事件

 夜のオフィスは、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。定時を過ぎてどのくらい経ったか……ほとんどの社員が帰宅した後の室内で、蛍光灯の光だけが冷たく床を照らしていた。


 翔太は、残業を終えた後、佐藤部長に呼び止められた。「ちょっと話がある」という言葉に、嫌な予感がした。


「田中くん、君の仕事ぶりは、いつもながら感心させられるよ。…悪い意味でね。」


 部長は苦笑いともとれる笑顔を浮かべていた。しかしその目は冷たく光っている。翔太はまるで嵐が過ぎ去るのを待つかのように、ただ黙って頭を下げていた。


「この資料なんだけどさぁ……君の仕事はいつもどこか抜けてる気がするんだよね。ええと、3ページだったかな、ページの余白が左右で微妙にずれていたように見えたんだ。普通、気づくよね?」


 そんなことはないはずだ……翔太はその報告書を提出する前に、余白の調整を何度も確認していた。これ以上の叱責を受けないように。


 ――いつもそうだ……


 翔太は硬く拳を握った。部長はいつもささいな点を針小棒大に指摘する。それはまるでアラ探しをするような、悪意に満ちた行為だった。


「君のせいで、僕の評価まで下がるんだ。ホントにさぁ、困るよ。もう少ししっかりしてくれないと」


 部長の言葉が、翔太の堪忍袋の緒を切った。翔太はとっさに、目についた包丁を手にとった。それを部長の胸に、深々と突き刺した。


 部長の体が崩れ落ちる。机に突っ伏した部長の胸からは、どろりとした赤い液体が広がっていく。


 翔太は、自分の行動をただ茫然と見つめていた。そして、ふと、給湯室のステンレスに映る自分の姿を見た。


「――っ!」


 そこに映っていたのは、もはや彼の知る田中翔太ではなかった。つり上がった目は血走り、口は耳元まで避け、ピラニアのようなぎざぎざの歯が口からのぞいている。肌は灰色で、体毛はない。


 得体の知れない怪物。この世に存在するはずのない、おぞましい化け物の姿がそこにあった。


「なりたい自分になれる――」


 あの動画の声が、頭の中に響く。


 ――これが、なりたい自分?


 そうだ。そうだ。これこそ、自分がなりたかったもの……

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