罰ゲーム
伊藤沃雪
×××××××××
今でもときどき、あの瞬間の運命が掛け違えていたら……と懐古し、文字通りに苦汁をなめて胃がキリキリとし、願ってしまう時間がある。
ああ、もしあの時代に携帯電話が開発されていなかったら。両親が購入していなかったら。折り畳み式の液晶画面に着信通知が表示されたり、発信者の名前が表示される機能さえ付いていなかったら。私の耳がとても優良で、着信音を聞き分けてしまわないでいたら。父の書斎に入り、携帯電話を手に取り……知らない人の名前だけれど、誰だろう? そこで踏み留まっていたなら。父の役に立ちたい一心で、階段をばたばたと降りていって、家族全員の集まるリビングで……人一倍プライドの高い父の前で、「この○○って名前の人から、電話だよ!」と、無邪気に言ってしまわなかったなら——
家族の顔を見ようともせず玄関から出て行く、やや心細そうに揺らめく背中を、父の最後の記憶として見ずに済んだのではと……そう願わずにいられない。
かくして、幼女たる私は家庭崩壊を引き起こした!
そこそこに幸福と言える生活水準で仲も悪くなく、毎日「おはよう」「おやすみ」を交わしていた家族は次から次へと離散していき、最終的には私と母だけが残った。
母は最初のうち私を育てようとしたが、要らぬ不幸を呼び込んだ子を育てる気が起きなかったのだろう、無理もない。男を作って蒸発してしまったので、事情を察していたらしい母の遠縁に引き取られて育てられたのだ。
罪状に反して、穏健かつ熱心な育て親に恵まれた私は、あの過ちの反省から、『出過ぎた真似をしない』ことを心がけ続けた。生徒会やら部活やら目立つ可能性があることを全力で避け、ぼっちとリア充の間くらいに友達をつくり、空気のように過ごしてきた。そうして普通に勉強し、普通の大学に進学し、普通のOLとして就職し、働いている。
「佐々木君、コピー取っといて」
「はい課長」
煙草休憩だろうか、執務室の扉に向かう通りすがりでデスクへ投げられた資料を受け取り、コピー機に向かう。コピーくらい部下に頼まず自分でやればいいのに、何世代前の上司像なんだ。そうは思ってもおくびにも出さずに私は従う。波風立てるのは『出過ぎた真似をしない』信条に反する。コピー機の前まで行くと、ハイヒールが足先を圧迫してじりじりとした痛みを生じた。少しの間脱いでしまいたい欲望に駆られたが、目立ってしまうので我慢した。
普通の会社というのは突き詰めれば、潰れない程度に経営できているが一部上場でも大手でもない企業だ。大きな首切りはないがその分人員の入れ替えも起こらず、何十年も居座る社員がいる。そうした内から課長のような旧い気質の上司が生まれ、優秀な新卒からは敬遠されて、水に浸されたサボテンみたいに根元から腐っていく。モチベーションなどない。社員は私のような意志のない兵隊か、リスクを冒せずにしがみ付くまま老いていく猿人類。あとはパワハラセクハラアルハラ上等のマネジメント役をやってるつもりの人々だけだ。
「コピーできた? ……あれ、二部だけ? この後会議なんだから人数分必要に決まってるじゃん。使えないなあ」
三十分後、煙草の臭いをプンプンさせて戻ってきた課長は眉間に皺を作った。
四時間後にある経営陣が集まる会議の資料だなんて、当人がカレンダー登録もしてないんだから分かりっこない。
たった一言、何部必要だ、そう言えば良いだけのことだ。でも課長のテレパシーを受け取れなかった私が悪いので、頭を下げて謝った。執務室内から奇異の目線が浴びせられる。屈辱的ではあるが、嫌ではない。
「……佐々木さん、大丈夫? 気にする必要ないからね」
良心的な社員の人が小声で耳打ちしてくれる。私は大丈夫です、と笑ってデスクに戻った。
目立たず・普通の・空気みたいな人間であるためには、虐め抜かれてストレスで今にも死にそうな人間になってしまうと、同情的に見られて逆に良くない。似たような不満を抱えていそうな人達と仲良くし、ほどほどに飲みニケーションに付き合っていれば、味方の一人くらいはできる。私自身、別に死にたいと思ってはいない。
この生活は、生みの親が一生懸命築いたであろう家庭を崩壊させた私の贖罪を兼ねている。幼い日の愚かな私は、いらない気遣いをして家族全員を不幸にした。だがこうしている間の私は何もアクションを起こさないのだから、誰も不幸になりようがない。平和でみんな幸せだ。
愚にもつかぬ毎日を消費していたある時、高校の同窓会に呼ばれた。
学生時代にも影の薄い普通の女子として暮らした私は、五、六人くらいいるそこそこ仲良しの誰かが声をかけてくれ、集まりには呼ばれる、というヒエラルキーを維持していた。今回も飲みとカラオケだろうが、断ったりして誰かに迷惑をかけたくないので、参加するようにしている。
ところが、この日私は予想外の出来事に見舞われた。
「佐々木さん、実はずっと前から好きで……付き合って下さい!」
飲み会が終わって二次会に移行しようという時、元同じクラスの男性から告白されたのだ。
男の人に告白されるのは初めてだ。学生時代は空気役に徹していたからそんな気が起きなかった。モテる友達はいても、私自身は「いいなあ」と発する程度のガヤ、モブ。出過ぎた行為をしたら友達ではなくなってしまうかもしれないし、また友達を作り直すのは手間が掛かる。
告白してくれたのは元バスケ部だという男性で、学生時代から変わらぬ糸目が特徴的だった。スポーツマンなので体格は良いが、それ以外に目立つポイントはない。元気が良さそうなくらいか。
最も焦ったのが、それを大勢の同窓生の前でされてしまったことだ。
何てことをしてくれるんだ! という心境だった。 『出過ぎた真似をしない』はずの私が、死ぬほど目立ってしまっている。周囲からは見物客と化した同窓生達の黄色い歓声、ひゅうっという口笛なんかが響く。
私がまた注目を浴びるようなことをして、そのせいで誰かを巻き込んで不幸にしてしまうのは一番避けたかった。だからこの場ではいったん回避策を採った。
「考えさせて下さい」
困ったことになった。社会人になるまでの間、必死で保ってきた凡庸な存在感が、まったく予想していなかった形で他人の手により崩されてしまった。
その可能性を考慮していなかった自身の愚かしさに腹が立つが、事態はもう起きてしまったのだ。正直、告白してくれた糸目バスケの彼は好きでも何でもない。欠片ほども意識していなかった相手である。
どうしようかと迷ったが、悩んだ末にアプリでメッセージを送ると、彼は快く応じてくれた。私は彼と仕事終わりに駅前で待ち合わせの約束をし終え、電気を消してベッドに潜った。
私は『出過ぎた真似をしない』でいられれば良い。
告白を断ってしまうと彼も気落ちするだろうし、彼の友人の心象もよくない。周囲からもどうして断ったのかと聞かれて悪目立ちしてしまう。一方告白を受け入れた場合は、もしこのまま話が発展したとしても、お付き合いも恋愛も結婚も、普通のことだから何も問題ない。私にはこちらの方が都合良い。
……好きでもない人と付き合ったり、結婚することは変だろうか。恋愛がどういうものか、経験のない私には判らない。きっと愛している人と結婚したほうが幸せになるだろうとは思う。でも私には、幸せになることより人に迷惑を掛けない方が、遙かに大事だから……。どうにもならない気持ちは諦めようと言い聞かせた。
しかし当日、仕事を終えて待ち合わせ場所へと向かった私に、糸目バスケの彼は驚くべき言葉を吐いた。
「罰ゲーム……」
「そう! 本当ごめんね! 友達に言われて断れなくてさあ……」
糸目バスケ男の大して変わらない笑みがへらへらと歪む。私は呆然としてその顔を見ていた。見ていたくもないが。
彼が言うには、元バスケ部の仲間内での掛け事に負けた罰ゲームとして、あの晩、私に告白したのだという。
何が、ごめんね、だ? 罰ゲームという友達同士の何の拘束力もないルールで、私は槍玉に上げられた。
許せないのは、罰ゲームという知性の欠片もない遊びの中で、半ば外れ景品として扱われていることに対してではない。これまで全身全霊を持って『出過ぎた真似をしない』人間として生きてきた私が、この脳みそが一センチ入っているかも怪しい男のために引きずり出されたのだ。彼は私がどんな思いで、どんな覚悟でこの生き方を選んできたのか、何ひとつ知らない。だから平気で巻き込めたし、謝れば許されると思っている。
「……付き合おうよ」
「え? 何を……」
「ごめんねいいよ、じゃあ許しました終わりです、そうやって有耶無耶になったら都合いいんだろうけど、私はもう受け入れたから。付き合ってくれるよね。だってそっちから告白してきたんでしょう? メッセージもほら、ログ残ってるし今スクショも撮ったよ。じゃあひとまずは指輪でも見に行く? ああ、それより婚姻届を……」
「……え、え、ちょ、ちょちょっと待て、待てよ! 何言ってんの? 大げさすぎるし、仮に付き合うとしてもそれじゃあ今すぐ結婚しろって言ってるのと変わらないじゃん。流石にそこまでは……」
「そこまでは何。付き合ったら結婚するんじゃないの? 普通そうでしょ。付き合う行為って最終的には結婚して家族を作るためでしょう。子供欲しいよね? 私も家族が欲しいんだよ……私が壊したわけだから……そうだよ私がぶっ壊してやったんだよ!! 仲良くぬくぬくと皆で平穏に暮らしてた楽しい一家をさ、何の遠慮もない才能もない馬鹿な頭のせいで!!! だからお前なんかに私の生き方が壊されたって仕方ないんだよ!! 分かる? ××だけして早死にしろっつってんだよ!! 分かってんのかこの野郎!!」
気付けば私は喉を枯らして叫び、人生で一度も発したことのない汚い言葉を吐いて、ギャンギャン泣き喚いていた。デート用に買ってきた普通のバッグを振りかぶって男の肩に投げてやる。
糸目バスケ男はもちろんドン引きして、頭おかしいんじゃねえの、などと言って逃げ去っていった。それはそうだ。私は彼の背中が小さくなっていき、雑踏に混ざったあたりで落ち着きを取り戻した。次いで「頭おかしい」という発言に心底納得してしまって、独りでゲラゲラと笑い始めた。
やっぱり変に目立つと損をする。糸目男はきっと今この瞬間にでもアプリでメッセージを飛ばして、ヤバイ女だと触れ回っているだろう。糸目友達から噂は広まり、私は友達から徐々に縁を切られる。同窓会には呼ばれなくなって、各種アプリのフォロワーは数十人減って、地元でばったり会ったりしたら面倒で……。
だから私にとっての罰ゲームなのだ。それがもう可笑しくてたまらない。あの糸目男と結婚する、結果子供が生まれる、ギスギスした家庭を築く——全部が自分自身への罰だ。とてつもなく都合がよかった。……結果的には罰ゲームの度合いは大分減って、私の信条が剥がし落とされ、友達が数人消えるくらいの規模に格下げしてしまったが。
「くっだらな!」
私は大声で叫んだ。駅前で往来する人々が怪訝な顔をして振り向く。
一家離散の元凶が、せめてもの償いにと服役し続けてきたやせ我慢は、糸目バスケ男の無自覚な罰ゲームによって首を落とされ、処刑された。めでたしめでたし、おしまい。とはならない。積み上げてきた実績が崩壊させられても馬鹿馬鹿しいくらい明日が続く。 『出過ぎた真似』をすると誰かが不幸を被るのは間違いなかった。けれど、人生かけてここまでやって上手くいかなかったのだから、もう私一人の範疇で手に負えることではないのだろう。
あまりのくだらなさにお酒が飲みたくなり、飲み屋を探してふらふらと歩き出す。普通の女は終わりだ。飲んだくれて明日にでも胃潰瘍になりそうな、生きてる価値もないような女になろう。私は足に痛みを感じ、ハイヒールの踵を踏み潰した。
罰ゲーム 伊藤沃雪 @yousetsu
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