あこがれの、なりたい自分

武州人也

つらい毎日

 朝の通勤電車は、まるで押しつぶされるような混雑だった。吊り革に掴まる手は冷たく、周囲の無表情な顔が彼の心をさらに重くした。田中翔太は、窓の外に流れる景色をぼんやりと眺めながら、今日もまた同じ一日が始まることを思い知らされていた。


 オフィスに着くと、佐藤部長が肩をいからせて歩いてきた。


「田中くん……この資料、何度言ったら分かるのかな」


 翔太は頭を下げ、小さな声で「すみません」。上司の叱責に耐える日々は、彼の心を少しずつ削り取っていく。


 昼休み、同僚たちが笑い声を上げながら談笑する中、翔太は一人で弁当を広げた。話に加わる勇気もなく、ただ黙々と食べるだけだった。彼の耳には、同僚たちの笑い声が遠く響き、まるで自分だけが別の世界にいるような感覚に襲われた。


 夜、疲れ果てた体を引きずるようにして帰宅すると、部屋の中は静まり返っていた。テレビをつける気力もなく、スマートフォンを手に取る。動画サイトを開くと、次々と流れてくるショート動画の中に、奇妙なものが目に留まった。


「あなたが心の底から憧れている自分に、なりたい自分になれる――」


 画面の中の女性が、低い声でそう囁いていた。翔太は一瞬その言葉に引き込まれたが、すぐに画面を閉じた。


「くだらない……」


 そう呟いて、ベッドに倒れ込む。目を閉じると、明日もまた同じ一日が待っていることを思い知らされ、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。


 翌朝、翔太はいつもより早く目が覚めた。体は重いし、頭はぼんやりとしていたが、奇妙なことに昨晩の絶望感は薄れていた。まるで何か別の力が自分の中に宿ったかのような、不思議な感覚。


 会社へ向かう電車の中で、翔太はふと、昨晩の動画を思い出した。「なりたい自分になれる」という言葉が、まるで呪文のように頭の中で繰り返される。


 なりたい自分……こんなみじめな思いをしない自分になりたい。駅までの道を歩きながら、そんなことを考えた。

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