第13話 銀月.2
カランツとアズールの境にある湿地帯を抜けたのは、もう日が完全に落ちてしまって、白銀の月が金の輪を持ち上げてからのことだった。
ぬかるみにはまらぬよう、丁寧に道程を選びながら、馬の手綱を操るよう心掛ける。
地面をしっかり捉え跳ね上げる馬の蹄の音が、静かな草原に響く。
死んだように眠っている厳かな静寂を破るのが、どこか憚られる夜だ。
この草原を抜ければ、そろそろカランツの村が見えて来る。きっとみな、眠りこけているのだろう。
「…ありがとう、燐子」
しょんぼりとした声が彼女らしくなくて、乾いた笑いをこぼしてしまう。
「礼などいらん。ミルフィが思っているよりも、私は恩知らずではないというだけだ」
「何それ、皮肉?」
「ふ…そんなところだ」
「人がせっかく素直にお礼を言ってるのに、どうして燐子は――」
ふと、ミルフィは燐子の腰に手を回したまま、浮かない顔をした。
「……ありがとう。私が混乱しないようにしてくれてるんだよね」
「何のことだ」
とぼけてみせるが、ミルフィは満足そうに静かに微笑み、口を閉ざしてしまった。
体を震わせて自分の背中に頭をもたれかけるミルフィに、燐子は目を細める。
(無理もない…私にとっては日常茶飯事だったが、ミルフィたちにとってはずっと危惧していた戦乱の火の粉だ。落ち着けと言うほうがどうかしている)
ふと、燐子の見つめる夜の闇に、燃え尽きる城の影が投影される。
自分たちの城が落ちるというのに、心のどこかでは、それをすんなり受け入れている自分がいたことを覚えている。
いつか、そんな日が来ると知っていた。
むしろ、そうして討ち死にする、あるいは腹を切ることでしか、自分の人生は終わらないとさえ信じていたのだ。
…老衰や病死を考えると、恐ろしかった。
自分が戦火の中で死ねなかったら、どうなるものかと不安だった。
(…そういうふうに生きてきた。それが、私にとって自然の摂理のようなものだったのだ)
夜風が、燐子の白い頬を撫でる。
(だが、私はあの夜、死ねなかった)
戦火は、彼女の体を避けて通ってしまった。
(死ぬべき時に死ねず、今はこうして、自分の所領でもない村を守るために、寝る間も惜しんで馬を飛ばしている)
それは、何故なのだろう。
何故、こんなことに躍起になっている。
くだらぬ独善か、それとも自分にまだやるべきことがあると信じたいのか。
侍たちのいないこの異世界で、ありもしない誇りのために戦うのか。
――…もしかすると、ただ血の匂いに引き寄せられているだけなのかもしれない。
獣だ。生死の境に潜む獣。
自分の命を賭け金にして、他人の命を貪ることに快楽を求める獣。
自分が望んだ真の侍からは、酷く、遠い。
(そんなものではないはずだ。私は…)
これではいけない、と燐子は首を左右に振った。
どうにも、感傷的になりすぎている。
何とか気分を紛らわすために、ミルフィに対し軽口を叩く。
「そうしていると、女らしいではないか」
「は…?」
ミルフィがむくりと体を起こしたのが分かったので、燐子はそのまま肩を竦めて言った。
「メソメソしていると、か弱い女に見えるということだ」
「…ねぇ、喧嘩売ってんの?」
「事実を口にしただけだ」
燐子がほんの少し振り返りながら、悪戯っぽく告げると、思いのほか本気で怒ったらしいミルフィが大声を上げた。
「あぁ、そうっ!」
背中を強烈な力で叩かれた燐子は、鈍い悲鳴を上げながらも、これでいいと、どこかほっとしていた。
萎んでいるミルフィは見ていてどこか落ち着かない。
こちらの背中を叩くぐらいの元気があるほうが、彼女らしいに決まっている。
街道の両脇に広がった緑の絨毯が、互いに擦れ合い、安らかな音を奏でている。
夜の静謐に存在を許された数少ない音色たち。
虫の声、風の響き、空と山の境界の先で鳴る遠雷…。それを耳にしながら、美しい瑠璃色の空の下で背筋を正した。
(そうだ。私も、私らしくしていればいい。戦いの中で得られるものだけは、嘘を吐かないのだから)
数分して村の門をくぐると、中央通りのほうに村人が集まっていた。その中には、ドリトンとエミリオの姿も見える。
馬が速度を緩めると、完全に止まってしまうよりも早くミルフィが馬上より飛び降りた。
「エミリオ、お祖父ちゃん!」
「お、お姉ちゃん…」
疾風の様に彼らに走り寄ったミルフィに、村の者たちが一斉に声をかけたことで、エミリオの小さな声はかき消されてしまう。
「おお、ミルフィ、よく帰ってきてくれた」
「一体どうしたの?帝国が来たの?」
「それが…」と困ったように眉をしかめたドリトンの代わりに、老齢の男性が忌々し気な顔をして言った。
「お前の弟が、とんでもないことをしでかしたんだよ」
それを聞いたミルフィが、「え」と目を丸くし、一拍遅れて、彼らの中心で肩を丸めていたエミリオを見つめた。
とんでもないことか、と馬を引きながら集団に近寄った燐子は、ドリトンのほうへと顔を向ける。同様にこちらを見据えたドリトンの顔には大きな疲労感と、焦燥感、そして小さな安堵が刻まれていた。
「あんた、一体何をしたの」
ミルフィ俯いたままのエミリオに尋ねるも、彼は悔しそうに拳を握りしめたまま何も答えない。
「エミリオ!」
直後、孫の代わりにドリトンが無感情に呟いた。
「殺してしまったんだ…帝国の兵を」
ミルフィは唖然とした表情で、信じられないことを口走った祖父を見つめ、それから何度も何度もドリトンとエミリオへと視線を交互に向けた。
殺した、この純朴な少年がか?
到底信じられるものではない。
ぱちんと弾けた篝火の音を合図に、ミルフィが寝言のようにはっきりとしない口調で、「嘘よ」と呟いた。
「本当だ」
「そんなの嘘よ」
村人が様々な感情をたたえた表情で、ミルフィのほうへと目を向けている。
ある者は哀れみ、またある者は怒り、だが多くの者は憔悴しきったような絶望だった。
燐子はつい最近似たような顔つきを見たことを思い出し、内心苛立ちを募らせていた。
(商人たちのときと同じだ)
自分では何もせず、誰かを責めることもなく、諦めきっただけの瞳が酷く目障りだ。
まるで、死人だ。
「嘘よね、エミリオ」
少年は何も答えない。
「何とか言いなさい、エミリオ!」
とうとう村中に響き渡る大声を放ったミルフィを、エミリオが弾かれたように見上げた。
てっきり村中から責められて沈んでいるのだと思っていたのだが、その瞳に宿った強固な意志の輝きを見て、それが間違いなのだと分かった。
「嘘じゃないよ!」
息を呑んだ自分の姉に、追い打ちをかけるように続ける。
「アイツらがまた丘の森にいたから、谷底に突き落としてやったんだ!」
良く通るエミリオの声が虚空を打って響き渡る。
エミリオを怒鳴りつけようとしていたはずのミルフィは、険しい顔のまましゃがんで弟の肩を握った後、唇を震わせた。
「何で、そんな馬鹿なことをしたの…」
風を失った凧のように、ミルフィの声が勢いを失う。
「馬鹿なことなんかじゃ、ないもん。お父さんの仇を討ったんだもん」
ミルフィはエミリオの言葉を聞いて、いっそう瞳を潤ませると、赤い宝石から雫を漏らした。
その軌道を目で追っていた燐子は、彼女の嗚咽混じりの声を聞きたくなくて、耳を塞ぐように体を背け、目蓋を閉じた。
「馬鹿なことよ…馬鹿な…」
そのすすり泣く声を聞きながら、燐子はエミリオのあどけない笑顔を思い出そうとしたが、何度試みても上手くはいかなかった。
その後、泣きながら一通りの説明をしてくれたエミリオの話を要約すると、以下の通りであった。
まず、エミリオは食料を探すためにまた誰にも告げず無断で森に入っている。
そして次に、エミリオが森で食べ物を収穫していると、数人の帝国兵が散り散りになって森の中を散策しているのを見かけたらしく、その中の一人を、隙を見て谷底へと突き落としたとのことだ。
ミルフィに抱きしめられたまま暗い声で語ったエミリオの話が終わると、周囲の人間の何人かが彼を責めるように声を荒げた。
やれとんでもないことだの、これでこの村はお終いだの、挙句の果てには全ての責任はエミリオにあるのだから、ドリトンの家で責任を取るべきだなどと言い出す始末であった。
それを未だに目を閉じたまま聞いていた燐子は、自分の中で怒りや苛立ちといった感情が鎌首をもたげているのを感じながら、鼻を鳴らした。
くだらなすぎて、逆に笑いが出そうだ。
我が身惜しさに、自分ではない誰かを矢面に立たせる。
確かに、分からぬ話でもない。自分たちのような誇りと信念を持って、死ぬことにすら価値を見いだせる人間でもなければ、こうなることが自然なのかもしれない。
(しかし、しかしだ…。それを許せるかどうかは、また話が違う)
ようやく目を開けた燐子は、馬の手綱をドリトンに預けて、一歩、村人たちの輪のほうへと近づいた。
急に渡された手綱に慌てた様子を見せながら、ドリトンだけが唯一、彼女の姿をしっかりと捉えていた。
「みんな、聞け」
燐子が凛とした声を響かせて、周囲の注目を集める。
「帝国はすでに、こちらに向けて動き出している」
彼女の一声を呼び水にして、喧騒が広がっていく。
誰も彼もが不安や、絶望、焦燥に駆られて好き放題に話をしていたが、そこでもう一度燐子が声を発したことで静けさが戻ってきた。
「アズールで騎士の連中に聞いた。『もしかすると』という話だったが、また裏の森に兵が来ていたのなら、やはり事実のようだな」
「じゃあ、やっぱりエミリオのせいで…」
「いや、動き出したのは昨日今日の話ではない。エミリオは無関係だ」
少年のいわれなき罪を晴らすことはできたが、逆に考えれば、帝国の進行は避けられない事実であるということなのだ。
何を契機に攻め込んできたのかは予測できないが、いよいよ恐れていた事態が、この村に災厄となって降り注いできたことになる。
「じゃあ、もうこの村は…」
「そういうことです」
「…ならば、全員で避難を始めなければ」
「ドリトン殿、それで良いのですか」
「良いも何も――」
「エミリオが殺めたという帝国兵、恐らくは斥候です」
それがどうした、今すぐ逃げなければ、と騒ぎ立てる連中に向けて、燐子が一喝を入れる。
「いい加減に落ち着け!」
燐子の出した大声に、栗毛の馬がわずかに反応して鼻息を荒くする。
周囲の人々が水を打ったように静まり返り、腕を組み直した燐子の顔を、恐る恐るといった雰囲気で見つめていた。
「今頃、斥候が一人欠けたこと気がついて、あの森に引き返してきているところかもしれない。あるいはすでに本隊に合流して、大軍を引き連れて進軍している最中かもしれない」
燐子は、他人事のようにこの村の破滅への一途を語った。
「それで、お前たちはどうするんだ。大人しく故郷とともに灰になるか、故郷を捨てて逃げられるところまで逃げるか、帝国に降って奴隷か嬲りものにでもなるか」
燐子が告げる言葉には、形容し難い現実味が込められていて、それが脅しでも何でもないということはすぐに分かった。
どう出る、と燐子は心の中で唱えた。
顔だけは平静を保っていたが、内心は誰かが自分の言葉に牙を剥いて来ることを祈っていた。
そうでなければ、この村は本当に終わりだ。
自分一人抵抗したところで、大軍相手には無意味である。
「年老いた連中や、女子供を引き連れて、魔物だらけの湿地を準備も無しに抜けられると思うか?仮に抜けられたとしても、果たして一体何人生き残るか…」
そんな燐子の想いに答えたのは、この世界において、自分が一番知っている人物で、それでいて自分のことを一番知っている人物であった。
「冗談じゃないわ…!」
エミリオの体からその身を離し、振り返りながら立ち上がったミルフィと目が合った。
「誰かの都合に振り回されるのはもうたくさん!うんざりなのよ!燐子!」
…やはり、彼女はこうでなければならない。
「あんたがそうして焚きつけるからには、何か考えがあるんでしょうね?」
爛々と炎を滾らせるミルフィが、一番美しい。
この世界に来て知ったことの一つだ。
臙脂色の髪はとても風情があって、趣深いと。
「当然だ、ミルフィ」
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