マコガレイ
津多 時ロウ
マコガレイ
「そこの少年、〝あこがれ〟とはなんであろうか」
ある日の高校からの帰り道、僕は見知らぬ男性に声を掛けられた。年齢はよく分からないが、髪の毛には白髪が目立ち顔にも皺が多い。茶色のジャケットにスラックス、白いワイシャツにはアイロンがかけられ、身なりはしっかりしている。
この男性、僕だけに声をかけているのではない。交通量の多い交差点の隅っこで、ひたすら同じ言葉を投げかけている。〝あこがれ〟とはなんであろうかと。
向かいの横断歩道で信号待ちをしているときになんとなく気付いてはいたのだが、家に帰るためには男性の前を通過するしかなく、こうして声をかけられてしまった次第なのである。
無視を決め込みたかったところだが、残念なことに目が合ってしまった。目が合った男性は再び僕に問いかける。
「そこの少年、〝あこがれ〟とはなんであろうか」
「さあ? 誰かのようになりたいとか、こういう風になりたいとか。……あ、どこそこに行ってみたいという気持ちも〝あこがれ〟じゃないですか?」
「君には〝あこがれ〟はあるか?」
はたして今の僕にそれがあるだろうか。子供の頃にあこがれた人たちのようになれるだろうか。
否。僕は無理だと思っている。
しかし、有名な大学には行ってみたい。何のために行くのかは分からない。いや、これもあこがれではあるのか。少なくとも有名な大学に行くことにあこがれていると、それだけは言えるかもしれない。
「はい、もちろん」
しばしの黙考の後にそう答えれば、目の前の男性の表情は一層真剣みを帯びた。
「それは実に羨ましいことだね。おじさんはもう、〝あこがれ〟なんてちっとも抱かなくなってしまった。昔からこうして毎日、泥の中から上を見上げるばかりで、あこがれなど無意味だと悟ってしまったんだ」
いつの間にか男性は魚になっていた。アスファルトの上に寝そべり、僕はそれを見下ろしている。平べったい体の右側に不格好な二つの目と口があって、確か左ヒラメで右カレイだったかとぼんやりと思い出した。
「君は今、誰かの〝あこがれ〟に憧れているだけではないだろうか」
その言葉を最後に、僕は交差点を後にした。
今日の晩御飯は、マコガレイの煮付けだったはずだ。
マコガレイ 津多 時ロウ @tsuda_jiro
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