第32話 橋の上で
人が増える前に水族館から抜け出し、水族館を撫でるように海へ続く道を通って、海辺に向かう。
水族館に比べればやけに静かな道を通りながら、海風を感じる。
目の前を歩く先輩を見つめながら、ほんの少しだけ思考を飛ばす。
先輩にどう切り出せばいいのだろうか。
萩野唯の物語を、語る気は無かった。
だから、なんて話せばいいのか分からない。
じぶんを少しでも良く見せようとか、そんな意図があるわけでは無い。先輩の望むように、都合のいいように変わる気なんて、無い。
少し前に感じた小説家のような悩みが、再び自分に襲い掛かっていた。
先輩にすべてを打ち明けて、子供のように泣きついてしまいたいという欲に必死に抗う。
今の関係はあくまで、先輩がわたしを必要としているから存在している関係だ。先輩が成長して、わたしが必要でなくなれば、きっと、この関係は終わる。
いや、先輩が成長しなくても、タイムリミットがある。
わたしが高校を卒業して、茨城に帰るとき――いや、先輩が卒業する時かもしれない。
先輩がわたしと離れ離れになれば、先輩はわたしに頼れなくなる。
そうしたら自然と寂しさか何かを埋めるために友人を作り、恋人を作り、家族を作るのだろう。
先輩が本当に女性を愛する人なのかはわからないけれど、自分が思い浮かべた未来の先輩の隣にいるのが男でも女で、別にどうでもいいことだ。
先輩に必要なのは、先輩の隣で寄り添える人。
それはきっと自分じゃなくてもいい。
それでも、先輩の隣に居るのが自分であってほしいと思った。
どこまで行っても所詮、わたしは自分勝手な人間なのだ。
そこまで考えて、ふと前を見ると、視界が開けていた。
真っ青な海だ。
しかし、故郷のそれと違う海だ。
海の向こうには陸地も見えるし、視界の前には長い橋と、それによって浜と繋げられた小さな島だ。
島に向かって歩き始める先輩が見える。
後ろについて歩こうと思ったけれど、脚が動かない。
夢の中にいるような感じ、どこまで行っても足踏みをつつけている気がする。
先輩との30センチが、ひどく遠くに感じる。
「あっ……」
無意識のうちに、先輩に手を伸ばしていた。
――――
竹島に歩を進めようとしたとき、後ろからか弱い力で服の裾を掴まれた。
「唯?」
唯が、私を掴んでいた。
俯いた彼女の表情は、見えない。
「どうしたの?」
唯は、擦れて今にも消えてなくなってしまいそうな声で呟いた。
「いかないで、先輩……」
『いかないで』と言った彼女の心理が、どこかが痛いとか、お腹が空いたとか、そのようなものではないことは、すぐにわかった。
「どうしたの……?」
「見えないんです……先輩も、自分自身も」
「このままだと、先輩が手の届かないところに行ってしまって、もう見つけられなくなるんじゃないかって……」
そんな弱気な言葉とは裏腹に、彼女の声には意思が籠っていた。
「他の誰にも、先輩にも、自分のことを知られるのが怖くて。いなくなってしまうのが怖くて」
絞り出すような唯の声が、私の脳を刺激し、一つの情景を脳裏に映し出した。
唯に背中を向けて去っていく人々と、そんな人々に必死に手を伸ばす唯の姿。
そんな景色を、唯は何度見てきたのだろう。
心をさらけ出すことも出来ず、ただひたすらに自らの耳を隠し続ける生活。
道行く人々もそのほとんどが唯の耳に付けられたイヤーマフを物珍し気に覗き、若いあるカップルに至ってはクスクスと笑っている始末だ。
普段学校でイヤーマフではなく耳栓を使っているのは、笑われるのが怖いからなのだろう。
どうしたら、彼女を救ってやれるだろうか。
奇異の視線にさらされ続けてきた彼女を守ってあげることが、私にできるだろうか。
少し考えて、少し強引な方法を思いついて、また少し躊躇して、行動に移した。
「唯。こっちむいて。」
「……」
「顔、見せて」
「……」
唯は少しの躊躇の後、ゆっくりと顔を上げた。
ほんの少しだけ涙の跡が残る大きな目。
なんとなく波打ち際の海に似た瞳に吸い込まれそうになりながら、唯の頬を両手で支える。
「えっ、先輩?まさか、こんな所で……」
唯の発言はとりあえずすべて無視して、唇を重ねた。
軽い怯えと震えを感じて、それでも構わずにより強く唇を押し付ける。
唯の腰に左手をまわして、逃げられないようにして、体重をより強く唯に乗せる。
周囲の視線すら気にせず、唯の唇を覆って、唯が好きという気持ちを強引に押し付ける。
唯に唯自身のことを好きになってほしい。
唯のことを愛してる人がいるということを知ってほしい。
「突然なにすんの!!」
私を無理矢理振り払った唯は周囲の視線に気づいたのか、面白いくらいの速度で表情をころころと変え、突然怒鳴りだした。
顔が真っ赤になったり真っ青になったり白くなったりしている唯は、とっても可愛い。
「馬鹿ぁッ!!こんな人前でッ!!恥ずかしいだろ馬鹿、馬鹿ぁぁッ!!」
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