【そのいち・犬猿の敵を愛せよ】

① 裸の転校生、襲来



   ▼▼



 六月を迎え、にわかに夏休みが近づいてくる気配を感じてきた頃合い。

 高校一年生としての日常生活も徐々に慣れ、残り短い一学期を走り切るべく、今日も俺は学校へと向かっていた。


 だが、そんな見慣れた通学路を進みながらも、俺は人生で初めて履くスカートがとても気になって仕方がなかった。意味もなく後ろを振り返ったり、必要以上に視線を動かしてしまう。


 周囲に怯えてしまう。


 学校指定のスカートがこんなにも短くて、よくもまあ謹厳実直やらこう矩歩くほやらと清く正しいスローガンを掲げられたものだ。うちの学校は頭がおかしいんじゃないかと思えてきた。

 しかし、そんなことは改めて考えるまでもなく、俺の通う棚上たながみ学園が元から異常だったことは百も承知している。


 なんといっても、突然クラスの男子生徒が女の子になって登校してもまったく問題ないほどに、棚上たながみ学園は強制能力者スキルホルダーの育成に特化した教育機関なのだから。


 超能力者の大規模訓練施設──それが俺の住む街、タナガミ七区である。


 なんなら、「やっと強制能力スキルが確認できたのか。もう一組では多くの奴が能力指導シラバスを受けているのだ、授業の遅れを取り戻せよ」みたいな感じで、担任の城口しろぐち先生あたりは背中を押すように励ましてくれるだろう。

 朝起きたら女の子になっていた男子生徒に対しても。



 …………………………。



 マジで今日から女子トイレを使わなきゃ駄目なのか?

 と、日曜日の朝はそんな悩みに苦しんでいたのだけれど、そこは棚上たながみ学園のことである。俺みたいな強制能力者スキルホルダーのために別個で個室トイレが多数設置されているので、その点については許容できる。問題ない。

 普通のトイレとは別の場所に設置されているし、一組の生徒ではそちらを利用している人もいないイメージだったから、実は今朝まですっかり忘れていたのだが。


 しかしトイレ問題はともかく、体操服なんかに着替えるときはどうすればいいのか。とか、悩みは尽きなかった。

 色々と想像するだけで気が重い。

 そんな風に、今から不登校になってもおかしくない精神状態で俺は登校している。


 とは言いつつも、俺はそこまで学校に行きたくないという思いを強く持っていたわけでもないし、なにより不登校になってしまえばいな先輩に出会う機会が減ってしまうので、女体にょたいするのが日曜日だったことは幸運だと思わなければならない。


 わざわざ休日に女子用の制服を買う必要があったのかと今にして思わないでもないが、しかし実際、女体化のせいで元の制服のサイズが合わず、かなりぶかぶかになっていたから、必要経費だと割り切っている。身銭を切ることになったけれど。身を切るような思いだったけれど。突然の女体化が、俺の財布を苦しめる。



 というか、この「俺」という一人称は変えたほうがいいのか?

 俺は今や誰もが認める『女』になってしまっている。


 髪は(以前までは、つまり男だった時はそこまで長くはなかったのに、なぜか女体化後は伸びていたので自分で結んだ)ツインテールで、

 骨格もまるで変わり、

 胸はさほど大きくなっていないものの、

 股間のアレはしっかりなくなっている。

 この姿のまま「俺」という単語を使い続けていると、激しい違和感を覚えることになりそうだ。


 いや、別に一人称が「俺」の女子高生がいては駄目だとは思わない。少なくとも俺が自分で言ってて自分で恥ずかしくなりそうだという話である。

 一度そのことに気付いてしまうと、もう忘れることができなくなってしまったので、俺は意気を振り絞って立ち止まった。


 というわけで、発声練習。


「俺は世界の犬だ」


 なんとなく適当にそう言ってみた。


 …………朝から俺は何を言っているのだろう。

 近くの電柱に「犬のフン禁止!」という張り紙があったことにただ釣られてしまっただけで、別に自分のことを犬だと思っているわけではないのだと、そう心の中で弁明する。俺は人間だ。


 だんだん冷静になってくると、今のセリフ、あるいは女体化して以来初めて自分の意思で発した言葉になるのではないか……? と、そんな恐ろしいことに勘づいて戦慄せんりつする。

 もっとも、昨日制服を買うときに店員と一言二言は会話をしていたことを思い出したので、それが初めての発声だったと納得することにした。


 ともあれ、周りに人がいなくて助かったぜ。

 俺は二足歩行を再開した。



   ▼▼



 そのまましばらく歩いてから坂道を越えて、杉並木の林立した歩道を真っ直ぐに進み、棚上たながみ学園に到着。

 俺に朝練の予定はなかったし、元よりこの学園には運動部がほとんど存在しないので、俺は教室に直行する。すこし早い時間だったため、教室にいる生徒はまばらだった。


 一息つこうと鞄を机に置いたとき、教室の入り口から男子生徒の快哉かいさいが響く。



「おいおいおい! 本日、この一年一組に新たな転校生が来るという噂はかねてより聞きおよんでいたが、きみがその転校生かな? よし、ここはめずらしく遅刻の難をのがれたオレの幸運を活かすべく、いち早くきみとお友達になってみようかな!」


 そのよくわからないことを言っている晴れやかな男は、こちらに向かって跳躍してきた。

 文字通りに跳馬である。

 そして空中で回転しながら、逆立ちで着地。そのまま頭に血がのぼりそうな姿勢で男は爽やかに笑った。


馬耳ばじ東風とうふうを対義語として、慇懃いんぎんれいな丁寧語を吐き、鹿に乗りながら馬をす! クラス一番のムードメーカー担当、がわさか馬鹿騒ばかさわぎ!」


 意味のわからない自己紹介を言い終えて、彼は逆立ちをやめた。それから手についた埃を払い、握手を求めるように右手を差し出してきた。


 俺に向かって。

「以後どうぞよろしく!」

 と、威勢のいい発声。


「井川坂部、残念だが俺は転校生じゃない」


 俺は肩をすくめてそう言った。


「む。となると、きみはいったい誰になるのだ? 他クラスの女子にしては見覚えがないことをかんがみて……オレは貴方が先輩であると予想しよう!」

「いや……普通に、この席の犬秋だよ」


 それを聞いた井川坂部は、なるほど???? と首を傾げている。

 どうやら混乱しているようだ。


「犬秋? いや、確かにこの席は犬秋のものではあるが……ん? どういうことだ?」

「平たく言えば、朝おん」

「あさおん……? どういう意味?」

「朝起きたら女になっていた、の略」

「誰が女になったんだ?」

「だから犬秋だよ! 犬秋藍鬱あいうつ!」


 思わず叫んでしまった。だけど、よくよく考えてみれば、これが普通の反応だろう。

 そして井川坂部は、ようやく目の前の事実が理解できたらしい。困惑の余韻を残しながらも俺を犬秋本人だと認識していた。


「そうかそうか、言われてみればその話し方は犬秋のそれだな。いや、すまない。朝から取り乱してしまった。まったくオレはそそっかしさに余念がない、度し難い悪癖だ」

「なに、突然こんなことになった俺も悪いんだから気にするな。お互い様だ」

「そうか。きみがそう言ってくれるのならいいんだが。時に犬秋よ、同じ質問を繰り返すようで恥ずかしいんだが、『朝起きたら女になっていた』というのは一体全体どういうことだ?」

「別にどうもこうもない。この女体化が俺の強制能力スキルってだけだろ、たぶん」


 言いながら、自分の席に座り大きくあくびをした。


「ま、ひとまず何の変哲もない普通のスキルで助かったぜ。ほら、先週のすなとか、授業中にえらくケッタイな能力が発現してヤバかっただろ? ああいうトラブルがなかったことは、実際のところかなり幸運だよな。こういう学園に通っていると痛感するよ」


 俺が陽気に振る舞っていると、井川坂部は神妙な面持ちで腕を組む。


「しかし犬秋、言うまでもないが能力検診にはきちんと行くのだぞ。今は問題なくとも、何か重大な疾患が見つかる可能性もある。部活の初心を忘れるなよ。医者の不養生になっては笑い草だ」

「わかってるよ」


 俺はひらひらと手を振った。



 と、そんな風に、この学園では男が女になることくらいは日常茶飯事である。

 もちろんクラスの全員がみんな性転換するというわけではないのだが、それでもほとんどが似たり寄ったり、すこし不思議な程度の異能力に目覚めるだけの、普通の日常風景。


 井川坂部のような変人もいるが、多くの大部分は俺のような平凡極まりない生徒たちで構成されている。



 ただし、あの転校生を除いて。



   ▼▼



 それから数分して、少しずつ教室に生徒の数が増えてくる。俺と同じように、昨日の今日で強制能力スキルを発動させたクラスメイトがいないかとぼんやり眺めていたが、そんなにわかりやすく、そしてタイミングよく(悪く?)変身している奴はそうそういなかった。


 世界は平和だ。平和が世界だ。

 適当なことを考えながら、ホームルームの時間までの暇潰しに世の中の平穏を再確認しようと思っていた、そんな時。

 平穏が打ち破られた。


「委員長!」


 教卓のところで、いつの間にか教室にいたらしい担任の城口先生が、クラスに向かって何かを呼びかけていた。


「おい! 委員長! お前聞いてるのか!?」


 先生も平常どおりに暑苦しいキャラクターを貫いているんですね、と呑気な感想を抱いていたら、不意に頭を殴られた。

 結構痛え。


「ぎゃ……虐待だ……」


 頭を押さえながら殴られたほうを確認すると、そこには斧堀おのぼりがいた。

 この蝙蝠こうもりのような髪型をした女子は斧堀おのといって、一年一組に所属する俺のクラスメイトであり、また同じ部活仲間でもある。


「おい、先生が呼んでいるだろ鬱屈野郎」


 不機嫌そうな仏頂面の彼女。その手には水筒が握られていた。どうやらその武器で殴られたらしい。その鋭角な衝撃で、自分がクラスの委員長を任されていたことを思い出した。


「だからって殴らなくてもいいだろ……暴力ヒロインはもう過去のものだぜ」


 もう一度殴られそうになった。俺が避けていなければ、今ごろは顳顬こめかみから出血していたことだろう。流石に観念して、先生の呼びかけに答えることにした。


 でも、どうしてか嫌な予感がする。今まで一切委員長の職務など存在しなかったものだから、てっきり委員長なんて学校行事の際にちょっとした雑務をこなすだけの簡単なお仕事しかないのかと思っていたのだが、どうやらそこまで委員長の肩書きは軽くないらしい。


「どうも先生、委員長の犬秋です」

「ん? 犬秋? ……藍鬱くんの妹さんか?」


 これまた新鮮な反応をくれる。まさか妹と誤認するとは、熱血体育教師がずいぶんと可愛らしい誤解をしてくれるじゃないか。萌えてしまいそうだ。

 そもそも俺に妹はいない。仮に存在したとしても、その妹が制服を着てこの教室にいるのはおかしいだろう。どうやら先生は天然キャラなのかもしれなかった。


「いや、妹ではなく、犬秋藍鬱本人ですよ。特にとりわけて説明することもないんですが、おそらく強制能力スキルが発現しましてね。女の子になっちゃいました」


 それを聞いた城口先生は得心したように頷いた。


「…………なるほど。体調は大丈夫か? 肉体変化のスキルはバイタルに異常が出やすいが」

「ええ。今のところ問題ありません」

「そうか。わかっていると思うが、放課後の予定が空いているなら能力検診を受けてこい。もし体調が悪くなるようなら、今日の体育の授業は休め。逆に体育の授業に出るために着替える際は、第二準備室を使え。ちなみに、着替えるときに内側から鍵をかけることを忘れるな。あと第一準備室は砂田が使うから入るなよ」

「ええ。了解です。鍵を閉めればいいんですね」


 いっぺんに色々なことを言われたので、とりあえず鍵のことだけを復唱してみたが、なんだか話を聞いていない奴みたくなってしまった。


「と、それから本題だが──犬秋、お前に任せたい仕事があってな」


 そこで城口先生は間を置いて、どこか言いにくそうに表情を曇らせたまま二の句を継げない。


「先生……どうしたんですか?」


 不審に思って俺が聞くと、先生は渋りながら言葉を繋げた。



「今日、このクラスに転校生が来るんだが…………」


 と、また先生が黙ってしまったので、「転校生が来るという噂は聞いていますよ」と言って間を埋めようとしたが────


「……まあ、説明するよりも見たほうがわかりやすい。すまんがホームルームの後に話す」

 そう言って、城口先生は教室から出ていった。


「……なんだったんだ?」


 いぶかしく思いながらも、俺は席に戻った。




 時刻は八時を過ぎ、次第にクラスの皆も揃い、ホームルームの時間が訪れる。この時にはもう城口先生は教室に戻っており、ホームルームは平常通り始まった。

 起立、礼、着席、とかなんとか。ぬるりと、シームレスに学校生活は始まる。

 そして始まった。


「お前たちも既に知っているかもしれんが、今日はこのクラスに転校生が来た」


 城口先生の言葉で、教室がにわかにざわつく。

 そんな期待の声に包まれたクラスに対して、城口先生は奇妙なことを告げた。


「だが、これに関してはお前たちの知るところではないと思うので付言しておくと────転校生は強制能力者スキルホルダーだ。そして男子共、お前たちは。……私から言えるのはここまでだ」


 目をそらす準備? スキルホルダー?

 どういう意味なのだろう。


 目をそらさなければいけない転校生とは。全身が眩しく発光しているとでもいうのだろうか? しかしそれなら、男子だけに限定する意図がわからない。よもや視認するだけで失神してしまうほどの美貌を持つ女子生徒が転校してきた、なんてこともあるまいし。

 それにスキルホルダーというのも引っかかる。

 先生は一体、なにが言いたいんだ?


 俺がそんなことを考えているうちに、先生は転校生を呼んでいるらしく、教室の扉を開けた城口先生が「それじゃあ、入ってこい」と、廊下にいるらしき転校生に向かって声をかけていた。



 そうして教室に入ってきたのは────


 



 瞬間、男子達は驚きと社会的防衛本能が働いて、教室の前方から目をそむける。

 それから何人かの女子が低い悲鳴を上げた。

 だがそれも仕方ない。教室に入ってきた転校生は、間違いなく、服を着ていなかったのだから。制服も下着も靴も靴下も、少なくとも俺の視界には映っていない。

 裸の少女。

 断じてくるぶしの誤字などではない。

 読んで字のごとく『はだか』である。


 しかし正確を期すなら、彼女の姿を『はだか』と形容していいのかどうか疑問ではある。なぜなら、彼女は完全にすっぽんぽんというわけでもなく──首元から背中にかけて、昔の軍人が着ていたような、黒い釣鐘つりがねマントを羽織はおっているからだ。

 ……今の「羽織っているからだ」の「からだ」は、あくまでも語尾であり、彼女の一糸纏わぬ全身姿を見て「羽織っている体」と表現したわけではない。体言止めしたわけではない。またこの場合、釣鐘マントを羽織っている彼女に「一糸纏わぬ」という用法をもちいるのが、果たして正しいのか俺にはわからないけれど、そんなことに悩んでいる場合ではない。


 異常事態だった。

 過不足なく、そのままの意味でだ。目をそらすのがどうとか、スキルがどうとかいうより、もはやこれは学級崩壊の一歩手前なのではないか。そう言ってつかえないだろう。なにせ裸の少女がいるのだ。


(釣るした鐘のような形に見える、という由来から名付けられている)釣鐘マントの構造上、胸元の部分は控えめに言って「見え隠れ」ぐらいの露出度ではあるが、しかし下半身はまるで駄目だった。

 見えてはいけないものが完全に見えている。普通に見えている。いや、見てないけど。目をそらしてはいるけれど。横目で確認できるほどに、それは明瞭だった。


 そしてまた、なまじぼんやりと見えてしまっているがゆえに、転校生の性別が確実に女であると確認できてしまうのである。まさしくめん楚歌そか。前門の虎というレベルどころか、全門が無数の虎と狼に囲まれていて、すべもなかった。



 そして見間違いであってほしいのだが──なぜかこの状況で転校生は笑っていた。



 それはまるで、これからの学校生活に期待を抱くように。

 これでは、「誰かに無理矢理服を脱がされた」という可能性もなさそうだ。それが喜ぶべきことなのかは……難しい問題だが。


 というか、ならばこれは普通に犯罪なのではないか? 果たして学校の教室で裸になっている生徒を裁く法律があるのか、浅学非才である俺にはわからないが。この超能力者が跋扈ばっこする学園でもとりわけ犯罪的すぎる。


 あるいは俺が見ているこの風景は幻覚なのでは? 結構本気でそう思えてきた。

 元を正せば、俺が女体化するところからして既におかしかったのだ。

 そうか。

 これはきっと夢だ。

 言うが早いか、頬をつねってみた。

 鮮烈な痛みが感じられただけだった。



 俺の頭の中がパニックになっている間に、どうやら裸の転校生は黒板に名前を書くという、この非日常にそぐわぬ牧歌的な行為を進めていたらしく、少なくともその時間だけは、彼女の肌色は──彼女の背後は、マントによって隠されていた。


 しかしそれもつか

 名前を書き終えたらしい転校生は、くるりと回って──躊躇なく視線を(体ごと)こちらに向ける。


 彼女は満面の笑みで言った。


「本日この学校に転校してきました。人山ひとやまこずえです! 座右の銘は『慈愛の心』! 学校に通うのは初めてなので、ぜひ皆さん、わたしに優しく仲良くしてくださーい! らぶ!」





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