」と呆れ顔。


「わかってる……迷惑かけてごめん……」

「大丈夫大丈夫、そんな深刻そうな顔すんなって」

「そうだよ、シン。あたしやコウタがついてるし」


 二人のやり取りに励まされ、シンはスマホのメモを確認する。

 また何かを忘れないように、今日のトラブルや頭痛の状況、ユキと少しだけ話したことまで短く記録する。

 その行為が自分を落ち着かせる唯一の術だった。


 (でも、これ以上忘れたら……俺、一体どうなるんだ……)


 不安がちらつく。

 コウタが「じゃあ先に行くわ」とナツミとともに廊下へ向かう。

 シンは後ろを振り返ると、そこに黒江ユキの後ろ姿があった。

 シンは声をかけるきっかけがつかめない。

 遠くで誰かが笑い合う声が響く中、彼女だけはひとり淡々と歩いていく。

 まるで周囲の喧噪が自分には関係ないと言わんばかりに、背筋を伸ばし、表情を変えずに。


「シン、どうした?」

「なんか、放っておけない気はするんだけど……」

「まあ、向こうが一人で帰りたいなら無理するなって」


 コウタに促され、シンは門を出る。

 一瞬振り返ると、ユキの姿はもう見えない。


(どうしてあの子のことがこんなに気になるんだろう……俺も自分のことで手一杯なのに……)


 胸に渦巻くざわつきを言葉にできぬまま、シンは小さく嘆息して歩き出す。

 記憶が抜け落ちる恐怖、原因不明の頭痛。

 そしてユキの瞳――無表情の奥に宿る悲しみ。

 まるで何かを失ったまま、生きているような瞳。

 シンはあの光景を思い出すたび、胸が締めつけられるように痛むのだ。


 そんな彼の心情を知らぬまま、周囲のクラスメイトは賑やかに放課後を楽しんでいる。

 黒江ユキのことなど気にも留めないように、部活や買い物の予定を楽しげに話している。

 シンはその声を遠くに聞きながら、またスマホのメモをそっと開いて今日の出来事を確認する。


「俺、さっき何を……ああ、そうだ……念のため書いとこう……」


 だが指が止まる。

 頭の中から零れ落ちていくような感覚。

 シンは震える唇で小さく言う。


「……やっぱり、ただの物忘れじゃ、ないんだろうな……」


 夕焼けに染まる校舎を振り返り、彼は最後にユキの後ろ姿を思い浮かべる。

 ひとりで歩く彼女の姿が、なぜこんなにも胸をざわつかせるのか――わからない。

 でも、いつか確かめたいという思いが湧いてくるのだった。


 ◇◇◇


 その頃、ユキは人気の少ない道を黙々と歩いていた。

 表情はない。

 けれど心の中で少しだけ疑問を抱いている。


(どうして、あの人の笑顔が気になるんだろう……。私は……何も感じないはずなのに。)


 細い息を吐き、瞳を伏せる。

 夕陽の暖かさも、街の喧噪も、彼女にはまるで他人事のよう。

 ただ、ほんのかすかな“何か”が心をかすめる。

 その小さな違和感が、無表情な胸の奥で確実に芽生え始めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る