あこがれ

カッコー

第1話

いつのまにか、時間は過ぎていた。

それは彼がそれを意識するよりもずっと早く過ぎ去って行っていた。

彼がそれに気づいたのは、会社が彼を解雇したときのことだった。何故自分が会社を去らなければならないのか、彼には最初解からなかった。

彼はその会社でもう60年勤めていた。彼の仕事は魚を卸す仕事だった。小さなアジから100キロを超えるマグロまで彼は卸した。彼の包丁は早く、そのスピードは今までどんな若いパワーのある板前たちにも負けたことがない。彼は18のときに板前の道に入った。料理のことなど何も知らなかったし、それが好きな道なのかどうかも解らなかった。でも、小さな頃から真面目だった彼はやはり真面目に料理と向き合った。10年かかって、彼は一人前の板前になっていた。10年と言う時間で一人前になると言うのは早い方だ。板前の仕事は大変だった。毎分、毎時間がきつかった。私事に気を取られてる暇などなかった。趣味も恋愛も無縁の世界だった。然し彼はそれに耐えた。歯を食いしばって耐えた。けれどそれは決して自分一人の力で成し遂げたことではないのを彼は解っていた。この10年の日々の一日一日に、周りの仲間たちの様々な言動が彼を支え続けたのだ。もしその人たちいなかったらと、彼はよく思った。

彼は40になっていた。彼の腕を得とくしようと下に若い板前が次々と入ってきた。彼は若い板前たちに親身になって料理を教えた。出汁の取り方から天ぷらの揚げ方までしっかりと、丁寧に教えた。そのうちに、料理の腕が彼を超える者が現れ始めたのだ。出汁の取り方、野菜の煮方、魚の焼き方、揚げ物の頃合い、それらの技を若者たちの腕は彼を上回っていった。そうなると彼らは彼の元を去って行った。然しその中で一人だけ彼の元に残った者がいた。その若者は口には出さなかったけれどこう思っていた。確かに料理の腕は師匠を超えた。でも魚を卸すスピードと正確さはまだまだ師匠に追いついてもいない。自分は包丁でも師匠を超えたいと。

それから38年が過ぎていった。時代は変わっていた。料理の世界も随分と変わった。様々な器械が開発され、オートメーション化がなされていった。何処かの指導者が無茶な政策を推し進めたため、インフレが起き、それまでのままでは料理業界も立ち行かなくなっていた。

彼はその間も黙々と魚をより早く、正確に卸し続けていた。料理は腕のいい若者に任せていた。然し不況の波は会社をどうしようもなく追い詰めた。そして会社は彼を切ったのだ。人件費削減に踏み込んだのだ。

彼は人事部に呼ばれ解雇を通達された。然しそれは彼には納得がいかない事だった。確かに料理の腕は今の調理長の方がいいのだろう。しかし魚を卸すスピードと正確さは今まで誰にも負けずに来たのだ。初めて彼は会社に異議を申し立てた。会社は営業の現状を彼に告げた。そしてこうも言った。

あなたより早く、正確に魚を卸す機械ができたのだと。それにあなたはもう78歳だと。彼はそれを聞いて愕然となった。自分がそんな歳になっていたなんて、思いもしなかったのだ。もう自分には、趣味をみつけることも、家庭を持つこともできないのかと。彼より優れた機械ができたことは仕方がないと諦めがついた。でも、自分はいったい何時そんな歳になってしまったのか、彼には想像もつかなかった。それから間もなくして、彼がその場所を去る日がやって来た。彼は厨房の神棚に手を合わせて、今まで無事に仕事ができたことのお礼を告げた。幾つかの包丁を手にとり、丁寧にさらしに巻いて、鞄に収めた。自分はこの場所に60年もいたのだと、その時初めて実感した。誰にも会いたくはなかったから、彼は朝早くここに来たのだ。その日はよく晴れた春の暖かい日だった。それだけで彼は良かった。彼は厨房に深々と頭さげて、ありがとうと呟いた。そしてドアを開け外に出た。

彼は目を見張って驚いた。目の前に大勢の人々が集まって、彼の方を見ながら拍手をし、口々にありがとうと言いながら涙を流していたからだ。彼はよく見ると皆んな知っている顔ばかりだった。それは今の仕事場の面々だったり、かつて彼が料理を教えた若者たちだったりしたのだ。その時彼の心の中に、初めて60年の長い年月の一瞬一瞬が湧き上がって来た。

ああ、そうか、俺はこんな人生を生きてきたんだと、彼は思った。

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あこがれ カッコー @nemurukame

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