白い手
香久山 ゆみ
白い手
友人は、蛇は苦手だと言った。
かつて山登りをした際、急斜面の岩場で要所に先達がロープを張ってくれていた。積る濡れ落ち葉に足が取られるし、なにより友人はまだ子供で手足の長さも十分ではなかったから、ロープを手繰りながら慎重に登っていた。足元に気がいっていたものと思われる。
次のロープを掴んだ瞬間、ぬるりとした手応えに思わず手を離した。
さいわい尻餅をつくに留まったが、顔を上げた瞬間ぞっとした。彼が掴んだのはロープではなく、蛇だった。
蛇の方も動転したと見えて、しゅるしゅると山道脇の藪の中へ姿を消したという。
確かに嫌な体験ではあろうが、なにもそんなに蒼ざめることもあるまい。そう問うと、友人は少しためらった後に、話を続けた。
掴んだ蛇は捕食の途中だったようで、だからこそやすやす彼に掴まれたのだろう。ぬるりと長い胴体を掴んだ瞬間、蛇の口から一瞬何かが吐き戻されるのが見えた。
ちろり、と蛇の口から覗いたのは白い手だった。
その手は助けを求めるように上下に動いたが、すぐにまた蛇の口の中へ戻って行った。
見てしまった。彼はその場から動けなかった。
先を行っていた父親が引き返してきて、ようやく逃げるようにその場を去った。その後は父のあとにぴったりくっついて離れず、無事下山するまでの記憶はおぼろげだという。
結局父には話せなかった。話したところで信じてもらえまい。そもそも自分とて落ち着いて考えれば、あの手はヤモリか何かだったのだろうと思う。火焔茸を人の手と見紛うようなものだ。人間を食らう程の大きさの蛇などありえないのだし。
けれど思い出すほどに、頭の中の蛇はどんどん大きく膨れ上がり、やはりあれは人間の手だったのではないかという気がする。脳裏にこびりつくあの白い手、小さな爪まではっきりと蘇る。こちらに向かって手を振っていた。あれは、助けを求めるのではなく、呼んでいたのではないか。
蛇に出くわす前、友人は名前を呼ばれて返事したのだという。確かに自分の名が呼ばれたから返事したのに、父親は呼んでいないと言った。
いや、それさえも何度も繰返し見るようになった悪夢の中での出来事かもしれない。
あれ以来、蛇の夢を見るようになった。恐怖心のせいか、見るたび蛇は大きくなっているようだ。成人した今でも時折夢に出る。
そうして、先日見た夢ではついに、大人の男を丸呑みできるくらいに蛇は大きくなっていたのだと、彼は真っ白な顔をして言った。
白い手 香久山 ゆみ @kaguyamayumi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます