第14話 銀月.3

 銀月が天に昇って、だいぶ久しかった。


 このまま夜が明けないのではないかと思えるほど、深い夜だ。


 月明りははっきりとしているのに、そう感じてしまうのは、きっとこの森が酷く黒々としているからだろう。


「ああは言ったものの」と前置きをして、燐子は隣を歩くミルフィに顔を向けた。


 ミルフィはまだ少しだけ目の周りが赤く、時折鼻もすすっていた。


「今、本隊がこちらに向かっているとは考えにくいな」


「どうして?」


「小さな村一つ潰すのに、兵士を疲弊させて夜戦を仕掛ける必要などない。まあ、一人哨戒に出た人間が戻ってこないのだから、数人ばかりは捜索に出るだろうが」


「そういうもの?」とミルフィが首を捻るので、「そういうものだ」と繰り返した。


「…だからこそ、村の様子を下手に探られるより先に、そいつらを始末してしまわねばならない」


 始末、という言葉に、ミルフィが息を呑む。


 こんな老人か女しかいない村の哨戒に出た連中のことなど、しばらく戻らずとも本隊は放っておくだろう。


 とにかく、少しでも疑いを持たれる時を遅らせる必要がある。今の村の状態で攻められては、赤子をひねるように容易く村は壊滅する。


 村のほうでは今、みんなで村を守る準備を必死にやっている。


 まともな防護柵は作れないだろうが、幸いあの地形は川さえ上手く利用できれば天然の要塞ができる。


 蜘蛛の巣のように張り巡らされた水流は、騎兵では突破できない。


 水深は深くもないが、浅くもない。歩兵が突破するのも危険が伴う。


 そして、村一つ焼くだけに、そのような危険は普通冒さない。そうして油断している敵の侵攻を一点に絞られれば、活路はある。


(そうなれば後は、アズールの騎士団がさっさと駆けつけてくれるのを待つだけだ。当然、自分にも大仕事があるが…)


 念のため馬を貸して、村の者にアズールまで遣いを送っている。ただ、すでに一日走りっぱなしだった馬が、どれほどまともに走ってくれるか分かったものではない。


 しばし、沈黙が続いた後、ミルフィが思い出したように口を開いた。


「燐子って、こっちの世界に来る前は何してたの?」


「…どうして、そんなことを尋ねる」


「ずっと聞こうと思ってたのよ。あんた、普通じゃないから」


「…ただの用心棒だ」


 正直に答えるべきか迷ったが、燐子はごまかすことに決めた。


 戦争を憎んでいるミルフィにとって、戦いを生業に、いや、生き甲斐にすらしていたことが知られれば、また喧嘩するはめになりそうであったからだ。


「ふぅん、それにしては随分とお強いのね」


「そうだろうか」


「そうよ」足元の木が折れる渇いた音が響く。「それって、燐子が侍って奴だから?」


 その言葉を聞いて、燐子は自分が呼吸できる生き物であることを忘れたかのように、息を止めた。


 やがて燐子は、何かを諦めたかのようにして、力なく首を左右に振ったかと思うと、ほぼ無意識のうちに腰に佩いた太刀に手を伸ばした。


 刀は、侍の魂だと父が言っていた。


 その言葉を信じて常に太刀と向き合い、その声に耳を傾け戦場を駆け抜けてきた。


(…だが、どれだけ待っても、私の呼び声に応えてはくれないな…)


 私が、侍ではないからだろうか。


 それとも、所詮は道具に過ぎないのか。


 どれほど鋭利に研ぎ澄ましていったとしても、資格のない私には、何も応えてはくれないのだろうか。


「私は、侍ではない」


「えぇ?あれだけ侍、侍うるさいのに?」


 ふっと自嘲気味に笑いながら、「そうだ、私にその資格はないのだ」と告げた。


 普段とは違う燐子の様子に、ミルフィは何かを察したふうにあえて明るく装い、無理やり言葉を続けた。


「わ、私には難しいことは分からないかなぁ」


 ミルフィのフォローも虚しく、燐子は気落ちした様子で呟く。


「私の器は、生まれ落ちたそのときから、すでに割れていたのだ」


 燐子の呟きに、ミルフィは何も答えられなかった。燐子自身、彼女に言うべきことではなかったと反省もしていた。


 森の深部を抜けたのか、天蓋の代わりを果たしていた木々に隙間が生まれ始め、天から青い月光が降り立った。


 そんな淡い光に髪を照らされて、ミルフィがくるりと燐子のほうを振り返る。


「ねぇ」と小さく囁くように言う。「あの子、人を殺してしまったわ」


 燐子はゆっくりと頷いてみせる。


「これから先、あの子がどうなっていくのか、怖いの」


 不安そうな顔つきをしたミルフィが、目に見えぬ何かを恐れるように燐子のシャツの袖を掴んだ。


「案ずるな、どうもならない。エミリオはエミリオのままだ」


「そんなわけないじゃない…!人を、殺したのよ?」


「大丈夫だ、きっと。お前やドリトン殿がそばにいてやれれば、エミリオは変わらない」


「魔物を殺すのとはわけが違うわ…」


「たいして違わん」


 そう告げた刹那、ミルフィの顔がみるみる歪んでいく。


 それが何を意味しているのか、燐子はよく分かっていた。


 さらにもう一度、「違わんのだ」と呟いた燐子の袖から、静かにミルフィは手を離す。


「燐子も、人を殺したことがあるのね」


「…ああ」


「どうして、そんなことを」


「誇りのためだろうな」


 腰にぶら下げた太刀が、カタカタと悲鳴のような音を出していた。




 森の奥のほうに、ゆらゆらと燃える松明の光が見える。


 まるで鬼火のようだ、と上の空で思いながら、それとはまた別のところで、ミルフィを連れてこなければよかったと後悔していた。


 ミルフィは燐子の視線の先を追うと、青白い月を吸い込んだかのような色で頬を染め、半歩だけ後退りした。


 松明の数からして、敵兵の数は五、六人だろう。


 一人でも十分にやれる。


「下がっていろ、ミルフィ」


「わ、私も…」


「戦うにしろ、下がっていろ。お前は射手なのだから」


 無理をしているのは、震える指先と顔色、そして荒い呼吸でまざまざと伝わってくる。


(ミルフィが本気で共に村のために戦う気なら、そうしてもらおう。無理ならば…それでよい。いや、そのほうがよい、か)


 燐子の口調がやけに鋭く冷たかったからだろうか、ミルフィは文句の一つも告げずに後退していく。


 風の流れ、葉を揺らす音に耳をそばだてながら、燐子は橙色の光がこちらへとやってくるのを眺めていた。


 不思議と緊張はない。心臓の鼓動は少し速まってはいるものの、質の良い緊張感を覚えている明確な証拠でもある。


 人を殺して生きてきた。


 そう語れば、ミルフィは私をどう思っただろうか。


 分からない、分かりようもない。


 …自分とミルフィとでは、生きてきた世界があまりに違いすぎる。


 同じ女で、同じ年頃なのに、こうも違うのは、一体誰の思惑なのか。


 ようやく先頭の松明が茂みを抜けて、顔が見える距離にまで近づいてきた。


 彼らは凛と立ち、自分たちを見つめる幽鬼のような女の姿を確認すると悲鳴を上げて、動揺を示した。


 きっと妖怪か何かと勘違いされたのだな、と冷静な頭脳で分析しつつも、無感情なトーンを意識して燐子がゆっくりと口を開く。


「帝国の兵士だな」


 彼らはわけが分からんといった様子で、燐子を観察していた。そのうち、一人が自分を奮い立たせるかのように大きな声で、「いかにも!」と返事をした。


「して、貴様は何者だ!怪しい奴め!」


 兵士は燐子が答えぬうちから剣の柄に手をかけ、抜き放った。


 鉄の擦れる高い音が夜の森に響く。


(――…抜いたな)


 燐子は胸の中で唱える。


 剣士にとってその行為は、殺されることに同意したに等しい。


「貴様らが知る必要はない」


 その言葉を耳にした男たちは、これまた自分たちを鼓舞するかのように大きな声で笑っていた。


 もしかすると、彼らも察していたのかもしれない。


 今、自分たちの目の前にいる、人の形をした生き物の常軌を逸した獰猛さを。


 自らの腹の中に抱えた静謐を穢された森が、憤りに唸るように大きな音を立てて揺れる。


 それを皮切りにしたかのように、先頭の男が燐子のほうへと悠然と近寄っていく。


「おかしな女だ。どれ、道に迷ったのであれば、我々の野営地まで送ってやろう」


 呑気な様に、燐子は興が冷めるような思いでそっぽを向いた。


 戦いの中、相手から目を逸らすような行いは愚行だ。だが、何の用意もなしに相手の間合いに飛び込むのは、それ以上の愚行である。


 燐子の間合いに軽率に足を踏み入れた瞬間、彼女は、息もつかせぬまま抜刀した。そして、腰を抜かした男へと切っ先を向けて言う。


「安心しろ、不意は打たん」


 ぎらりと光る刀身を斜めに傾け、月光を反射する。


「貴様たちには、全員ここで死んでもらう」


 ぼんやりとした暗闇に浮かぶ三日月が、尋常ではない殺気をもって彼らを睨みつける。


 兵士たちの口の形は薄ら笑いの様相を呈したままであったが、それは単に凍りついてしまっただけだった。


 尻もちをついていた男が慌てて立ち上がったのを見届けた後、燐子は一言、一言、まるで祈りの言葉でも唱えるかのようにして言った。


「一人残らず、漏れなく。誰も――」


「う、うわあああ!」


 彼女の殺気に耐えられなくなったらしい先頭の男が、剣を頭上に振り上げて燐子に斬りかかる。


 ミルフィはそれを見て、声にならない悲鳴を上げたのだが、次の瞬間にはまた絶句することとなった。


 舞い散る鮮血、赤く染まる三日月、稲光のような一閃。


 一人の人間が瞬きをする間もなく、動かない肉塊と化した。


 燐子は淡々とした口調と面持ちで、先刻の言葉の続きを言い放った。


「――明日の朝日は拝めん」


 そう言い終わるや否や、電撃のように駆け出し、呆然としていた兵士の首筋目掛けて太刀を左薙ぎする。


 奇妙な音がして相手の首が宙を舞い、それが地面に落ちるよりも速く数歩飛び、剣を構えることすらできていない相手に一太刀浴びせる。


 ほぼ同時に二箇所で血飛沫が上がり、十回に満たない呼吸のうちに六人いた兵士が、半分になってしまっていた。


「陣形を組めっ!ぼさっとするな!」隊長らしき男が叫ぶ。


 それをあえて好きなようにさせていた燐子は、自分に向けて構えられた陣形を改めて凝視した。


(どこの世界でも、陣形というのは変わらんようだな)


 ゆっくりと近寄って、間合いからまだ余裕のある場所で立ち止まる。


(試すようで悪いが…本番でも戦力として扱っていいか、確認しておかなければなるまい)


 緩慢な動きで空いていた右手を上げて、その手を静止させた。


 兵士たちはそれを不審げに警戒しながら目で追っていたのだが、唯一ミルフィだけは、その意図を察していた。


 燐子の指が、兵士たちに向かって下ろされる。


 刹那、死の矢が空間を裂いた。


 矢は、一人の男の額に突き刺さった。疑うまでもなく、絶命の一矢だった。


(…見事な覚悟と精度だ。『猟師止まり』という評価は改めよう。間違いなく、ただの猟師にしておくには、惜しい腕をしている)


 ミルフィは今まで無数の矢を放ち、数多くの獲物を仕留めてきたわけだが、今日この一矢ほど、鮮明に残るものはないだろうと、震える指先を握りしめながら感じていた。


 そこから先は、寸秒の出来事だった。


 全く警戒していない闇の中から的確な矢が放たれ、彼らの意識が次の射撃に割かれたところを、数歩駆けて間合いに飛び込んだ燐子が一刀で仕留める。


 背後から最後の一人が袈裟掛けに斬りかかるも、すんでのところで頭をかがめて、燐子はそれを躱す。


 頭上をかすめる凶器の感覚に肌を粟立てながら、体勢を戻す拍子に逆袈裟に鎧の継ぎ目を狙う。


 多少の抵抗感はあったものの、難なく肉以外の部分も断ち切り、血飛沫を巻き上げることに成功する。


 確かな感覚を背に、太刀を空で振り払い血振るいする。


 飛散する血液が地面に溜まる赤い海に飲み込まれて、消える。


(素晴らしい切れ味だ)


 燐子は、まるで生き返ったみたいに生命力で満ちあふれた太刀を視界の隅で捉え、不敵に笑った。

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