もう一度、弾いてもいいですか

薄井氷(旧名:雨野愁也)

もう一度、弾いてもいいですか

 「……続いてのニュースです。昨夜、ピアニストの美鶴みつる円香まどかさんが亡くなりました。38歳でした。美鶴さんは、部屋で倒れているところを発見され……」


 ガシャンという音がして、足元を見ると、コーヒーカップが粉々になっていた。白地に赤の花の模様があしらわれたもので、結構お気に入りだったのだが、ここまで木っ端微塵に割れてしまえば修理不能である。だが、そんなことを気にしている余裕は、今の私にはなかった。


「美鶴さんが、亡くなった……?」


 自分でも驚くほど、声が震えていた。声だけではない。手もわなわなと小刻みに震えている。

 ともかくも、カップを片付けてしまわなければならない。幸い今日は休日であるため、あまり急ぐ必要はないが、放置すれば危険だ。私は破片を踏まないようにしながら、箒とちり取りを取りに向かった。

 掃除をしている最中にも、私の心臓は絶えずドッドッと激しく拍動していた。その理由は火を見るよりも明らかだった。


「……どうして……」


 私は、先程のニュースに頭を鈍器で殴られたかのような衝撃を受けていた。何しろ、美鶴さんは私の憧れのピアニストだったからである。


 私は4歳からピアノを習い始めた。それは親がそうさせたからだが、決して私はピアノが嫌いではなく、むしろ自分から進んでピアノを弾いていた。美しい旋律をミスなく自分の手で奏でられた時は、達成感がものすごかったのをよく覚えている。幼い頃は、もっと上手くなりたい、もっと難しい曲を弾けるようになりたいという向上心があり、同じくらいにピアノを始めた子たちを勝手にライバルと見なして、その子たちよりも上手くなってやろうと思って必死に練習していた。

 ピアノのコンクールにもたくさん出場した。優勝したことも何回もある。その度に周りからは、「天才少女」や「百年に一人の逸材」なんて言われた。それでいい気になっていたところもあったのだろう。

 音大に進学して、当然のようにピアノを専攻した。そこで私は、プロになることの難しさを思い知らされることになった。世界で活躍する先生たちが指導してくれたが、その指導はものすごく厳しいもので、今までずっと褒められてきた私は、駄目出しの多さに辟易してしまったのだ。そんなのは人に聴かせる演奏ではない、とか、AIに弾かせた方がマシだ、などと言われたこともあり、私としては大変屈辱的だった。

 毎回毎回表現力の未熟さを指摘され、私はピアニストになる夢をそこで一度諦めかけた。そこで出会ったのが、美鶴さんだったのである。


 彼女は私の通っていた音大の卒業生で、今度初めて一人で演奏会をやるから是非聴きに来てほしいと、宣伝も兼ねて大学に講義をしに来た。当時精神的に追い詰められていた私は、ピアノの音など聞きたくもないと思っていたが、あまり人前で話すのが得意ではなさそうな美鶴さんが、一生懸命頑張りますと訴えていたのが何だかいじらしく思えて、物は試しと聴きに行ってみることにしたのだ。


 演奏会で、私は度肝を抜かれた。彼女の奏でる音はあまりにもダイナミックで、普段の大人しそうな雰囲気とは全く異なるものだったのだ。一音一音が粒立っていて、全ての音が脳を、心臓を、身体全体を揺さぶってくる。技巧もさることながら、表現力が私とは天と地の差で、その曲が描こうとしている光景が目の前に浮かんでくるような錯覚を覚えた。聴き終わった後もしばらく余韻が抜けず、その場でしばらくぼうっとしていたぐらいだ。


 演奏会が終わった後、私は美鶴さんと個人的に話す機会があった。そこで私は、先程の演奏が素晴らしかったこと、自分は彼女には遠く及ばないと思っていることを伝えた。すると、


「……あなたの演奏を以前お聴きしたことがありますけど、お世辞抜きですごいと思いました。特に技術的な面で。今までたくさん経験を積まれてきたのでしょうね。……もちろん、表現力に課題はあると思いますが、あなたにはあなたにしか伝えられないものがあるんじゃありませんか?」


と言われた。あれほどすごい演奏をしたピアニストに褒められたことで、私は自己肯定感が上がるのを感じた。自分にしか伝えられないこと、というものを表現するため、私は、表現力を磨こう、もう一度ピアノと向き合おうと思えるようになったのである。そしていつかは、美鶴さんのように人々の心を動かす演奏がしたいと考えていた。


 しかし、私がプロのピアニストになることはなかった。


 その後も努力を重ねたが、本物の天才には敵わなかったのだ。自分でも分かってはいたが、私には才能があるわけではなかった。所謂努力型ということだ。もちろん、努力を重ねて成功する人も多いだろう。だが、私は天賦の才に恵まれた人と自分との間にある決して超えられない壁というものに気づいてしまったのである。


 音大を卒業したが、その後は普通の会社に就職し、事務として働き始めた。あれほど熱中していたピアノもやめてしまった。一番になれないなら続ける意味はない、とまで思ったわけではないが、ピアノを見ていると叶わなかった夢を思い出して辛くなるので、自然と弾く気が起きなくなったのである。


 そして数年が経ち、我が家のピアノはすっかり埃を被ってしまっていた。


 そんな時に、このニュースである。


 よく聞いてみると、別に事件性があるものではないらしい。ただ単に急な病気で亡くなったという話だった。だが、それにしても、あまりにも早すぎる。


「……美鶴さん……」


 結局彼女の演奏を生で聴いたのは、学生時代のあの一回だけだった。それでも十分すぎる程の衝撃があったわけだが。今はピアノから遠ざかっており、演奏会に足を運ぶこともなくなっていたが、いざこうして生演奏を聴ける機会を永遠に失ってみると、もう一度聴いてみたかったという気持ちが起こるから不思議である。


 私はふと思い立ち、パソコンを立ち上げ、美鶴円香の名前で検索をかけ、一番上に出てきた動画を開いてみた。去年の夏の演奏会の様子のようだ。水色のドレスに身を包んだ美鶴さんが出てきて、深々と頭を下げる。そうして彼女はゆっくりとピアノの前に腰掛け、柔らかな動きで両手を鍵盤に乗せた。その直後、静まり返った会場に、ポーンという一音が響く。それから、彼女の両手は軽やかに鍵盤の上を滑り出した。


 やはり生で聴くよりは迫力や臨場感に欠けるが、彼女の弾くピアノから発せられる力強い音は、私の心を揺さぶった。ああ、あの時聴いたあの音だ、と、懐かしい感覚に襲われる。激しい旋律や、甘美な旋律が、私をしばし想像の世界へと導いてくれた。


 演奏が終わり、画面の中の美鶴さんが再び丁寧に礼をする。それを見て、私は我に返り、自分の頰が熱いもので濡れていることに気づいた。


「……もう、聴けないんだ」


 改めてその事実を突きつけられ、私は空虚な気分に苛まれた。


 画面から外した目線の先に、もう何年も触れていないピアノがあった。


「……」


 私はおもむろに席を立ち、ピアノの方へと歩いていった。


 長い間触っていないし、もうあの頃のような演奏をすることは難しいかもしれない。そうでなくても元々、私には美鶴さんのような演奏はできなかった。


 だが、別に上手くなくても良いのではないか? もう誰も、私の演奏を批判する人などいないのだから。人に披露する機会もないわけだし。


 ……今度こそ、自分の思うままに弾いてみよう。自分にしか表現できないものを探して。


 この世に誰も聴く人がいなかったとしても、あの人だけには、自信を持って聴かせられるような演奏ができるようになったら良いな。


 私は一つ深呼吸をして、年季の入ったグランドピアノの蓋を持ち上げた。

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もう一度、弾いてもいいですか 薄井氷(旧名:雨野愁也) @bright_moon

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