存在しないきみに、僕の全てを捧ぐ
天海 潤
第1話 現実からの転移
八年前のあの事故から、現実を生きるのが辛かった。
自分が描いたマンガのヒロインに恋をすることでしか、世界と繋がれなかった。
だけど、あの日、きみに「好きだ」と伝えなかったこと。そのお陰で、今の僕は前を向けている。
――これはそんな僕の、一風変わった青春の物語だ。
*
「最初に打ち上がる和火を一緒に見たカップルは、必ず結ばれるっていうジンクスがあるんだって」
天道玲が、隣にいる立花咲希に話しかける。
二人が立っているのは、夏の気配が漂う夜の広場。
大勢の人々が、今か今かと待ちわびながら、澄んだ夜空を見上げていた。
ヒュルルー、ドカンッ! 空で花火が弾ける音がして、赤橙色の光のシャワーが降り注ぐ。
「和火も綺麗だけど、咲希ちゃんの方がもっと綺麗だよ」
咲希の耳元で、甘くささやく天道。咲希の首元から上の肌が、一気に赤く染まる。
「わた、私……」
そして、繋がる二つの手。
*
このシーンは僕が描いた最新話のクライマックスだった。
タブレットに映る、花火大会のコマに描き込もうとするも、寒さでかじかんだ指が言うことを聞かない。スタイラスペンをうまく握れないので、机から離れ、部屋の隅に置いてある小型のヒーターの電源を入れる。
最低限の家具のほかには、マンガの描き方に関する本が数冊と最小限の服。そんな殺風景な僕の部屋は、十二月の寒さをより強めているように感じてしまう。
ヒーターから出る熱風に手を当てると、少しずつ指が自由を取り戻していく。でも心の芯は冷たく凍り付いたまま。
だけど、再び机に向かい、タブレットに表示されている咲希の表情を見ると、氷解していく。
タブレットに表示されている咲希の浴衣の柄を丁寧に描き込む。
咲希に命を吹き込みたい。僕の世界と、咲希の世界の境界線が曖昧になるくらいに。
二つが溶け合って、一つになるくらいに。
液晶の中の鮮やかな色彩が、画面を飛び越えて、無色な僕の部屋を彩っていく。
世界がほんの少し温かくなる。
すると、浴衣を描くために見ていたwebページに広告が表示された。
「可愛い浴衣で、素敵な彼と理想の幸せデート」と書かれている。
そんなの嘘っぱちだ。
人はそんな簡単に、幸せになんかなれない。
理想の少女との理想の青春。絶対に手に入らないもの。
だから僕はそれを、マンガという形で、自分の手で創り出すことにした。
続きを描こうと広告を消したところで、玄関のドアが開く音が聞こえた。ペンをタブレットにくっつけると部屋を出る。
「おかえり、父さん」
「ただいま、渉」
父さんが部屋着に着替える間に、作ってあったブリ大根を温め直す。大皿に移し、リビングのテーブルに置く。付け合わせはサラダと納豆。
父さんは、母さんを連れてくると、席に座らせた。
「いつも悪いな」
そして僕らは食事を始める。テレビもつけず、静かに食卓を囲む。三人だけになってから、自然とそういう習慣になった。
「明日の夕方、母さんの通院があるんだが、渉も来るか?」
母さんに目をやる。無表情で、僕が作った食事をゆっくりと咀嚼している。ブリ大根は母さんの好物だったはずだが、その表情からは、何の感情も伝わってこない。
その姿を直視すると、首を真綿で絞められたかのように、じわじわと呼吸が苦しくなる。心にずしりと重いものがのしかかった。
棚に置かれた家族写真が目に入る。八年前、あの時までは、家族四人幸せだった。
「行けない……」
絞り出すように、それだけ口にする。
「いいのよ……」
母さんが抑揚のない声で、ぼそりと呟く。
「わかった」
父さんはそれ以上、何も言わなかった。
僕の答えを父さんは知ってる。それでも必ず、僕に尋ねてくる。父さんの気遣いだということは頭ではわかっていても、心が言うことをきかない。
食欲がなくなり、食器を片付けることにした。
「俺が洗うからシンクに置いといてくれ」
父さんに礼を言うと、自室に戻った。
タブレットを手にすると、先ほどの花火大会のページをスワイプする。
空白のページが表示され、もう一度スワイプすると、咲希のバストアップのイラストが表示される。
立花咲希。
セミロングの黒曜石のような艶のある黒髪を、サイドテールで纏めている。丸顔にタレ目。ふっくらとした涙袋。右目の下には涙ぼくろ。南国の海のような、パライバトルマリンの瞳。唇は桜色で、その肌は白磁のように滑らかだ。
温厚で、とても優しく、おとなしい性格。
僕の理想の女性だった。
咲希のイラストをなぞっているうちに、自然と表情が和らいでいく。
咲希との青春を描いている時間だけは、心が軽くなる。
僕が生み出したこの世界だけは、僕を拒まない。
咲希がただの絵であることはわかっている。それでも僕は、本気で咲希に恋をしていた。
咲希がいてくれるから、僕はこの現実でかろうじて息をすることができる。
「おはよう。渉くん」
もしも、そんな声を聞くことができたら、どんな朝になるだろう。
もしも彼女が実在したら、この笑顔を見ることができたら。
きっと僕は、今よりも前を向いていられる。
そんなことを考えるたびに胸の奥が熱くなる。
意図せず、右目から一筋の雫が零れ落ちる。
ペンを手にすると、再びタブレットに向き合った。
「それじゃ、今日のホームルームは終わりだ。陽が落ちるのも早いから、部活はほどほどにな」
担任の竹内先生の言葉で、委員長が号令をかける。
「きりーつ、礼」
放課後が始まり、クラスがどよめき始める。
「今日、何するー?」
「カラオケ行かね?」
「部活行こうぜ」
「昨日、Metubeでさー」
二子玉川高校二年A組のいつもの光景。
クラスメイトが放課後を楽しんでる横で、淡々と帰り支度を済ませる。
みんな、キラキラしてるな。
リュックの中に、タブレットがちゃんと入っているのを確認すると、コートを羽織り、教室を出た。
「金木、ちょっと待て」
振り返ると、竹内先生が教室の入り口で僕を見据えている。
「進路希望を提出していないの、クラスでお前だけだぞ」
進路。高校を卒業した後の未来。そんなの、僕が一番知りたいよ。
「すみません」
「別に謝って欲しいわけじゃなくてな。もう二年の十二月なんだ。なんかないのか? やりたいこととか」
竹内先生は眉を下げる。
「美術の藤田先生から絵が上手いって聞いたぞ? どうだ、そっち方面とか」
「あれはそういうんじゃないです」
それは、マンガを描いていたら自然と画力が上がったんだ。
「なぁ金木。お前、未だにクラスに馴染んでないよな。部活もやっていないし。そりゃ家庭の事情は知ってるが、そんなふうに生きてると、この先辛いぞ?」
先生の言葉が正しいのはわかってる。だけど、どうしようもないんだ。
無言で先生から背を向ける。誰かに相談したい気持ちと、誰にも打ち明けられない気持ちがせめぎ合う。
「金木、いつでも相談に乗るからなっ!」
背後から、竹内先生の大きな声が聞こえた。
立ち止まりかけた足を、グッと前へ出す。
ただ、自分のマンガのことだけ考えていたい。
それなら傷つかなくて済むから。僕は逃げるように立ち去った。
本屋に着くと、マンガの描き方の本が並んでいるコーナーに移動する。今日はどれを読もうか。
棚に顔を近づけて逡巡していると、横から手が伸びて、棚に収められている一冊を取り出した。気配に気づかなかった僕はびっくりして、隣の人物を見やる。
年齢は僕と同じくらいだけど、コートの隙間から見える制服は、別の高校のものだった。
僕の視線に気づいたのか、彼女と目が合った。慌てて適当な本を手に取ると、本を開いて顔を近づける。
少し時間を置いて、もう一度彼女を見る。
彼女もマンガを描くのだろうか? どんな本を読んでるのか気になり、手元に視線を向けたが、タイトルよりも、彼女の手にくぎ付けになった。
その手は、インクで真っ黒だった。やはりマンガを描くのだ。それも、自分の手が汚れることも厭わず。
彼女の顔をもう一度見ると、その表情は真剣なものだった。
彼女を見ていると、無性に自分が恥ずかしくなった。自分とは、覚悟が別次元のように思えたからだ。
彼女の隣に立っていられず、本を置いてその場から立ち去った。
異世界転生もののライトノベルを手に取り、ぼんやりとあらすじを眺める。
この世界に、「自分は幸せだ」と胸を張れる人は、どれだけいるんだろう。本当に理想の物語を生きてるなら、それは宝くじで一等を取るより、幸運なことだと思う。
ほとんどの人は、そこら辺に転がっている平凡な物語を「幸せだ」と思い込んで生きている。それだけで満ち足りている。だけど、僕はそんな平凡な物語すら掴めなかった。
人生は転んでも、つまづいても続いてしまう。手のひらに乗った幸せの青い鳥が、息をしていなかったら。人は、どう生きたらいいのだろう?
僕も異世界へ行けたらいいのに。
でも、どうせ転生できるなら、自分のマンガの世界に行きたい。咲希と付き合うことが出来たなら。それ以外、何も望まないのに。
こんな現実逃避も、日常茶飯事だった。
ため息をつくと、店を出る。自動ドアが開いた瞬間、刺すような痛みが顔を突く。十二月の冷たい風は、弱い心を鋭く侵食する。僕のちっぽけな夢想まで凍らせてしまう。
ああ、早く帰ろう。
すると突然、後方から鋭い叫び声が聞こえてきた。
「やめてっ!」
女性の声だ。何かトラブルだろうか?
八年前の事故がフラッシュバックして、呼吸が苦しくなる。
関わるのは怖かったが、誰かが自分の手の届く範囲で傷つくのは耐えられない。
角を曲がると、高校生らしき男子三人組が、一人の女生徒と対峙していた。
「本を返してっ!」
そう叫ぶ女生徒は、さっきマンガのコーナーにいた女子高生だった。
「こんな本買う金があるならよぉ。俺らに奢れや」
店員に告げに行こうか。それとも警察?
頭の中で考えていると、女の子が、男子が持っている本に手を伸ばした。
「汚い手で触んじゃねーよっ!」
激昂した男子は、女の子を突き飛ばす。
その瞬間、熱くドロドロした感情がマグマのように身体中をかけ巡る。彼女の努力の証を「汚い」と言われたことが、とても悔しかった。
「火事ですっ! 助けてくださいっ!」
こういう時は、これが一番だとマンガで読んだことがある。
「何こいつ?」
「うわあああああっ!」
自分のリュックを振り回しながら突進する。三人組は、突然の僕の行動に驚いている。
リーダーらしき男子が一歩前に出る。
「こんなもやし野郎っ!」
喧嘩なんかしたことない。どうしたらいいのかもわからない。
だけど、彼女を侮辱されたことが、とてつもなく悔しかった。
リュックが男子の脇腹に当たるも、男子は姿勢を崩さなかった。
「いてぇだろうがっ!」
そう言って僕の両肩を掴むと、思いっきり力を込めて、僕を突き飛ばそうとする。
前のめりだった僕は、男子の力に抗えるはずもなく。後ろに倒れる。
ふっと視界が揺らぐ。
そのまま、後頭部が地面にぶつかった。
*
意識がぼんやりする。僕はどうして……? ここは……?
「目が覚めましたか?」
人間のものとは思えない機械的な声が聞こえる。なんだろう。ニュース番組で犯罪者がインタビューに答えてるような。変にキーが高い、人本来の特徴を消し去った声。
目を開けると、真っ暗な空間の中で、一人の変人が目の前に立っていた。
ヤギのようなツノに、天使のような翼。顔には赤く塗られた仮面を被ってる。
いや、ものすごく変な人だ。
「えっと、あなた誰ですか? というか、ここどこですか?」
「私は神です。あなたは今、死にかけてます。そこであなたにミッションを」
「ちょ、ちょっと待ってください。あなた本当に神様なんですか?」
「そうですけど?」
後ろについてる翼が、既に剥がれかけている。胡散臭くて仕方ない。
「いや、その外見で主張されても……」
自称神は、わざとらしく、大きなため息をついた。
「ハァー。いるんですよね。こういう若者。人を疑うことしかしないっていう。こっちはちゃんと誠実に対応しようとしてるのに」
声のせいで、不誠実感しかなかった。
「ならボイチェンやめてください」
「あなたが生き返るためには、ミッションをクリアする必要があります。頑張ってください」
無視された上に、説明も省かれた。
「これって異世界転生とかそういう流れなんじゃないんですか? 色々とお約束からズレてる気が」
僕は抗議しようと、自称神に近づいたが、背後を取られて、そのままバックドロップを決められた。
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